■ ■ ■

花沢幸次郎中将が自刃なさったと聞いたのは祖国からはるか遠く、米国にいた時であった。大使館より電報が届き、その紙切れを手に取り目で眺めてからそれ以降、記憶がない。一体自分はどうやってその場から帰ったのか、覚えていない。ただ、時間がひどく遅く緩やかに流れていて、見る見るうちに鏡に映る自分は疲弊し、そして窶れてげっそりと痩せていった事だけは覚えている。祖国の勝利を喜ぶ間もなく、そして、遥か遠くの地にこの身がある以上、すぐに日本に帰ることはできまい。それは即ち花沢家の葬式にも行けぬことを意味していた。私はただただ花沢家に起こった一連の不幸に涙を流し、そしてはるか遠くの地からひたすらに祈った。息子を亡くし、そしてその父も自分の息子を追うように亡くすというのは、何という運命の悪戯であろうか。血の繋がりはないが、我が家族の事のように思うのは無理もないことであった。私はその夫となるはずであった人と、その義理の父になるはずの人を同時に失ったのであるから。








夜中に叩き起こされることには慣れていた。勿論、北鎮部隊の兵舎に勤務する医師として配属された時には、想像にも及ばなかったが。軍人というものは、正直私の想像を超えた生き物であったし、いつも彼らの要求はまるで出鱈目で脈絡がなく、理不尽且つ大胆なものであった。特にこの北鎮部隊は別格だ。この舞台には日露戦争帰りの兵士たちも多く、大陸であるならばいざ知らず、この北の大地で戦争でも起きているのではないかと心配になるくらいには、いつも兵士たちは重傷を負って運ばれてくる。中には、運ばれてきたのはいいものの、手の施しようがないほどに傷を負ってくる者もいる。始めの頃は一体どうすればよいか動揺したものだったが、人間の順応力とは恐ろしいもので、この頃は別段あまり感じなくなっていた。ただ、自分は医者として彼らをありとあらゆる力を以てして回復に向かわせる事が重要であり、それ以上深入りしないことがこの部隊で生き抜く上で最も重要なことであった。

「八橋先生、夜分に申し訳ありません。」
「いいえ。鶴見中尉殿。それより、患者の様子をまず見せていただけますか。」

するりと寝巻の上に白衣を羽織り、中尉の後を追うように廊下をずかずか進んで行く。真夜中の兵舎は嫌に静かであったが、今日は不思議とどこかしんとした中にも物々しいような雰囲気がして、間遠に厩から馬たちが騒ぐような声が聞えてきた。中尉が足を止めたのは兵舎のある一室であった。その部屋の扉の前には数名の兵士が立っており、中尉を確認すると皆一様に敬礼をし扉を開いた。中尉は私をまず案内すると、自分もその後に続いた。部屋は実に簡素な作りで、簡単な医療用ベッドが一つ窓際に置かれていて、窓はカーテンで閉められていた。部屋には暖炉が焚かれており、ここに一時間といれば汗だくになりそうだった。部屋にはいくつかのランプが点り、風もないのに揺れていた。ベッドの上には一人男性が横たわっている。掛けられたブランケットを退けるとそこには顔を腫らし息も絶え絶えに呼吸を繰り返す男の姿が見えた。男はブランケットだけではなくぐるぐると幾重にも毛布が巻かれている。肌は氷のように冷たく、そして血の気が失われたように青ざめている。

「…凍傷ですか。」
「私の別の部下が川で溺れているのを見つけたのですよ、本当に運がいい男です。」
「それは…指先や足先は壊死していないか見る必要があります。この時期の川となれば、内臓も危ないかもしれません。それから…顎がこれほどまでに腫れるのは尋常ではありません。詳しく見る必要があります。他に異常は見られないか確認と治療を行いたいので、看護師を2人、それから、医務室から医療器具を持ってきていただけますか。」
「勿論です。…先生、この兵士を必ず生かしてくれますか。この男にはまだ生きてもらわねば困るのです。」
「わかりました。彼のカルテを作成します、名前と階級を頂けますか?」

私がそう言って傍らの中尉を見上げれば、中尉は私を細目で暫く見つめてきて、それからたっぷり時間をかけて口を開いた。

「尾形。尾形百之助上等兵です。」

そう言ってちらりと横たわる男を見遣る。その刹那、瞼がわずかに開いて、目が合った気がした。


「…尽くしましょう。」

ばちり、と暖炉の火が静かな音の中爆ぜて、中尉殿の口角が僅かに上がった気がした。









八橋あやめ。女性でありながらこのご時世、医科大学を卒業し腕を振るう女医である。荻野吟子や津田梅子の再来とまで言われているが、確かに、腕はいいのだろう。その上、家柄も申し分はなく、幼少の頃より留学経験もある。女だてら、華々しい経歴を持ちながらも、この北の辺境地に来たのには、訳があることは彼女に初めて会った時から風の噂とやらで知っていた。

「…嫁ぎたがらないそうだよ。」
「はい?」

ふう、と肩に着いた塵を払い、一言口にすれば傍にいた男は眉間に皺を寄せた。そして私の真意を探るように視線を合わせる。椅子に腰を掛けて窓の外の様子を見れば、いつのまにやらしんしんと雪が降り始めていた。彼女はちょうどこの時期、一年ほど前にここに赴任してきた。

「八橋先生のことだ。」
「…はあ。」

困惑気味に返事を返す我が部下に思わずふ、と笑って、それからひじ掛けに肘をかけて顎に手を添える。そして思い起こすように目を細め、外の様子をぼんやり眺めた。この分だと、今夜は吹雪くだろう。


ねむって、ねむったふりをして

2018.05.05.



×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -