■ ■ ■

「………、」

するりと濡れた毛先から雫が滴る。一房とって香りを嗅いでみたが、石鹸の香りがするだけでそれ以上の香りはしなかった。ここに来てからもう一年、髪も随分伸びたなとぼんやり思って、肩に手を置いて首をひねった。それから今一度、体を湯船に沈める。先程彼に掴まれた顎がじんじんと時々疼いた。一体なぜ急にあんな行動に出たのだと眉間に皺を寄せる。何がそんなに気に入らなかったのだろうと、先ほどの診察に関して今一度意識を起こす。そもそも、尾形百之助という男は一体何を考えているのだろう。私に嫌がらせのようなことしか今までしてないが、本当に暇つぶしになっているのだろうか。

「(いや、むしろ、私が入れ込みすぎているのかしら、)」

尾形といると、自然と勇作さんが脳裏に浮かんで、そしてそれと同時に尾形という男を一層哀れに思ってしまう自分がいるのも事実だった。傷口を抉られながら、僅かに心が懐かしい気持ちになる。私は意識的にも、無意識的にも尾形百之助を通じてもうこの世にはいない人を捜そうとしているように感じた。そんな自分が浅ましくて、卑しくて、奥歯を噛み締めたくなるくらいには惨めに思えた。これではかつて鶴見中尉殿に言われた自分を同じではないか、そう思わずにはいられなかった。尾形百之助と花沢勇作は本当に血の繋がりがあるとは思え難いほど真逆の人間性を孕んでいた。それがなお一層、私の中で混乱を生んだ。選ばれた人間と、そうではなかった人間との境をまざまざと見せつけられているようで私の事ではないのに胸が痛んだ。どちらの立場にせよ、きっと苦しむのだろう。なんて救いようがないのだろうか。死んだ人間が必ずしも可哀そうなのではないのだと、尾形百之助という男は私に絶えず教えてくれるのだった。

「(あまり考えないようにしないと、私情を挟んではだめ。)」

両の手で湯を掬い、頬に付けて顔を拭った。開いた浴室の窓の外からは何も聞こえず、降り積もった雪が音をすべて吸収してしまったかのようだった。ここの冬は長く、そして静かだ。薄くなったかと思った雪景色がしんしんと降り積もった雪のせいでまた分厚くなって冬がもう少し長引くことを伝えているかのように、私の心ももう少し忍耐強くならなければならないだろうと奮い立たせると勢いよく湯船から立ち上がった。












「八橋先生、髪を切られたのですね。」
「はい。少しだけですが。」
「少しだけでも雰囲気は変わるものですよ、特に女性は。素敵です。」
「ありがとうございます。」

今日は珍しく自ら病室に訪れた鶴見中尉殿の診察から午後の仕事は開始された。近頃また傷口が疼き、化膿した場所からじとりと汁が出るのだというので、今回は念入りに傷口を清潔にし、薬での治療も開始して経過を見ることとした。本人は至ってはつらつなのだが、実際前頭葉が吹き飛ぶほどの重傷を負っているのだから、武人にとって傷は勲章とは言え限度があるのだと今一度申し上げて(再三言っているのだが)、くれぐれも興奮とご無理はあまりなさらぬよう再度忠告した。

「…恋でもされましたか?いや、それとも逆かな?」
「ええ?」
「いやあ、すみません、少し単純でしたかな。」

薬の処方を書いている間、突然鶴見中尉殿はにっこりとほほ笑んでそう宣ったので思わずぎょっとして視線をカルテから彼に移せば至って真面目に彼は私を見ていた。小首をかしげれば目の前の鶴見中尉殿は手を伸ばして私の髪の毛を一房手に取り、その感触を確かめるかのようにするすると親指で撫ぜた。

「髪を切られたので、つい。」
「私はもうそのような年頃でもありませんよ。」
「それは言いすぎですよ、先生。髪は女性にとって大事なものだ。何か意味があるのかと、思ってんですがねえ。」
「特に。昨日、お風呂に入って気が付いただけです。」
「そうでしたか。通りで尾形のにおいが消えていると思いましたよ。」
「…どうやらこの兵舎の皆さんはお鼻が皆さんよく効くみたいですね。」
「ほーお、他に鼻のいい奴はいたかな。」
「尾形上等兵殿ですよ。鶴見中尉殿がつけられている香のにおいを当てていましたもの。」
「ん?」
「白檀の香り。それは鶴見中尉殿の香りだと。」

私がそう言えば中尉殿はその手を顎に添えて、それから椅子のひじ掛けの肘をつき考えられている様子であった。

「…随分自我が出てきたものですな。」
「はい?」
「いいえ。それより、八橋先生がこちらに赴任してきてもう一年は経とうという処でしたね。」
「はい、お陰様で。本当に自由にやらせていただいております。此処は空気もいいし、患者の治りもはやいですから仕事が本部に比べて楽ですよ。忙しさは変わりませんが。」
「我々も腕のいい医師がいて心強い。先生の力添えが無ければ我々の目標は達することはできまい…。くれぐれもよろしくお願いします。」

