短編 | ナノ
夏中後刻

・・・

「…気がつかれましたかな?」
「すみません、私、少し横になっていたみたいですね。」
「ええ。お薬を飲まれてからすぐに休まれました。」
「その、ずっとこちらに?」
「いえ。ずっとではありませんが、お連れの方が貧血の薬を切らしてしまったと仰るので、私が留守を守るからと行かせておきました。」
「…重ね重ね、ご迷惑をおかけしてしまいましたね。申し訳ありません。」
「いいえ。気にさらないでください。」

彼はそう言うと湯呑みを手に取りゆっくりと飲み下した。私が横たわる布団のすぐ側の広縁にその身を預け、窓の景色を眺めているらしかった。崖のように切り立った場所にあるわけではないが、勾配がある場所に宿は位置する。数万、数十万年と言う歳月をかけて自然が作り出したらしい山々の景色が窓からは見える。眼下には小さいが川が流れていて、せせらぎがわずかに聞こえてくる。彼は私に気を遣ってか、「この部屋の景色の方が自分の部屋よりもいいので、つい眺めていました」と言ってくださったが、確かに暫く眺めていても飽きぬ景色ではあった。逗子は海と山と緑に恵まれた土地なのだ。

こうして毎日眺めているにも飽きない。ここからは段々畑のようにこの辺りの村の様子もよく見えたし、霧が薄ければ遠くに海も臨める。目が良ければ、段々畑にちらほらと建つ田舎家の窓から機を織る女性の姿も見えると小間使いの娘はそう言っていた。田舎から出て来た彼女はとても目がいいのだ。物ばかり読んで来た私には少し羨ましい芸当だった。この時間になると民家のほうには煙が立ち込み、海の匂いと相まって懐かしい香りがする。画家先生や、文豪たちがこぞってここに療養という名の散策に出てくる理由もわからなくないなと、初めて来た時に思ったほどだ。この景色で彼の心が一時でも休まるのであれば、それはとても喜ばしいことだと思う。

「本日はこれだけご迷惑をおかけしてしまいましたので、お夕食をご馳走させてください。お連れの方も是非。」
「あまり気にされないで下さい。それに、本日は改めましょう。貴女のお身体が心配ですので。」
「ええ…そうですね。」

確かに、これ以上何かあった際にご迷惑をかけることも忍びないと思い、今回は彼の言う通り、改めようと素直に思った。広縁の柱に身を預けて横たえ休息していると言うのに、背筋はスッと伸びている。この人はきっと眠る時も私のように口など開かず、ぎゅっと結んで綺麗な顔のまま眠るのだろうと思った。話をするときの柔和な感じと、大陸に居た時のあの緊張感との対比に思わずぼうっとその姿を眺めていたが、突然、彼が窓の方に向けていた視線を部屋の中に移したので、咄嗟に目を逸らしてしまった。

窓の向こう側の新緑と、彼の着物の白が合間ってあまりにも美しい対比だったため、見とれてしまったのだ。身を起こして乱れた前髪を整えると、少しだけ肌蹴そうになった着物の合わせをきちんと正した。戦時下の大陸では日本軍にとって筆舌に尽くしがたい局面を何度も迎え、運よく帰朝できたとて精神を病んでしまった者も多い。部隊が全滅することもあったあのような戦争で、彼は一体何を感じ、何を思ったのだろうか。そして、新聞社や国の打診で綺麗事ばかりを並べ立てた記事を見て、彼はどう感じたのだろうか。

窓の外の新緑が濃ければ濃いほど、頭の裏で人が堆く積まれた物言わぬ野晒しにされた死体や、物資が足りず日に日にやせ細り、顔や体が泥だらけになっていく日本兵士の顔が思い浮かんできてしまい、思わずかぶりを振った。私のような短期間だけあの地を踏んだ人間でさえ、このように気を病みそうになると言うのに、何故目の前の彼は正気でいられるのか。そう思うと何だか気が遠くなっていく気がした。

