短編 | ナノ
どうせ、何も残らないのならば

日曜日は嫌いだ。寂しさが一層、近づいてくるから。


「……靴、どこに行った、」
「どっかその辺に転がってるだろ。あとで後ろ見とけ。」
「………」


薄っすらと、玉葱の薄皮のような雲が空に掛かっていた。頭の上の空は群青色をして、空には白い月が遠くに見える。まるで絵に描いたような細い三日月だ。空はとても高くて、キンとした空気が漂っている。車の走行音に掻き消されてよくは聞こえないが、冬の早朝は、ごおおおという世界の音が聴こえる。風の音と、どこからともなく聞こえてくる、よく分からない雑音が混ざり合ったような音。

幼い頃、私はその音を“世界の音”と名付けた。小さい頃は不思議で、なんだか徐々に明るく白くなっていく視界と、地響きにも似たその“世界の音”が合間って、何となく好きだった。早起きは日曜日の次に大嫌いだったけれど。


「靴見つからないんですけど。」
「知らん。」
「知らんて。」


自分の足元をもう一度見たが、やはり見つけられなかった。今は走行中だし、助手席から身を乗り出して後ろを探すのは得策ではない。仕方がなく、はあ、と涙交じりに欠伸を一つすると、大人しく前方を向き、足元に落ちていた鞄を手繰り寄せた。マークジェイコブスの小さな鞄の中には折畳み財布にハンカチ、定期に名刺入れ、スマホ、そしてルージュココのガブリエルが一本、乱雑に転がっていた。失くした物は靴以外特にないらしい。何となしに黒く小さい筒をそっと手に取ると、上着のポケットに入れておいた。

運転席の男は驚くほど冷静に運転をしていた。自分は確か数時間前まで恵比寿に居たはずだ。恵比寿ガーデンプレイスに午後八時集合の合コンに参加していたはずだった。そして、案の定結局興が乗らず、二次会を抜けて一人で恵比寿で飲み直していたはずだ。そのまま終電になったら帰ろうと考えていたはずだが、ところがどうだ、此処は明らかに恵比寿ではない。

何処までも永遠に続く無機質な防音壁に、時折見える大きな山の峰々。山間の小さな街並みを見るに、恐らく、と言うよりも間違いなく高速道路であった。一体いつから私はこの不思議なドライブに付き合わされていたのか。ワインが未だ抜け切らない頭で考えようとするとやや頭痛を来した。だが、この運転席の妙ちくりんな眉をした怪しげな男の事は、忘れたくともよく覚えていたので、どうやら自分がロクでもない事に巻き込まれていることだけは容易に理解できた。


「御殿場って、一体何処に連れ出すつもりなの?まさか、樹海とか?勘弁してよ…」
「別に樹海なんて言ってねえだろう。」
「だって“尾形さん”は樹海がお似合いなんですもの。」
「ちょうど良かったじゃねえか。靴も無くしたし、裸足のまま行けば、そう見つからねえだろうよ。」
「冗談に聞こえないからやめて。」
「“お前”から樹海って言ったんだろうが、」


はは、と目元をピクリとも動かさず男はそう乾いた笑いを漏らした。スマホを見ようとしたが、どうやら充電切れらしく画面を触っても、電源ボタンを押してもうんともすんとも言わなかった。そうこうしているうちに空は薄っすらとピンクと白と橙の水彩絵の具を混ぜ合わせたような色を帯びてきた。すれ違う車はどれも長距離を走ってきたであろうトラックで、八戸ナンバーや、なにわナンバーなどとすれ違った。皆、途轍もない距離を走ってきたのだろう。品川ナンバーのベンツは、一等浮いているように感じた。

車内のカーナビに映る目的地は遥か先なのか、目的地の印さえ見えなくて、ただ鮮明に高速道路の途方もない道を表示するだけだった。カーナビに映る時刻表をチラと見て、思わずため息を吐いた。昨日が土曜日なら、必然的に今は日曜日の朝となる。『金曜日の夜はセックスで、日曜日の朝は愛だ』と言ったのは、一体誰だったか。私は日曜日は特に苦手だった。月曜日の方が、一体どれほどマシか。

