短編 | ナノ
彼の優しさは分かり辛い1

使い古されたスポンジの様だと思った。使う毎に静かにヨレて、段々と色褪せて、そしてしょぼしょぼになったそれは、私の知らない間に消えていて、いつの間にか新しい物と交換されている。

「ありがとうございます。」

私がそう言えば返事は帰ってこなかった。リビングで静かに食後のお茶を飲んでいたらしい彼は、ぼんやりとテレビを見ていた。聞こえてい無いわけではない事くらい分かっていた。返事をするのが億劫だったのか、それとも何だか決まりが悪かっただけなのかは不明だが、彼はそうそう笑顔で”如何いたしまして”なんて言う柄の男では無かった。それなりの時間をこの男と過ごせば、誰でもわかる事だ。スポンジに洗剤を足してくしゅくしゅと泡立てる。ついさっき夕飯のハヤシライスを無言で平らげて麦茶を飲み込む彼のその姿を思い出してニトリで買った白い丸いお皿を泡で擦る。

「近頃ハンドソープも無いみたいで。どこ行っても見つからないの。」
「…ハンドソープくらい買い貯めとけよ。」
「そう言うの苦手で。なんか、がめついじゃ無いですか。」
「………」
「潔く無いと言うか、意地でも生きてやろうって感じ。」
「別に悪く無えだろ。」
「はあ、」
「だいたい、お前が損してるじゃ無えか。」
「まあ、そうですけど。でも最悪無くても生きていけるかなって。」

見てはいないが明らかにむすっとしたのが分かって、思わずふ、と声を漏らした。別に見たくも無いドラマの再放送を流している彼は、今どんな心境でこのドラマを見ているのだろう。案の定、いつの間にやらテレビは消されていて、ソファにどっかりと座っていたはずの彼はそこに居なかった。明るいテレビの声に入れ替わるように部屋に湿った空気が入り込んできて頬を撫でた。
雨の匂いは嫌いでは無いが、こうじっとりとした湿っぽいのは苦手だ。映画や小説の中での雨はいつだって美しいのに、どうしてこうも現実の雨はこうも不快に感じるのだろうといつも思う。ベランダには自分よりも大きな背をこちらに向けて佇む男の姿がぼんやりと浮かび上がっていた。流しっぱなしだった蛇口を止めて、ほんのりと漂う煙草の匂いに目を閉じた。

小さい頃から身近に煙草を嗜む男は居なかった。父は酒を飲んだが煙草は吸わなかったし、母親に至っては煙草も酒も飲まなかった。反抗期を迎えた兄が一度だけ部屋でこっそり吸った形跡があったが、それ以降は一度も無かった。私の中で煙草の匂いというのは、この男以外を思い起こす事は無いものだった。

家族や周りにいる様なタイプでは無いこの男は、私にとっていつだってとても新鮮だった。彼に連れられて行った初めて行った銀座のバーでは知らないお酒の名前を教えてもらった。車でレインボーブリッジで見たフジテレビのあの丸は何んだろうとか話したり、近所の焼き鳥屋さんに行った時には大将に親子だと勘違いされて大いに笑った(彼にはもう少し色気のある服を着ろと怒られた)。
渋谷で初めてタピオカを飲んだ際は、思いの外甘かったらしく飲みきれないからと押し付けられて結局二つ飲まされたし、初めて行った東京タワーでは何だかジーンと来て泣いたら鼻で笑われた。誕生日には、名前も存在も知らない様な、西麻布の予約制の焼肉屋さんに連れてってもらった事もあったし、下町にある場末のバーに連れていかれる事もあった。

そんな時、いつだって彼はこの匂いを纏っていた。お風呂に入っても、起き抜けの微睡みの中でも、この煙草の匂いを嗅げば、ありありと思い起こすことができた。彼は、私にとって人生の一部どころか、ほとんど大凡全てを占めていて、私は彼のそれに健気に付き従っていたなと改めて思う。

「尾形さん、」
「何だ」

名前を呼べば先ほどとは違ってすぐに返事がかえってきた。煙草を吸っている時の彼の目は少し淀んでいる様に見えた。真っ暗闇で空から落ちてくる雫が街を滲濡らして行く。駅前にあるカラオケや英会話や消費者金融の看板も、今夜はこの雨で水彩画のように滲んで見えた。唯一、男に咥えた煙草の赤い光がくっきりと見えていた。夜中の野良猫の声も、救急車のサイレンも無く、しとしとと降る夜の雨の音だけが鼓膜に届てくる。だからなのか、不思議と、今なら言えそうな気がした。

「尾形さん」
「何だよ」
「私、尾形さんのことが好きです。」
「………」
「でも、もう我慢ができなくて。」
「………」
「…今日、駅前のラブホの近くで見かけたんですけど」
「……」
「私、出来るだけ気にしない様にしようとしたんです。…でも、もう我慢できなくて。あなたを見ているともう泣き出しそうになるくらい、辛くって、」
「………」
「だから…」

私がそう告げて前を向けば存外目の前の男は冷静な目をしていて、じっと私を見据えたまま黙っていた。どれくらいの時間だったか。まるで空間と時間が歪んでいる様に感じた。まるで夜露に濡れた様なぼんやりとした視界のまま、私はそのままなかなか二の句が告げなくて、ガチャリ、という玄関の扉が閉まる音でようやく意識が戻ってきた。ああ、行ったのだな、と思ったら、身体中に漲っていた変な力が抜けて、ストン、とソファに体を身体を預けた。目を閉じれば遠くに雨の匂いがする。煙草の匂いは、もう、しない。

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