「何かございましたかな?」
「いいえ…少し考え事を。寝ぼけているみたいですね。」
「お茶を頼みましょうか。喉が渇いていらっしゃるでしょう。」
「いいえ。私が頼みます。鶴見さんもいかがですか?」
「ご無理はいけません。」
「いいえ。この通りです。一眠りしたら元気が出てきたみたい。」

私がそう言って笑えば彼は少し安心したように口元を緩めた。ゆっくりと起き上がり、廊下を歩いていた宿の女性に一言申付けた。部屋に戻ると、先ほどと寸分違わぬ姿勢で窓の外を眺める紳士が見えた。正直居心地はそういいものではなく、だからこそこうして動き回りたい気持ちになった。私は始終緊張していたが、彼にとっては私のことなぞその辺の小娘くらいにしか思わないのか、とても自然にこの部屋に馴染んでいた。変な気など起こそうと思えば起こすこともできるこの空間で、彼はその気さえ感じさせず、静かに眠る私の横に侍っていた。ふと、お顔に傷がなかった頃の記憶が思い起こされて、少しだけ体が強張った。

「あの、鶴見中尉殿、何かご用事がございましたら、どうぞお気になさらずに。」
「ふふ。ここには療養で参りましたので、そう大層な用事などありません。ですが、お邪魔なようでしたら戻りますが…」
「じゃ、邪魔だなんてとんでもございません。」

驚き慌てて私がそう言えば、彼はふふ、と再び笑ってそれは良かったと宣ったので胸をなでおろした。今の反応はきっと恐らく先ほどの小間使いの娘と同じような反応ではなかったかと思い起こされた。私が鶴見中尉殿に背負われ戻ってきたと言う驚きと、運んて来てくださった彼のその形相と、二つの驚きを孕んでいたように思う。鶴見中尉殿はご自身だって怪我人だというのに、宣言通り私を部屋にまで運んでくださったのだ。やはりきちんとしたお礼をしなければ無礼に当たるだろう。父母がこのことを知れば、きっと引っくり返って頭を下げるだろう。わが祖国にとって素晴らしい功績を残した軍人に礼を欠くことはできまい。やはり礼の機会を伺わねばと思い、こほんと咳払いを一つするや否や、当たり障りのない声色で声を掛けた。

「鶴見中尉殿は、療養後すぐに東京に戻られるのですか?」
「ええ。しかし、それも一時でしょう。すぐに私は移動することになるはずです。」
「移動?」
「ええ。北のほうに少々所用がありましてな。」
「そう、ですか…。東京に私も戻る予定でしたので、何かその際にお礼でもと思ったのですが…」

戦いが終わったとてそう易々と物事は治らないのだと暗に言われているようで、別の意味で胸が苦しくなった。それと同時に、同じく東京に戻るのならばと淡い期待をした自分を恥じた。いつだって彼は先のことを見通していて、私なんぞよりも多くを考え視野を広げなければならない方なのだ。私のために割く時間など、本当は惜しいのだろう。なんと自分は狭量で厚顔であったかと一人悶々とする。窓の外の空はすっかり橙色を帯びてきて、遠くの方で鳶の鳴く声がする。夜になれば宿に蛍が入り込んでくることがあるのだと、ここに到着した時宿の主人が皺の濃い顔を見せてそう言っていたのを思い出した。

「少し冷えて来ましたな。」

彼はそう言うと窓を少し閉め、広縁を後にして久しく部屋の中へと入って来た。一体、あの娘はどこの病院まで行っているのかしらと心配になって来たが、声には出さず、淹れたての緑茶をゆっくりと飲み込んだ。鶴見中尉殿は私が座していた机のすぐ傍の座布団に腰を下ろすと、その視線はやはり窓の方を向いたまま、湯呑みを傾けた。先ほども感じていたが、彼からは仄かに高貴な香りがした。逗子には寺院がたくさんあるが、僧侶が祈祷の際に匂わせる香のようなものの香りに似ている気がした。はて、この方は香水をつける習慣なんぞあったのかしらとぼんやり思ったが、そのような考えはすぐに彼の行動によって思考の隅へと追いやられてしまった。彼は思い出したかのようにすっくと立ち上がり、広縁の座椅子にかけてあったご自身の薄手の外套を手にし再び私の傍へ持ってくると、私の肩に掛けてくださった。

