短編 | ナノ
夏中

「まさか…、ここでお会いできるとは思いもよりませんでした。」

私がそう言えば目の前の紳士はにこりと微笑み帽子を脱いだ。遠目からでも顔に傷を負っていることは確認できたが、額当てをする程の重症であったことは今、初めて知った。そして、あの噂は嘘ではなかったことが判明した。彼は上げた腰を再び目の前のベンチに下ろすと、徐に懐から手拭を取り出し、そしてその隣に敷いて下さった。遠慮をしたのだが、雨上がりで濡れていてはいけないと仰ったので、彼の好意に甘え隣に腰を下ろした。どんなに風貌が変わろうとも、彼は以前と同じ、紳士的で知的な男性なのだと思い、一先ず安心した。

うっすら濡れた地面からは緑と土の香りがした。上を向けば夏に迎えて木々は青々と茂っていて、時折風が吹くとさわさわと鳴り心地がいい。この辺りの森の葉の青は一層濃く、時折吹く清涼な風が体にとてもいいように思えた。雨が止んでからは今朝と同じように小鳥たちの声が何処からともなく聞こえてきて、そして耳をすませば遠くに潮騒さえ聞こえた。ここに来ると同時に、蝉の声が少しだけ弱まった気がした。少し歩いたせいか、頸に滲んだ汗を拭きチラと横を向けば、じっと目の前の湖畔を眺める紳士の瞳が見えて、思わずどきりとした。

「…その、痛みますか?」
「時折。ですがもうすっかり良くなりました。それより、貴女も少し雰囲気が変わられましたか?」
「ええ。少し身体を壊しまして。療養でこちらに来ていたのです。ここの温泉に当たればあらゆる病や怪我にいいと聞いたものですから。実際、とてもいいです。鶴見さんも入られましたか?」
「ええ。私もすっかり元気になりましたよ。この通りです。」
「それは良かったです。…私が帰朝した直後、大きなお怪我をされたと聞いたときはひやりとしました。」
「ふふ。どうやら私は悪運が強いようでしてね。それに、大陸で散った戦友たちを思うと、そう簡単に逝けません。まだ私にはやらなければならないことがあるのです。」
「頼もしいですね。でも、本当に…本当に、良かった…。」

思わず視線を下げてそう言えば彼は暫く黙した。そして優しい目で私を見ると、ふふ、と小さく微笑まれて口を開いた。

「しかし、驚いた事でしょう、この額には。私はすっかり鏡に慣れてしまいましたが。」
「いいえ。むしろ武人としての誉です。その傷は正しく、勲章と言うべきものですよ。誇るべき傷ではありませんか。」
「ははは、相変わらず貴女はお優しい。」

彼が笑ったので私も同じく口角を上げた。とはいえ、痛々しくないといえば嘘になる。彼のその額の傷は想像以上に痛ましかったし、悍ましいものだった。そう感じるのはきっと彼が怪我を負う前の姿を知っているからだと思う。数年前、私は新聞記者の特派員としてほんの短い間ではあるが従軍を果たしていた。実際は正規の従軍記者である岡本啓二氏に付いて行った形で、おまけのようなものだった。当時、従軍記者は新聞社一社につき一人という規則が存在し、岡本氏だけでもう厳しいくらいだったのだが、私は写真撮影係という名目で付いていくこととなった。岡本氏と所帯を持った小島栄は従兄弟であった。

私の記者としての才を見出し満州滞在の間は身の回りの世話と共に私に色々物を書かせたりした。この時代のこの国の男にしては珍しく柔軟な考えを持った男で、才能があればあまり性別には頓着しないらしかったが、それが私にとっては大変に幸運だった。おかげで今私は大きな贅沢はできないものの、女身一つでなんとか自分一人分と、小間使いの女性を一人雇うほどにはなった。近頃は女流作家や女性活動家台頭の追い風を受け、私も何と無くは名前だけ新聞や文学誌に取り上げられるようになった。現に、筆を急がせすぎて体を壊して療養に来るほどには仕事が舞い込んでいたのだ。

「もう長く宿泊されているのですか?」
「いいえ。まだ二日前に来たばかりです。帰朝後は何かと忙しなく、暫く休みが無かったものですから、久々にこちらまで足を運んだのです。戦争が始まる前にここに来て気に入ったのでね」
「…そういえば、今ふと思い出したのですが、戦地にいらっしゃった時もあなたはそう仰っていましたよね。だからきっと、私もここに来たのかもしれません。」
「はて、何の話でしたかな?」
「うふふ、覚えてらっしゃらないのね。大陸ではなかなかお風呂に入れないものだから、逗子を思い出されるって。」
「ああ。そんな事も話しましたかな。あの頃は忙しなかったものですから。貴女とお話しする瞬間は実に充実していました。一瞬でも母国を思い起こし、気が和らいだのですから。」
「少しでもお役に立てて光栄です。」
「それだけではありません。貴女の記事のお陰で我々を理解する若い御婦人方も増えたことでしょう。」
「いいえ。私なんぞ…」

視線を久しく移して目の前の水面を覗いた。池は西洋画のように深緑色をしていて、時折水面から魚か何かが跳ねて波紋を作っていた。この辺りは古いお寺と美しい田園が広がる農村地帯でもあるからか、時折遠くから微かに、機織り機のか細い音や馬のわななく音が聞こえた。潮の風に乗って時折何処からともなくお線香の香りが鼻腔に届いた。微かに覗く木々の隙間からは海辺を覗くことができた。日差しに負けぬほどのキラキラとした輝く水面が反射して目に届くたびにまるで金剛石のようだと思う。