そう言って鶴見中尉殿はにっこり笑われるとすっくと立ちあがった。帽子をかぶられてそのまま退室なさるかと思いきや、扉の前で立ち止まり、くるりと振り返るとまた私をじっと見据えて口を開かれた。

「八橋先生、一つだけ言い忘れていましたよ、」
「はい?何でしょう。」
「貴方は仕事熱心で素晴らしい医師でいらっしゃいますが…今回ばかりは少々お気をつけたほうがよろしいかもしれませんね。」
「…何のお話でしょうか?」
「私がくれぐれもと言ってお願いした手前言いにくいのですが、あの男、尾形とは少々距離を置いた方がいいかもしれません。」
「それは、どういう意味でしょうか。」
「仕事以外に深入りはしない方はよろしいでしょう。もうあの男も治るのであればなおさら。貴方も知らず知らずのうちに嵌っているかもしれないのでね。」
「嵌る?」
「ええ。あの男が嵌っているものと同じ泥沼に。…あなたはむしろあの男とは真逆だ。相容れないはずだ。あなたは十分、この時代にしては女だてら、祝福された側の人間なのですから。あの男と一緒に堕ちてやる必要などありませんから、ねえ。」

それでは、と一言宣うとそのまま鶴見中尉殿は部屋を後にしてしまった。時々彼は大事な核心を言わずしてこのように回りくどい言い方で人を試すような物言いをするが、まさに今がそうだ。これでは本当に私を助けたいのか、それとも気が付くか否かを見て楽しんでいるかのような気さえもする。

「(鶴見中尉殿も、尾形上等兵殿も、いずれにせよ、どっちも食えないというか、信用ならないからな…)」

彼の言う「泥沼」も「祝福された側の人間」、という例えも何もわからぬまま、部屋に取り残されて思わずぼんやり鶴見中尉殿の消えていった扉を見詰めたまましばらくは動けなかった。そして脳裡にかすかに、尾形上等兵はいつもこのような気持ちで私を見送ってあの物寂しい病室に取り残されて、闇の中何を思っているのだろうと、本当にふと思い浮かんだ。いくら考えてもあの男二人の考えていることなどわかるはずがないのだと思い、思わず深くはあ、と溜息を吐くと、カルテを終って一口グラスの中の水を飲み込んだ。












「…臭い。白檀の香りがする。」
「………」

開口一言彼はそう言うと至極不機嫌そうに眉を顰めた。いつものように診察を終えて帰ろうとすれば彼は珍しく分かりやすいようにむすっとして私の腕を取り、そしてグイッと引っ張った。特に気にしないように努めていたが、今朝の鶴見中尉殿の言葉が突っかかっていつも以上に尾形上等兵の動きに反応してしまい、肩を震わせてしまう。確かに、相手は病人とは言え、男女が密室で二人きりというのは難しいことになる可能性もあるだろう。体調も改善に向かっているし、モルヒネ中毒にもならず精神的にも強い尾形百之助という男がまさかこんな私のような女に手を下そうとは思わないだろうが、男と女である以上、確かに何かが起きてもおかしくはない。医者である以上開いては手を加えてこないだろうと近頃は得意になっていたが、あれだけ言われてしまうと流石のわたしもやや身構えたくもなる。ましてや、相手はあの花沢勇作の腹違いの兄で、先の大陸の大戦に生きて帰ってきた猛者である尾形上等兵なのだから。

「今日は朝からいろんな方を相手にして疲れたのです、早めに上がらせてもらいますよ。」
「仕事を適当にされちゃあ患者は不安になりますよ。」
「適当に診察は決して行っていません。ただ…あまり無駄話をしても睡眠時間を削るだけですよ?」
「俺の話し相手になることを最初にお願いしたはずではありませんか。」
「それはそうですが…今日は勘弁してください。」
「嫌だね。」
「な、」

思わずむかっとしてキッと彼をに睨みつければ、彼はふふん、鼻を鳴らすと髪をなで付けた。もう随分髪が伸びてきたようだ。そして木椅子に腰かける私に手を伸ばしてきたので思わず身構えれば、そんな私の反応をみていつものようにははっと小馬鹿にしたように笑うと伸ばそうとした腕を自分の膝の上に戻した。

「髪を切りましたね。失恋でもしましたか。」
「………どうしてこうも男性は余計な理由を考えたがるのでしょうね。」
「鶴見中尉殿にも同じことを言われましたか?」
「理由なんてありませんよ、伸びたから切っただけです。それに、少ししか切ってないのだから、あまり変わり映えしないはずです。」
「先生とは毎日会っているから気が付くんですよ。それに、女性の変化に敏感な男の方がモテますからね。」
「さいですか。」