日曜日は皆お休みだから、皆大事な誰かと過ごす。日曜日は、一人ぼっちにとって、とても寂しい日になる。人間というものは非常に不思議で非合理的な生き物で、死ぬときはお金も、家族も、愛する人も、何一つ連れて行けず、どうせ一人、土に還るだけだというのに。どうしてこうも人と繋がろうとするのだろう。どうせ、何も、残らないというのに。


「ねえ、尾形くん」
「…何だよ樹海には行かねえぞ。」
「行かなくていいよ。どこ行くのかだけ教えてくれない?」
「知らん。」
「…は?」


私が思わずぽかんとした表情で間の抜けたように口を開ければ、隣にいた男はチラと私を見て、はは、と笑った。性根の悪そうなその男の表情は、かつて美しい形をした坊主の頃の、幼気な面影さえ感じさせない。色白でどこか不思議な雰囲気を感じさせた寡黙な少年が、十年後、こんなおっさんになっていると知ったら、あの学生時代の尾形百之助は一体、どう思うのだろうか。嫌だなあと思うのだろうか。

それとも、メルセデスベンツに乗るほど成功したのだから、まずまずだな、と思うのだろうか。ごおおおおおと、風を荒々しく切って進んでいくような音が、絶えず耳に届く。サイドミラーから、朝日の頭の先が反射して、眩しさに目を瞬いた。車は、その光から逃げるようにずんずんと当てもなく前に進んでいくようだった。


「十年前のお前が今のお前を見たら、どう思うんだろうな。」
「ねえ、人の心読まないでよ。尾形くんこそ、結構可愛い顔してたのに、今はこんなおじさんになったって知ったら、きっと悲しむはずだよ」
「それはねえな。金の羽振りもよくなったし、悪くはねえなと思うだろ。」


どんなもんだい。そんな感じのドヤ顔で此方を向いてくる男に思わずケッと悪態をつく。辟易した表情で男を見やれば、男は至極嬉しそうに口角を上げた。


「本当に覚えてないんだな」
「何が?」
「真夜中に呼び出したのはお前の方だ」
「え」
「急に電話掛けてきて、俺の言うこと塞いでまで『逃げなきゃ、逃げよう、尾形くん』って泣きながら言い出したの、覚えてねえのかよ」
「………あの、誰の話ですか?」
「お前だよ。着信履歴見とけ。」
「今スマホ見れなくてさ、」


あはは、と乾いた笑いを見せれば、男は真顔で此方を向いて、それから直ぐにまた前を見つめた。どうやら、本当の話らしい。どうしよう、と思ったが、この状況、もうどうしようもないだろう。連れ出されたのは私ではなく、彼の方であったか。思わず「はあ…」と肺の奥底からため息を吐いた。アルコールの残留物のよるものか、それとも今の会話によるストレスか、ジンジンと痛くなってきた米神をぐっと抑えた。遥か上で鳶か鴉か定かではないが、大きい鳥たちが連なって飛んでいる。


「…覚えてないんだけど…ごめん。」
「ふん。」
「でも確かに、誰かに電話かけた気がした。尾形くんだったのか…(いいんだか悪いんだか)」
「いい迷惑だ。俺もあと一歩の所で酒飲む所だったんだぞ。」
「す、すみません」
「俺が仮に飲酒運転で免許取り消しになったら、お前を一生足にしてやるからな。」
「最低…てか、別に、放って置けばよかったのに。」
「放っておいてこの間みたいに街路樹の横で寝てるならマシだが、あの辺の適当なおっさんに捕まってラブホで朝起きるってのがいいのかよ。」
「いや…外でぐうすか寝てるより、ラブホのベッドで寝てる方がまだマシじゃないの?」
「汚ねえおっさんと寝てもいいのか、お前」
「まあ、それは嫌だけど…」


そう言って横を向けば、チラと男と目があった。相変わらず光のない真っ黒な目だ。深淵を覗く時、深淵もまた自分を覗いているというが、彼の目を見ていると、そんな気持ちになる。ぼうっとした頭のまま窓の外を眺めれば、すでにもう山の端から顔半分を出したらしい太陽が視界に映った。夜明けを知らせる橙色と黄色が世界を覆っていく。