こんな穏やかな光景を目の当たりにしていては、あの凄惨な戦争がまるで午睡の夢のようにも感じる。あの地獄絵図を本国の人間の多くが知らない。時折ふと思う。凡そ筆舌に尽くし難いあの状況を新聞に全ての映像を写真付きで報道したならば、一体、どうなっていただろうかと。連隊の殆どが全滅し体という体が破壊され、打ち棄てられ、野晒しにされ、そして腐っていくあの光景を。新聞社や世論、政府に阿り心ないことも書き込んだ従軍記者のこの仕事を、あの大地で眠る兵士たちはどう思うのか。隣の彼は、どう思うのか。

「あの、」
「なんでしょう」
「…いいえ、すみません。なんでもありません。」
「………」
「………」
「時に、」
「はい」
「お連れの方は、いらっしゃるのですか?」
「いいえ。私とお手伝いの女性一人です。」
「そうでしたか。いえ、失礼しました。もしお邪魔でなければ夕飯をご一緒させていただけないかなと。久しぶりに見知った顔に会えたので、少しお話しをしたいと思ったので。ここは静かで心休まりますが、如何せん、話し相手が居ないので少々退屈に感じていたのですよ。」
「奇遇ですね。私も同じように考えておりました。…でも、鶴見中尉殿もお連れの方は、」
「部下を一人連れていますが、それだけです。」

隣の紳士はそう言うとこちらを向いてにこりと微笑まれた。やはり大きな怪我をされたとはいえ、彼のその元来の性格が失われたわけではないようだ。思わず目を輝かせておれば、彼はその眦をさらに柔和にさせた。正直先ほど会った瞬間、かつての想い人の大きな変貌に驚きと同時に悲しみを覚えた。だが、彼のその言動を前にそう思った自分を恥じてしまった。見た目は確かにあの麗しい姿からは想像できぬ姿になってしまったが、彼は間違いなく「鶴見徳四郎中尉」、その方だった。となれば、かつて本国に帰る時に大陸に置いてきたはずの淡い想いが螢の光のように灯っていくのを誰が止めることが出来ようか。ジリジリと頬がだんだんと熱を帯びてくるのを感じた。

大きな怪我を負われたと人伝で聞いたとき、命辛々生きていたと聞いたとき、その度に胸の奥が疼いて思わず涙が溢れそうになったが、あまりに身の丈が合わぬ人であると手紙さえ送らなかったと言うのに、彼はどうしてこうも優しいのだろうか。きっと薄情な女だと思われても致し方がないだろうに。この人は昔からそうであった。他人に対して恐ろしいほどに優しかった。思わず目頭を押さえていれば、すっと横から何かが差し出されて、思わず視線を上げた。彼の手渡してくださった手拭を受け取ると、そのまま瞼に当てがった。怪我の影響で手拭はいくつか持ち歩いているから大丈夫だと、その後彼は教えてくれた。ほんのりと石鹸の香りがし、折り目のしっかりとした麻の手拭は、彼のその性格を物語っているように思えた。

「少し陽に当たりすぎたのかも知れません。旅館までお送り致しましょう。」
「いいえ、大丈夫です。少し、今少し、待てばきっと収まります。」

彼は私を覗き込むように顔を近付け、そして背中を柔らかく摩った。大きくて皮膚の硬い、軍人の手だ。私の首などいとも容易く折ってしまいそうな掌が、今は私を労り撫でている。それを考えただけでもまた意識がどこかあらぬ方角へ行ってしまいそうになる。

「すみません、持病の貧血だと思われます…」
「それはいけない。やはり送りましょう。さあ、私の背で忍びないが今は暫し辛抱して下さい。」
「辛抱だなんて、違います、私を背負わせるのが申し訳なくて…」
「では、横抱きでも構いませんね?」
「せ、背中に失礼致します。」

私がそう言えば少年のように目を細めて、それから宜しい、と一言仰ると宣言通り、彼は私の体を背に乗せて歩き出した。きっとどくどくと脈打つ私の心臓の音など、目の前の彼には筒抜けだろう。あれだけ煩わしく思っていたはずの油蝉達の声にさえ、今はもっと泣いてくれと切実願うばかりだった。軽々と私を負ぶさり歩き出そうとした刹那、私の袂からがさりと何かが落ちてしまい、彼は足を止めるとわざわざそれを拾って下さった。

「すみません、拾わせてしまって。」
「いいえ、手帳を落とされましたね。旅館でお渡しします。今はこのまま参りましょう。」
「ええ…」
「そういえば、最新作を文学誌で拝読しました。詩にも精通しているのですね。」
「とんでもありません。あれは試作で…」
「新聞社にはまだお勤めはされているのですか?」
「ええ、一応叔父のお陰で机は残っていて、評論などを書くことも増えましたが、記事を書くこともあるのですよ。今はこんな有様ですが。」
「…そうですか。」

彼はそういうと暫く沈黙した。私も天を仰ぎ、木漏れ日を目に映しながら、可能な限り速くなった心臓の音を聞かすまいと深呼吸を繰り返した。

2020.06.14.
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