短編 | ナノ
鶴見さんとバレンタインの後

「すごい量ですね…」

そう言って苦笑いをする。今日という日だからという理由ではないけれど、整えられたお髭の下の口元は少し緩んでいるようにも見えた。時間にしてほんの数秒の間、美しい彫刻のような横顔をぼんやり見ていると美術室の大きな彫刻たちを思い出した。彫刻たちは夜になると不気味にも思えたが、殊にこの傍の紳士は夜であろうと昼であろうと変わらなく美しかった。
再び視線を膝に置かれた紙袋へと移す。後ろの席にもこれと同じような紙袋が2、3個、所狭しと並んでいる。ガサゴソと私が漁って中身を改める事に運転席の彼は何も咎めたりはしない。それどころか、ニコニコと微笑みながら静かにその行動を見守っていた。全て「彼宛」であると言うのに、中身を開けては、ああでも無い、こうでも無いと不躾に批評する。とはいえ、これだけあると、流石に全てを確認するのは至難の技である。

「会社の子からの物は流石に持って帰ったが、取引先からの物は全部会社の女の子とかにあげて、それなりに捌けたつもりなんだがなあ。」
「これでもですか…」
「ああ。甘い物が好きだと公言しているからか、物の見事にチョコレートばかりだ。流石の私も見ているだけで胸焼けしそうな心持ちだよ。」
「これ全部食べたら一週間は鼻血が止まらないでしょうね。」
「ふふ。漫画みたいだな。」
「でも笑ってる場合じゃ無いですよ。賞味期限もあるだろうし…。今年も私が助太刀をする必要がありそうですね」
「心強いよ」

もうすぐ午前0時になろうとしている。本当にこの街は相変わらず夜更かしな街だなあと思う。金曜日の夜は繁華街のネオンが一等眩しく見えた。今一度紙袋に手を突っ込んで、最初に手に触れた四角い箱を取り出してみる。今までのものとは違う、品のいい緑のラインの入った小箱にはフランス語の筆記体が刻まれている。包装紙には筆記体の万年筆で、「いつも感謝しています。ありがとうございます。」と書かれていた。私とは違うその流れるような文字。そっと指の腹で撫でれば、まるで其処だけ仄かに熱を帯びた気がした。

「鶴見さん、これ、本命です。」
「どうだろうか。」
「ううん。そんな雰囲気がするの。分かるのよ、女の勘ってやつ。……食べてもいいですか、これ。」
「好きにしなさい。気に入ったなら、全部食べてもいいぞ。」

鶴見さんは視線もよこさず、微塵も惜しいようなそぶりも見せずにそう言った。ふと見えた時計はもうシンデレラが既に帰った後の時刻であることを告げている。前日まで重宝されたこの甘いお菓子達は、明日には魔法が解けたように消えていく。まるでお祭りの後のような静けさだ。そう思いながらチョコレートを一粒取って、そのまま口に放り込んだ。甘いけれど、甘すぎない。
私がそう言えば隣の彼は少しだけ口元に笑みを浮かべて、そうか、と頷いた。新宿の渋滞を抜ければ後はそう難しい道のりではない。海岸へと向かえば向かうほど普通車は疎らになり、トラックが増えてくる。口内の熱で溶けていくそれを舌先で弄んだり、転がしたりすると、まるで口付けをしているような感覚に陥る。すぐに消えてしまった粒を名残惜しく感じて、もう一度一粒口の中に放り込んだ。

「チョコが溶けるのって、キスしてるみたい。ほわほわします。」
「それは強ち間違いではないだろうな。ブラックチョコレートを口の中で転がす時の心拍数は、“情熱的”な口付けをしている時の心拍数のおよそ二倍だそうだ。」
「チョコって凄いですね…。」
「昔は媚薬として重宝していたようだが、科学的にも根拠があったらしい。」
「そっか…。今日この日に一体どれだけの人がほわほわしながら、キスをするんでしょうね。」

そう呟けば返事は返ってこなかった。代わりに目的地へとたどり着いたことをカーナビの無機質な女声が教えてくれた。地下駐車場は静まり返っていて、時折妙な風鳴が聞こえてくる。鞄を手に取り降りようとしたが、ふと右隣を見た。いつもならシートベルトを外し、ネクタイを弛めるのが習慣の鶴見さんが、じっと動かぬまま静かに息を繰り返している。どうしたのかと一声掛けようした刹那、突然視界に彼が近づいてきたかと思えば、顎をぐいと取られた。
あ、と声を漏らすのは先だったか後だったか。だらしなく空いていたらしい、私の唇に彼の少し薄い唇が重なり、瞬く間に私の口内に侵入を果たしていた。ざらついた熱い舌は、私の舌を絡め取るように“情熱的” に蹂躙していく。暫くの後、くぐもった声を出せば、案外すんなりとその熱は引き抜かれて、思わず瞑っていた目をパッと見開いた。呆気にとられてぽかんとした私とは相反し、目の前の紳士は余裕そうにペロリと唇についたチョコを絡め取っていた。

「確かに実際、甘いな。だが、甘過ぎなくていい。」
「…そんなに食べたかったら、言ってくださればよかったのに」
「それでは意味がない。」
「どういう意味ですか。もう、誰かに見られたらどうするんですか…」
「来ないさ。見られても別に差し支えあるまい。」
「お戯れが過ぎますよ…!」
「ふふ、ごめんね。…いやなに、自分で言っておいて気になってな。」

彼はそう言うと親指で私の唇についたチョコレートを拭うとペロリと舐めとった。一々官能的な行動を起こすこの目の前の紳士は一体何を考えているのか。呼吸を整えながら、思わずため息を吐いた。

「二倍の心拍数の上に熱い口付けをしたらどう感じるのかと思ってね。どうだ?」
「うーん…どうでしょう。胸はバクバクしてますけど…」
「そうか。チョコレートは凄いな、」
「チョコレートはあまり関係ないですよ。チョコが無くたって、私はいつも鶴見さんにバクバクしてますもん。」
「ほお、それは初耳だな」
「い、いつも鶴見さんが急に悪戯するから。」

いつも私ばかりがドキドキしていて、鶴見さんはいつも余裕で困ってしまう。私がそう言ってもう早く帰りましょうと捲し立てれば、鶴見さんはニコニコとご機嫌そうに笑ってああ、と答えた。

「私も、君といるといつも心臓がぎゅっとして、狂おしく思うよ。」

そう言って鶴見さんは口角を上げると、何事もなかったかのように運転席の扉を閉めた。助手席に残された私の「え、」と言う言葉は果たして彼に届いただろうか。きっと聴こえていても何も言わないんだろうな。後ろで荷物を下ろす鶴見さんを見ながらぼんやり思った。このチョコレートの贈り主は、自分が上げたチョコがこんな形で彼の口に渡っただなんて、きっと夢にも思わないだろう。
そう思うと切ないような、この紳士にここまで言わしめた事に優越感を感じてほわほわするような、ぐちゃぐちゃな気持ちになった。ギュンギュンと狂おしい程音をたてて止まない心臓に、「静かに」と命じる代わりに勢いよく車の扉を閉めれば、バンと乾いた音が辺りに一際響いた。2月15日午前0時21分、とても静かな夜だった。

2020.02.15.
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