その瞬間、世界の輪郭は全て、真っ黒になる。等間隔に並んでこうべを垂れる道路照明灯も、頭上に映る四角い電光掲示板や標識も、防壁を覆うように茂る木々も、時折見える街並みも、全て、光に照らされて真っ黒になる。きっと私たちも、光の前ではまるで影のように黒くなる。色白な三日月がもうあんなに遠い。世界の音だけが、この白と黒の世界ではっきりと聞こえてくる。


「何に逃げたかったんだろう…」


ぼそっとそう呟いて、肘を窓についたまま、助手席からの景色をぼんやり眺めた。そうしていれば、隣にいた男が微かに笑った気がして、再び横目で運転席の方を見た。


「日曜日から、逃げたかったんだろ」
「なにそれ、逃げれるわけないじゃん。」
「昨日お前がそう言ったんだ。」
「…そうだったっけ?」
「ああ。逃げ切れねえだろうが、逃げれるところまで逃げるのも、そう悪くはねえだろう。」
「尾形くん…」
「………」
「こんなこと、意味ないのに」
「意味のある事の方が世の中少ねえよ。」
「そういうもんかな」
「自分の存在理由でさえ分かっちゃいねえ俺たちが、今更何しようと関係ねえし、誰も見ちゃいねえ。」
「そっか…」
「世間は俺たちが思っているよりも忙しいんだとよ。」


それもそうだね。そう言って静かに笑えば男はそれ以上、何も言わなかった。世界の音だけが、私たちの耳に届いてくるだけだった。


「おかげで靴無くしたけど、ありがとう。」
「一言余計なんだよ。」
「あはは」
「靴くらい、幾らでも買ってやる」
「その言葉、東京に戻っても忘れないでね。私ずっと覚えてるから。」
「どうだかな、」
「何それ」


ふと、ポケットの中に手を入れてみれば、四角いそれが指先に当たった。思わずそれを手に取り、サイドミラーを頼りに唇に乗せてみた。白と黒が覆う僅かな時間、その瞬間だけ、私はたった一人、この世界で色を宿したような気がした。何だか理由はよく分からないし、至極単純だけど、少しだけ強くなれた気がした。

運転席に黙ったまま前を向く彼を暫く見つめた後、何となしにそのザラザラとしてそうな頬に、自分の唇を押し付けてみたくなった。何も言わずにそっと口付ければ、彼は驚いてハンドルを誤るだろうか。それともいつもみたいに人を見下したように嘲笑するのだろうか。そう思ったか否か、身を少しだけ乗り出して、唇を彼の左頬に押し付けてみた。ほんの数秒、ゆっくりと唇を離してみた。

瞳を開ければ、意外にも非常に驚き目を見開いてこちらを見る男と目があった。その表情はまるで驚いた時の猫のような顔をしていた。彼の白い頬っぺたにはくっきりと、ガブリエルの真紅が残されている。まるでチープなメロドラマのようだと私が笑えば、彼はむすっとして、すぐに前を向きなおした。随分面白いものを観れてしまったなとその後も肩を震わせていれば、彼は今まで以上に不服そうな目で私に抗議した。


「怒らないでよ。でも、これでバックミラーを見るたび、思い出すでしょ。」
「随分といい趣味になったな。」
「誰かさんの影響かもしれない。これは意味はあるキスなのか、それとも無いのか、私もこれからゆっくり考えてみるから。まだまだこの先長いんでしょう?」
「目的地なんてねえからな。」
「左様ですか。」
「……意味のねえキスならここから放り出すからな。」
「怖いよ、せめてサービスエリア内に放り出して」
「放り出されねえように意味くらい見つけとけ。」
「わかりましたよ。」


チラと再び彼の方を向いてみれば、朝日に照らされてより一層白くなった彼の頬にしっかりと、シャネルの赤が浮かび上がっていた。拭うのも億劫なのか、彼はハンドルを握ったまま、朝日から逃げていく。どこまで行けるかなんて、私も彼もきっと誰も分からない。だけど今この瞬間、意味なんかなくても、いつか必ず一人で逝く事になっても、今日この日曜日という日から、一緒に逃げてくれたこの人が傍にいた事だけは、永遠に確かなんだろうと思う。


「(意味なんて、お互い、もう分かってるくせに)」


2020.01.26.
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