■ ■ ■




「あやめさんはご兄弟はいらっしゃいますか?」
「ええ。五人兄弟なのです。私が一番末っ子で、兄や姉は手を焼いたと聞きます。」
「そうですか…賑やかそうで羨ましい。」
「そうですか?お恥ずかしい話ですが、喧嘩ばかりでしたよ。勇作様はご兄弟はいらっしゃるのですか?」
「私には、実は…兄が一人おるのです。」












「………、」

眼が覚めて頬に冷たい感覚がしたのでそれに触れてみれば、指の腹に冷たくひんやりとした水滴の感覚がして思わず息を吐いた。久々に、彼の夢を見た気がする。でも、どんな夢だったか、何の会話をしたのか、思いだせない。彼と初めて会ったのは17になったばかりの頃であった。彼と一体どんな会話を交わしたのか、どんな顔だったのか、ぼんやりとしていてよく覚えていない。だが、そのまっすぐに私を見据えるその透き通った目と、愛されて育った恐れと疑念を知らぬその瞳に私は僅かばかりか胸をどきりと高鳴らせたことは、ひどく覚えている。今はもう、鮮明には思いだせないが、笑った時に見せる笑窪や、白い八重歯がとても可愛らしくて、そのくせ青年らしくがっちりとした頼もしそうな肩に思わず視線を移さずにはいられなかった。穢れを知らぬ、この白い軍服がが映えて相応しかった。彼は正に、朝露を照らす温かな太陽の日差しのような、木漏れ日の隙間から差し込んで木の根を照らす柔らかな光のような、希望溢れる方であった。たった一度だけ、言葉を交わしその笑顔を見ただけで、私は生まれて初めて、人を愛したのだと思う。












「…失礼いたします。」
「おや、まだ日が昇っている時間帯ですが。」

ぺらりと一枚今朝の新聞を捲ってそう言うと尾形百之助は私に一瞬呉れたのちすぐさま視線を新聞に移してしまった。午後4時。確かに彼が言う通り日はまだこの冬の北海道でも目で確認できる程の時間だ。扉を閉めてかつかつと彼のベッドの横までくると、そのまま木椅子を引き寄せた。ひらりと白衣を手でなおして腰を掛ける。鞄を再度テーブルに置き、それから視線をベッドの上で上体を起こしたままの彼に向けた。これからあと一時間もすれば夕食の時間で、彼はその間の隙間時間を新聞を読んだり、看護婦に頼み込んで何やら本など(恐らく私に黙って煙草ももらっているはずだ)を貰ったり、昼頃には病棟を出てその辺を歩いてみたりと、治療にかかる膨大な時間を何とか埋めているらしかった。まだ折れた手は言うことは聞かないし、顎も重症なのでやんちゃはできないはずだが。

「今日は夜、緊急の会議がありますので。」
「お医者様はお忙しい御身分ですからね。」
「ええ。あなたのようにやんちゃを働いてくださる兵士さんはこのごろ事欠きませんから。」
「そうですか。」
「なので、今日はこの時間で診療を行います(普通はこの時間なんだけど)」
「仕方がないな、いいでしょう。」
「………(なんでいちいち上から何だこの男は)」

私が首の聴診器にてをかけると、彼はやれやれといった風に新聞紙を折り畳むとそれをベッドの上に置き、自ら着物の襟に手を差し込んで胸を晒して見せた。つるりとした肌色が日のもとに晒されて、それに対して無言で聴診器を持った方の手を伸ばす。どくんどくんと心音が小気味よくリズムを刻んでいて、瞼を閉じる。瞼を閉じてもなお橙色の日差しの光が瞼の裏にまで入り込んで本当の暗闇にはならなかった。

「息を吸って……吐いてください。」

そう言えば彼は素直に胸を張り、そしてふう、と息を吐く。肺の雑音も聞こえてこない。時折その他の臓器が声を上げたが、それも問題なかった。どのような武骨で無頼で、冷酷残忍な男でも、心音に至っては皆同じようにどくんどくんと小鳥のような音をあげる。この尾形も例外ではない。身体の構造は皆同じだ。神様は、よくこの肉体を創造されたと思う。時折、いや、この尾形を目のまえにするとよく頭に浮かんできた。どんなに生まれた境遇が違えども、この目の前の肉体は神が、もっと言えば彼の偉大な父と、そして美しかったであろう彼の母が与えたもうたものだ。

「異常ありません、どうぞ、風邪を引く前に終ってください。」

心音を聞き終えると閉じていた瞼をゆっくりと上げて、伸ばしていた手を引っ込めれば目の前の尾形百之助がいそいそと開(はだ)けていた襟を直している場面が視界に映った。今度は腕と顎を診ていく。失礼しますと一言断って彼の貌に触れる。生々しい縫合痕と伸びてきた髪で、以前と大分印象が変わってきてしまった。腕も以前よりかは痛みが引いて来たと見えて、ぐっと押してみてもあまり表情を変えない。