「すみません、」
「いいえ。私こそ早くに気づかず。夏とは言え、あまりご婦人がお体を冷やしてはいけまんからね。」
「…鶴見中尉殿は、」

二の句を継ごうと息を飲み込んだ瞬間、何故だか代わりに出たのは生ぬるく頬を伝うものだった。彼は私の顔を見てわかりやすく驚かれた顔をして、目を見開かれたまま微動だにしなかった。凛々しかった、今はなき眉をひそめ、そして困ったように八の字にしているらしかった。

「申し訳ない、何か気に障りましたかな?」
「いえ、違います。なんだか、まだ夢を見ているように思えて。」
「夢?」
「ええ。なんでもないんです。薬の副作用で、少し、精神が不安定になるみたいで。」
「気になさらないでください。」
「またあなたにお会いできるとは思いませんでしたので。本当に、夢のようなのですよ。もう、お会いすることも無いだろうと、そう思っていましたので。」

そう言って手で頬を拭おうとすれば、それは自分の掌よりも幾分も大きい節くれだったそれが拭って下さった。

「それは私もです。あなたにはまたお会いしたいと、そう思っておりました。」
「本当に…?本当ですか?」
「ええ、勿論です。」
「そう、ですか…」

思わず呆けた顔で彼を見上げれば彼は口角を上げた。そして彼は、あ、と小さく声を漏らしたかと思えば、袂から何かを取り出して机の上にそれを置かれた。ボロボロの小さな緑革製の手帳だった。所々が破れかけ、糊でつなぎ合わせた箇所が見受けられる。思わず恥ずかしくなりそれを手に取ると、慌てて此方の方に引き寄せた。彼のことだから中身を見たとは到底思えぬが、妙齢の女性が持つにはあまりにもちぐはぐな物で、少々気恥ずかしくなった。

「お返しが遅くなりすみません。」
「いいえ…。すみません、こんな汚いものを。」
「とんでも無い。職業上、手帳の一つや二つお持ちでも不自然ではありますまい。」
「ええ。新しいものを新調するよう同僚にも言われるのですが、この手帳には思い入れがあって…従軍するとき初めて手に入れた取材用手帳だったので、こればかりはどうしても手放せぬのですよ。」
「そうでしたか…」

彼はそう言うと静かに頷いて、それからすっかり冷めてしまったらしい茶瓶を手に取り湯呑みに流し入れた。私がしようと手を伸ばそうとすれば、それはもう片方の手で制し、そしてそのかわりに仄かに微笑んだ。

「先ほども申しましたが、貴女は人の心に訴えかける文章を紡がれるのが得意なようだ。それは小説でも、詩でも、そして記事でも同じです。」
「いいえ、そんな。まだまだ私の文章など、他の先生に比べれば…」
「いいえ、嘘ではありません。そうでなくては私がここまで貴女に一目置く事はなかったでしょう。ただ、見目の美しい妙齢の女性として記憶に残っていただけのはずです。」
「そんな、あまり褒められては困ります。」
「忘れもしません…。貴女のあの戦場での悲惨な中にも勇ましさを思い起こす描写…。 “敵を睨んで突進せし最期の面影を其儘に残しつつ累々として脚下に横はる屍を見ては「アア親もあるべし、妻子もあるべし」との感先起こり、情迫りて胸は裂けんばかり塞がりぬ”。」
「………」
「過激な文章だった筈なのに世間が受け入れたのは、貴女の才によるものだ。でなければ、ご婦人方の心にも響かぬと言うもの。“飛ぶように新聞が売れた”のは、貴女の一助もある筈ですよ。」
「…あ、鶴見さん、その、額が…」

私がそう言って指摘すれば、彼は興奮気味だったその声色を幾らか落とし、そしてああ、と返事を返すと額に触れた。どろりとしたそれは見たことのないものだった。

「失敬、怪我を負ってからと言うもの、感情の起伏によってはこのように傷口からあふれ出ることがありましてね…。ご婦人には少々気持ちの悪いものでしょう。」
「いいえ、とんでもありません。どうぞこれを使ってください。一向に構いませんので。」
「ありがとうございます。」

