■ ■ ■

顎の縫合を終えると、そこで私は始めて深いため息を吐いた。手袋を外し看護婦に手渡すと、後処理の方法を簡単に指示して一度部屋から出る。廊下に出てみれば2人ばかりの兵士がそこにはいて、私と目を合わせると軽く会釈した。廊下の窓の世界はすでに明るく白み始めていて、夜中の2時ごろから降り始めた雪も、一時は吹雪いていたようだが、嘘のように落ち着いていた。息を吐けばその息は白く、瞬く間に空気に溶けていった。部屋の外と内ではとんでもない違いである。ふるりと肩を震わせて、それから今一度振り返れば閉じられた部屋の扉が見えた。兵士は何も言わず、ただじっと立っている。

「寒くないですか?」
「…いえ、」

思わず聞いてしまったが年若い兵士はそれだけ言うと帽子を目深にかぶったので思わず苦笑してしまった。今になって気が付いたが、自分は寝間着に白衣という随分な軽装であった。一先ず、着替えて少し休む必要があるだろう。その前に中尉に報告をせねばなるまいと中尉のいらっしゃる部屋に向かおうとした瞬間、廊下の向こう側から人影がぼんやり浮かび上がって近づいてくるのが見えた。その人影は此方にしっかりとした意思をもって近づいてくる。やがて、白み始めた廊下の明るさに照らされて見覚えのあるお顔が浮かびあがってきた。

「おはようございます、月島軍曹殿。」
「お早うございます。」

私と顔が合うと彼はわずかに口角を上げて、それからちらりと扉を見遣った。扉の前の二人の兵士も背筋を先程よりもいくらか伸ばし、静かに私と月島さんを見詰めている。

「今朝も冷えますね。」
「はい。それで、尾形上等兵の容体はどうでしょう。」
「問題ありません。一度、見られた方が速いでしょう。」

そう言って再び扉の前に立ちノブを回して軍曹を案内した。中はむわりと温かく、わずかに空けておいた窓からはひんやりとした空気も入りこんでいて先ほどよりかは聊か居心地はいいものになっていた。看護婦たちはすでに片づけを終わらせていて、私と軍曹を見ると何かを察したように静かに部屋を去っていった。がちゃりと扉が閉まるのを確認すると、軍曹は一歩踏み出して患者の横たわるベッドを見遣った。そしてブランケットを退くとじっと目を細めた。

「顎が複雑骨折をしていましたので正常な位置に戻し縫合しました。あとは、腕を骨折していましたが顎程の深刻ではありませんでしたので、添木で固定してあります。凍傷ですが、懸念していたよりも軽度で、今のところ壊死も心配ありません。触診でも臓器に異常はありませんでしたが、数日間様子をみなければ分からない部分もあります。いずれにせよ、2か月は安静にしてほしいですね。」

私が一息りそう言えば軍曹は退けたブランケットを再び掛けなおしてそうですか、と小さく一言宣った。

「本当に運がいいというか…日露帰りの兵士は皆一様に屈強で、全く此方が驚かされるほどです。…中尉には私から説明しますか?」
「いいえ、私からお伝えしましょう。それより、夜分からお疲れでしょう。ゆっくりお休みになってください。」

そう言って軍曹は私を見遣って再び口角を上げた。そのまま部屋を後にするのか、軍曹はくるりと振り返ると、扉へと向かって歩いて行ったので、その背中に思わず声をかけた。

「あの、彼は何か重要な任務でも任されていたのですか?」
「はい?」
「でなければ、なぜこんな門番を………いえ、申し訳ございません。今のは聞かなかったことにしてください。」
「………」

思わず自分の発言に驚き、それと同時に自分の言葉に後悔した。今まで疑問や患者に対して疑念を抱いたことは数知れない。だが、これは軍部のやることである以上、私は今まで一度として反論や馬鹿な質問などは控えてきた。考えるだけでも意味はないと思っていた。だが、殊にこの尾形百之助に関してはどうにも他人事のように思えなかった。すみません、と小さい声で謝れば困惑したように私を見る月島軍曹が見えた。軍曹は何か思案する様に私の足元を見ていたが、数秒後に視線を上げて口を開いた。