「週明けには抜糸しましょう。差支えないはずです。」
「そりゃよかった。痒くてしょうがなかったんですよ。」
「かかないでください。血が出ますよ。それに、菌が入れば厄介です。痒ければ冷やしますから言ってください。」

そう言ってやれば彼はじとっとした横目で私を見てからふん、と鼻を鳴らした。注射器を手に取りいつものようにモルヒネを注入していれば、彼は再び新聞紙を手に取り広げていた。

「八橋先生には、ご兄弟はいらっしゃいますか?」
「っ、」

かちゃん、と軽快な音が鳴ったかと思えば、足音にはそれまで手の内にあったはずの注射器が落ちていた。辛うじてサイドテーブルに置いておいたモルヒネの瓶は無事だったが、注射器にはヒビが入ってしまったのかそこからはどくどくとモルヒネが流れ出していた。慌てて手に取ろうと思ったが、怪我をして血を流せば患者に触れられなくなる、そう思って暫し躊躇って、それから鞄からもう一個別の新しい注射器を手に取った。

「…どうかしたんですか。」
「いいえ。」

珍しく笑みの消えた口でそう宣う彼に無表情で言い返すと、新しい注射器を片手に彼の腕を手に取る。彼は暫く疑わし気にじっと私を見ていたが、私が黙ったまま卒なく業務をこなしている様子を見て静かに視線を新聞紙に戻してしまった。

「…五人兄弟です。」
「そうですか。」

彼は視線を移さずそのまま相槌を適当に打つとぺらりと新聞紙を捲った。つぷりと彼の肌に注射器をたてるとそのままゆっくりと押し込んでいく。

「姉が一人、兄が三人です。」
「随分にぎやかなご家庭ですね。」
「ええ、お陰様で。」

窓から入りこむ橙色と群青色が自分の腕と彼を染める。彼が運び込まれてから今の今まで、彼とは夜のとばりが色濃い時間にしか会うことはなかった。日の光が当たる場所には似つかわしくない、まるで彼とは正反対だと思う。思わず、貴方に兄妹はいますか、という質問が口をついて出そうになって、それから寸でのところで口を噤んだ。

「姉はもう軍人の家に嫁ぎました。兄は、一番上は父の後を継ぎ、二番目の兄は海軍の衛生医に、三番目の兄は今、医学の勉学のために独逸に留学をしています。」
「華麗なる医者一家って感じですね。」
「馬鹿にしてます?」
「褒めてるんですよ。でも、お姉さんは医者にならなかったのですね。」
「姉はもとより勉学よりも、家に留まり家事炊事をしたり、子供をの面倒を見るほうが好きでしたから。」
「先生とは真逆の性格のようですね。」
「…女らしくなくて申し訳ござませんでしたね。」
「ははっ、何も言っていませんが。」

そう言って彼はふと視線を窓に向けて、それから注射のうち終った手をサイドテーブルに肘をつけると顎を載せた。僅かに開かれた窓の隙間から吹いた冷たい風が鼻孔を掠めて、私の頬をなでた。

「まあ、俺には到底、真似できない人生だ。」

私の耳に聞こえるか否かの小さな声でそう宣うと彼は視線を私に向けた。

「先生も、そうでしょう。あんたは他の女と同様、一生家の中に閉じ込められて死ぬ…そういう玉じゃないだろう。」
「さあ。人の幸せというのは、それぞれです。それに、私とて一人の非力な女です。」
「俺の眼にはそうは見えない。あんたはこんなところで終わる女じゃない。…今はこの北の僻地で冷や飯食ってますがね。」
「私はむしろ、望んでここに来たのです。」
「へーえ。先生の故郷はどこですか?」
「東京です。」
「東京からこの僻地に来るだなんて、お辛いでしょう。」

私がそう言えば彼はまた食いついてきたので思わずため息を吐いた。全てを鞄にしまうと、早々に退散しようとすれば、彼は例のごとく引き留めた。

「何故この地にわざわざ来たのですか。」
「移動の命令が下ったからこの地に赴いたまでです。北の大地に医者が足りないと…。」
「そうですか…」
「今日の診察はこれで終わりです。夕食もきちんと召し上がってくださいね。」

そう言って立ち上がった瞬間、ちょうど扉をノックする音が聞こえて、それから食事の配膳をしに来た看護師が室内に入ってきた。私を見た瞬間眼を見開いたが、会釈をするとそのままいつも通り配膳の準備を始めたので、会話はそのままお開きとなった。

「(不幸中の幸い、ね。)」



橙色が沈む頃

2018.05.20.



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