彼はニコリと笑われると私の懐から出した手拭を額に当てられた。当初驚きはしたし今でもきっと驚いた顔を隠せてはいないだろう。だが、それと同時に哀れな気持ちと、何故だか畏怖を感じた。言いようのない感情を抱くことはあの戦場でも何度もあったが、帰朝してからは久方ぶりであった。もし文章で表現しなさいと言われようものなら、きっと私は原稿用紙をただ悪戯に消費はするだろうが、核心の突いた表現はできぬだろうとぼんやり思った。今の彼には父性や紳士に抱く安心感と、腹が冷えるような底知れぬ不安が同居していた。

「…もし差し支えなければですが、」
「はい、」
「一つ、頼みごとがございまして。わざわざご婦人にお礼をさせるのは気がひけるのですが、お仕事であれば貴女にとっても宜しいかなと思ったのです。如何でしょう?」
「もちろんです、私にできることであれば。」
「良かった。一つ、貴女に記事を書いて欲しいのですよ。」
「記事、ですか?」
「ええ。」
「構いません。私でよろしければ。」
「良かった。あなたに是非、頼みたいことなのです。」

彼はそう言ってじっと私を見つめたまま、両の目を細め、手帳に置かれた私の手の甲にご自身の手を重ねわせた。思わずどきりと心臓が跳ねたが、彼はそのまま私をじっと見つめてきたものだから、それ以上は物を言うことが出来なかった。その後、小間使いの娘が部屋に戻ってきた時も、彼がこの部屋を去った時も、心臓が痛いほどに鳴り止むことは無かった。ようやく落ち着いたのは夜が更け、夜空が白んで来た頃合いだった。

・・・

花沢中将が自刃されたと言う衝撃的な情報が飛び込んで来たのは、彼と再会を果たした同じ年であった。一報を聞いたのは彼からで、私は勿論一矢報いるため、その記事をあらん限りの力を用い、“人心に訴えかけるように”書ききって見せた。第一報を報じたのは我が新聞社だったし、その頃の世間の混乱と驚きは、表現しきれぬほどのものであった。“まるで、仕組まれたかのように”。宣言通り北の大地へと降り立った彼からはのちに、直接感謝の意は伝えられず残念だと悔いつつも、電報で私の労をねぎらって下さった。

それからの間、幾度と無く北海道の支社からは時折、第七師団の不穏な動きを感じ取る内容を聞くこともあった。わざわざ本社から支社の北海道へ異動願いを出したのは自分の意思であったが、ある意味で、彼は私の行動さえも最初から読んでいたのかもしれない。今考えてみれば、あの美しすぎるほどの夏の日の再会も、仕組まれたことに過ぎなかったのかもしれない。分からぬことだらけであるが、一つだけ言えることは、私はもう彼の手中にすっぽり収まる駒に過ぎず、それでいて、それが最早心地よく思えてしまっているのだから、全くもって救いようが無いということだった。

数日前に送られてきた手紙には北海道が如何に寒く、そして過酷な場所かと言うことが実に細やかに書かれていた。“若いご婦人が体を冷やしてはいけない”。そうあの時のような注意を促す文章は何度も見受けられたが、“来てはいけない”、と言う文章は一言も書かれてはいなかった。そう、彼はそう言う類の男なのだ。

かつて、彼は私に人心に訴える文の才があると評したが、私からすれば、彼は人心を掌握する才があると評したい。そして、拒絶しないと言うことは、私にはまだ“彼にしてあげられることがある”、と言うことなのだろう。次にお会いする際には、私も手拭を沢山持って行こうと思う。

いつだったか、初めて大陸で彼にお会いした時の所感を手帳に書いていたはずだったが、今の今まで、すっかり忘れてしまっていた。
鶴見中尉は、有能で冷静で、時に冷酷な、“情報将校”だったでは無いか。

2020.06.14.
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