短編 | ナノ
律儀に傷ついている。

ガラスのコップのような女だと思う。注げば注ぐほど少しずつ少しずつ音も立てずに水嵩を増して行き、耐え切れなくなれば静かに溢れ出ていく。溢れ出たそれは、一体どこに流れて行くのだろうか。
正直、俺と連むような女だからと高を括っていた部分はあっただろう。女というのは正直苦手だ。母親がそうであったように、感情的な生き物はどう扱えばいいかわからなくなる節がある。褒められたような恋愛をしてきた訳でもないし、過去には他者を踏み躙り傷付けたこともあったが、性欲と情愛の違いはこれでも理解しているつもりだったし、比較的に今は安定していると思っていた。人並みでなくとも。

「尾形さん」

張り詰めたような中に僅かに柔らかな雰囲気を感じる。声でも感情というものは不思議と分かるもので、特に幼少期から物静かであった自分は相手の感情を推し量るのに細心の注意を払っていたからか、顔を見ずとも人一倍にその変化に敏かったように思う。しとしとと降る雨の中で、女のその声は一際よく通り、そして何処か緊張を帯びていた。静かに息を吐けば、白い煙が群青の空へと溶けて見なくなって行く。サイレンの音も止んで、雨の音さえもほとんど聞こえない。この季節の雨は嫌にじめついている。肌を撫でる湿り気を帯びた風に何度か眉を潜めて、それでも咥えたそれが静かに燃え尽きて行くまで見届けるかのようにベランダに張り付いている。ぼんやりと灯る街灯の下で、一匹の猫が通りを横切ったのが見えた。

「なんだ」
「私、尾形さんのことが好きです。」

後ろで自分を見つめているのが何となく分かる。こういう時の反応は正直用意はしていなかったが、かと行って反応するのも良いものかとも思った。そうこう思っているうちに女はジリジリと近づいてきているのか、一息吸うと再び口を開いた。

「でも、もう我慢ができなくて。」
「………」
「…今日、駅前のラブホで見かけたんですけど、」
「………」
「私、出来るだけ気にしない様にしようとしたんです。…でも、もう我慢できなくて。あなたを見ているともう泣き出しそうになるくらい、辛くって、」
「………」
「だから…」

ゆっくりと振り返れば女は室内にいるというのに、まるで夜露に濡れたような目をしていた。じっと見つめれば女もこちらを見据える。小さな肩は僅かに震えていて、自分で自分の肩を抱くように佇んでいる。小さな体が、いつも以上に小さく心許無く見える。いつものあの柔らかく大らかな雰囲気は一欠片も無い。傷付いて自信を無くして打ちのめされた小さな女が、そこに居た。その瞬間まで、正直、強い女だと思っていた。傷付いても傷付いても立ち直り、そして歯向かってくるような元気のあるような女だと思っていた。俺のような神経質さや正確さは持ち合わせていない代わりに、ちょっとやそっとじゃ動じない精神力があるのだと思っていた。俺のような特異な男でも受け入れられるような、そういった何かを持ち合わせているのではないかと。

褒められたような恋愛はしてこなかったのは事実だ。そのせいで自分の周りにはあまりよくない因縁が渦巻いていることも目の前の女は知っていただろうし、時には他の女の痕跡を感じることもあっただろう。その度にこの女はきっと見て見ぬ振りか、あるいは過去のことだろうと受け流しているのだろうと。それほどの器があるのだろうと。だが実際はそうではなかった。少しずつ少しずつ注がれて行くそれはもうすれすれの状態で、表面張力も限界で、溢れ出しそうなところに、雨のように一滴の雫がポタリと落ち溢れてしまったらしい。

行きずりで体を重ねた昔の女が家に押しかけてきた時だってこの女は慌てはしたが落ち着いて対処をしようとしていたし、付き合っても居なかったが勘違いでストーカー化していた女子大生には俺がいかに女関係にだらしなく如何しようも無い奴なのかを説いていたくらいだ。大丈夫だろうと、そう思っていたのだが、人間というのはやはり容量というものがあるらしい。我慢の限界といのは、個体差はあれどやはり存在するのだ。目の前の女は大丈夫だった訳では無くて、目の前の男の持ち込んでくるあらゆる事象に奮闘し、もがき、自分なりに折り合いをつけて答えを探し、そして律儀に傷付いていたのだ。小さなその肩を自分自身の手でいつも抱いて。

駅前、と聞いてぼんやりつい先ほどのことを思い出して、思わず煙草を側のコーラの空き缶に押し付けた。内実を話せば実に取るに足らない話だ。その昔、この女と出会う前に連んでいた女で、もう数年以上会っていなかった。昔付き合いで行っていた店で知り合った女で、それ以上の関係には発展もしなかった。袖触れ合うも他生の縁というが、殊に東京という人間の坩堝で暮らしていると、こういう事もあり得るのだ。聞いても居ないのに今はこの辺りの夜の店で働いている言い、今度またきて欲しいと強請られていただけの会話だ。どうってことはない。だが、確かにある一場面しか見ていないのであれば、男女のいざこざとも取れなくはなかったろう。一体どこまで見て聞いたかは知れないが、今この傷付いた女の前でどう釈明したところで寝言と同様に思うのだろう。人間はそう都合よくは出来ていない。

心のここにあらずという顔でぼうっと別の場所に視線を落とす女の横を通り過ぎ、玄関へと向かって行く。こんな時に限ってどうでもいいことが走馬灯のように頭の中を過ぎって、靴をつっかえながら思わず鍵を落とした。「ハンドソープがない」、そう言っていたことを思い出して、玄関を閉めて鍵を掛けた。雨は相変わらずミストのように降っていて、眉間に皺を寄せた。

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