彼の良く分からない話を聴きつつ早めに退散しようと適当に相槌を打ちつつ準備を進めていれば、やはり気が付いたのか聞いてます?と不機嫌そうに聞かれた。聞くも何も、早く出ていきたいのだから仕方がない。

「俺も退院したら久々に床屋に行きたいもんだな…」

呟くようにそう言って彼は視線を私から外す。彼の言う通り、そろそろ退院しても差支えない時期に差し掛かっている。彼の驚異的な精神力と屈強な肉体がこの苦難を予想より早く乗り越えさせたのだ。もう私が施すことも、やってあげられることもあるまい。どことなく、やはり私は彼とこの男を重ねていたのだろう、勇作さんにしてあげられなかったことをこの男に施せたことはある意味では私にとって救いであった。勿論彼には失礼だと思うし、きっと心外だろうが。鶴見中尉殿の言いなりになって彼を避けるのは得策ではないが、時期としては最適かもしれない。

「…尾形上等兵殿、もうあなたの腕も怪我をする以前ほどではありませんが、普通に生活をするには難しくないほどに治っています。もう私がこうして夜ごと診察をしなくとも、大丈夫なくらいには…」
「…ええ、そうでしょうね。」
「ですので、今日をもって…」
「先生、俺は花沢中将の妾の子です。」
「…何を、突然」
「突然ではありません、ご存知でしたでしょう。」
「………それは、」
「この間聞かれた質問をまだきちんとお答えしていませんでしたね。俺の母親は芸妓で、女にしては綺麗な方でしたよ。最期は目も当てられないほどでしたが。俺は貧しい茨城の村で母方の祖父母の元で育てられました。父はその間、一度も母に会いに来てはくれませんでしたよ、最期まで。」
「…もう結構です、尾形上等兵殿。」

突然端を切った様に饒舌に話し始めた彼のその横顔を見て、いつぞやに感じた項の冷たさを思い起こしゾワリとした。早くここから出ようと立ち上がろうとすればがしりと手頸を掴まれはっと息を飲む。彼を見下ろせばランプの明かりに照らされて彼の白い顔が浮かびあがっている。横目で私を見て、口元は既に先ほどの笑みは消え、きゅっと結ばれている。そしてもう少し話を聴いてください、と一言そう宣った。これ以上ここにいて彼の話を聴けば、きっと私は一番聞きたくなかった台詞を彼の口から聞くことになることは、何となくだが予想ができた。だが、予想以上に私の手首を握る彼の手の力が力強くて動けないのだ。病人のくせになんという力だと頭の裏で感心しつつも、彼のその瞳に見詰められれば息さえも付けぬほど背筋が凍り付いて動けなかった。

「まあ、そんな怖がらずに。」
「…怖いに決まっているでしょう。骨が折れているとはいえ、帝国最強の第七師団の上等兵を相手に、一対一で勝てる気がしませんからね。」
「無抵抗の女性をどうにかしようとするほど俺は落ちぶれてませんよ。ただ、先生に聞いてほしいんですよ。俺の独り言だと思って最後に聞いてください。」
「………分かりました。」

そう言って静かに木椅子に腰を掛ければ、尾形上等兵殿は漸くその手の力を弛めた。手を離して下さるかと思いきや、私の手を握ったまま彼は再び話の続きを始めた。そんなに逃げる事を警戒しているのか、何故こんなに彼は私に執着するのか。淡白な彼が、今まで一度として会話を交わしたことのない彼が何故私に拘泥するのか。その答えを今から自ずと分かる気がした。

「花沢勇作少尉と初めてお会いしたのは日露戦争の時です。あなたと同じように優秀で、清廉潔白な男でした。こんな俺を兄と慕ってくれました。」
「…そうですか。」
「親に愛された子供というのは皆ああなるのですね。先生は凛として一見取っつき難さを感じるが、花沢少尉と同様、纏う空気が一緒です。愛された人間には独特の雰囲気がある。」
「雰囲気?」
「ええ。俺には到底無いものを先生はお持ちです。」
「どういうことですか、」
「俺の言っていることの意味が分からないのが、何よりも証拠ですよ。」

ふん、と笑って彼はそう言うと久しく視線を私に向けた。彼に握られた右手がどんどんよ熱を帯びて熱くなってくる。どくどくと波打つ脈がきっと彼にも伝わっていることだろう。

「…だからこそわかる。あなたが何故花沢少尉を好いたのか。そして、少尉が何故あなたを好いたのか。」
「、」



焦がして閉じない胸の穴

2018.05.26.


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