「尾形の意識が戻るのは、いつごろでしょうか。」
「…わかりません。ですが、あと数日はかかるでしょう。それに、凍傷で手足が数週間は言うことを聞いてくれないはずです。人がいなければ、食事も排泄も厳しいはずです。」

私がそう言えば彼はその髭の生えた顎に手を添えて、それからまた私の足元を見詰めたのち、再度口を開いた。

「門番の件は…中尉に聞いてみましょう。」

思わず目をまあるくして彼を見れば、彼はすこしだけまた口角を上げてそれから今度は二度と振り向かずに扉を閉めた。勘違いをされたような気もしなくもない。治療の際に気が散るから退けてほしいと私が依頼してしまったようで、真意とは異なっているが不躾なことを頼んでしまったようで少し胸が痛んだ。軍曹は武骨で硬派な軍人を地で行くような見てくれをされているので、一見とっつきにくさを感じさせるが、意外にも婦女子に優しいのでこの兵舎でよく言葉を交わす兵士の一人であった。別段なんともないように返事を返して下さったので、恐らく大丈夫だろうと踏んで溜息を一つはいた。

「………」

視線をちらりと横に向けて、患者、尾形百之助を見遣る。顔はパンパンに腫れて毛布でぐるぐる巻きにされた彼はもはやその原型をとどめていない。ふと、傍らの窓の外を見れば、もうすっかり朝日が世界を支配していて、朝日の光が白く染められた世界に乱反射してその目映さに眼がくらんだ。そういえば、この尾形百之助という男の存在を知ったのも、このような雪の降った後の静かな日であったと記憶している。








「聴いたところによると、花沢勇作少尉の許嫁だったそうだね。」
「…どこでそれを。」

彼の額宛てを戻そうとして思わずその手を止めた。思わず彼に視線を合わせれば、中尉は私を見上げて少しだけ慈愛に満ちた目を向けた。はっとして慌てて額宛てを戻し、取れぬようにいつものように施す。彼が私を見詰めているので居たたまれない。品定めをする様に私の反応を見ている。彼にその場しのぎの嘘など通用しないことはそれとなく感じていたので静かに口を開いた。

「情報将校さんは、本当に、何でもご存じなんですね。」

私がそう言えば彼はふっと口角を上げて、それから顎に手をあててその素敵なお髭に触れた。

「不躾ですまなかった。だが、確かめたくてね…。当時のことは、今でもありありと瞼に焼き付いて消えない。本当に、悲劇と言わざるして何と言うか。私も苦しんだが、君はそれ以上に苦しんだはずだ。故人を知る数少ない者同士、この気持ちを分かち合いたいのだよ。偲びあう者が欲しいのだ。」

そう言って中尉は私の手を取るとうっとりとした表情で一撫でし、それから私の手の甲を自身の頬や唇に摺り寄せた。思わずびくりと肩を震わせる。

「……私よりも、中尉の方がお詳しいはずです。私は、一度お目にかかっただけですから。」
「父君の花沢中将殿にもかな?」
「ええ。一度だけです。」
「そうか。」
「でも、一目で勇作さんが素敵な方であることは分かりました。私はその時、まだ17の未熟な少女でした。彼はすでに士官学校を卒業し、将来に夢をはせる有望な青年でした。」
「そうだったのか。」

失礼でない程度に手に力を籠めれば、中尉はするりと私の手を解いた。自由になった右手を左手で触れて、それから中尉と向かい合うように椅子に腰を掛ける。彼はそれを歓迎する様に目を細めて、そして私を見詰めて話の続きを促した。

「私は家の事で結婚は正直、諦めていました。ですが、勇作さんと始めてお会いした時に、初めてこの方ならいいかもしれないと。」
「品行方正、清廉潔白、見眼も麗しい上に、優秀で将来を約束されたような、祝福された人間であれば、女性にとっても大変素敵な男性だったでしょう。」
「ええ。私にとっては、西洋の物語に出てくる王子様のような方でした。本当に…素敵な方でした。私には勿体ないくらい。ですから、たった一度ですが……私は彼に恋をしたのだと思います。」

昼下りの日差しが室内を包み込む。アルコールの香りが充満したこの部屋で緩やかに時間が流れている気がした。視線を窓に向ければ、昨夜の雪でそこここに雪の積もった世界が広がっていた。中尉によもやこのような話をするなど夢にも思わなかったが、言っても言わずとも彼はきっとその後知りえただろうし、そうであるならばいっそのこと私が話した方がいいだろうと思った。彼の腹は底知れぬが、一体、一塊の何の力もない医師に何かをしようとは思わないはずだ。

「…花沢家の方とは別段何かがあったわけではありません。彼らは大変私に良くしてくれましたが、それ以上の思い出はないのです。……これで、満足ですか?」

そう問いかけてにこりと笑えば、彼はすこしだけ目を細めたがすぐにいつものようににこりと笑って、それからいつもの表情に戻られた。そしてその手を伸ばすと今度は私の頬に触れた。するりと輪郭をなぞり、そして、ゆっくりと艶めかしい手つきで私の顎に手を添えた。武人らしく大きく太い指先の動きに背筋がぞくりとする。ぼんやりと、勇作さんは果たして鶴見中尉殿のような、こんな大きな手をしていただろうかと思った。

「花沢少尉もさぞ惜しく思ったことでしょう…。あなたはと添い遂げることができなかったことを。先生も彼に負けず劣らず美しく、そして優秀だ。」
「……何が、お望みですか?」
「ふふ、君の長所は挙げようと思えば暇がないが、敢えて短所を挙げるとすれば、その疑い深さだな。」

彼はそう言うとふふ、と笑って私の顎から手を退けた。そして両の手を組んだ足の膝の上に載せるとつづけた。

「ただ、気になる噂を聞いたのでね。」
「鶴見中尉殿に素敵な噂を教えてくれているのは、一体誰なのかしら。」
「ふふ、それはあまり知らないほうがいい。」
「そのようですね。」
「君が、嫁ぎたがらないと聞いたのだよ。それを聞いた瞬間、もしやと思った。君は花沢勇作少尉殿を思うがあまり…」
「貞操を守っていると?」

私がそう言えば彼は肩を竦めた。

「御心配には及びません。私は別段、操をたてるために婚姻を避けている訳ではなりません。この国では健康でかつある程度の家柄がある婦女子がある程度の歳を超えれば嫁ぐことは自然でしょう。ですが、私がそうしないのは故人を思うがあまりの事ではありません。そんなことは無意味ですから。」
「すまなかった、君を傷つけるつもりはなかったんだ…。」
「…いえ、私も言葉を選ぶべきでした。申し訳ございません。ですが、本当に誤解です。私はアメリカ生活に慣れすぎました。今更、日本の習慣に倣って大人しく家に閉じこもることも、良妻賢母というものになることもできないだけです。」
「……そうか。」
「…話過ぎました。すみません、失礼いたします。」

そう言って腰を上げるとそのまま逃げるように部屋を後にしようと、扉に向かう。ノブに手を添えて回そうとした刹那、背後から中尉が私の名前を呼んだので反射的に振り返れば彼は私をじっと見たまま、口を開いた。

「八橋君は、縁というものを信じるかね?私は君を見ていて確信したよ。縁というものは存在すると。…君はどうやら、花沢家と強いゆかりがあるらしい。」
「…一体何のことでしょう。」
「私の部下に尾形百之助という男がいる。」

私がどういう意味かと首をかしげていれば、鶴見中尉はふん、と息を吐いた。そして視線を今度は窓に向けて再び外を仰いだ。此処からは逆光で鶴見中尉殿のお顔の表情が良く見えない。窓の外の光が部屋に入りこんで教会のステンドグラスのように目映いばかりに薄暗い部屋を照らした。それに目を細めて彼の言葉に耳を傾けた。

「尾形は、君の元許嫁の、腹違いの兄だ。」

初恋の葬式

2018.05.06.




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