短編 | ナノ

慣れぬ白粉を塗った顔がぼんやりと薄暗い屋敷の鏡に浮かび上がっている。今にも消え入りそうに揺らめく橙色の炎の光が室内を淡く照らしていた。タングステン電灯がない訳ではないが、こう言う神事の後は寧ろ、火を灯したほうがいいのだと言うお婆ちゃんの言葉を信じて柄にもなく、この灯火だけを頼りにしていた。

外は今はすっかり暗くなってしまって、今朝のぐずぐずとした天気はもうすっかり終わって晴れていた。早朝。純白のこの着物に袖を通した時はしとしとと小雨が降っていたが、彼が外に出た途端に不思議と振り続ける小雨の雲間から太陽が顔を出した。

「狐の嫁入り、」

ぼんやり空を見あげながらそう小さく独り言ちてみれば、傍で重い着物を着ていた私を慮って手を取っていた紋付袴の彼は空を見上げて「うむ、そうだな」と珍しく私にしか聞こえないような声量で小さく、そう頷いて嬉しそうにはにかんだ。

儀式は私の心情などをよそに滞りなく進んでいき、そしてあっという間に終わってしまった。実にあっけないものだと思う。女性誌では憧れの神前結婚式だのとよく特集を組んでは完璧な結婚式をと啓蒙し、若い女性たちにいろいろのことを指南していたが、そう簡単に行くもんでもないだろうと思っていた。でも実際やってみればそれは案外滞りなく進んでいき、そして呆気なく終わってしまうのだということが分かった。

何だか拍子抜けしたのと、これからどうなるんだろうという不安を抱える私とは裏腹に、式の最中、傍の彼を何度か見やったが、一体どこを見て何を考えているのか、いつものように穏やかな表情で前を向いているだけだった。

父や母は私以上に浮かれていたし、末っ子の晴れ姿を見届けようとはるばる15位で嫁いで方々に散ってしまった姉たちや、海軍兵士になってそれなりに忙しく勤めていた兄までもが私のこの姿を見に呉からわざわざ東京に戻ってきた。齢ももう20になると言うのにのんびりここまで過ごして来れたのは私が末っ子だったからだろう。かなり年も離れていたし可愛がられていた自覚はある。のんびりした性格と多少教養や知識が形成されたのはこの家庭環境のお陰かもしれない。

「(…本当にこれで良かったのかな)」

御神酒などを飲んでいたからか、薄れてしまった唇の朱を薬指で足して再び鏡の前を見る。結婚式はこれで終わりではない。これからが何しろ重要だというのに、何だか気持ちがそわそわして落ち着かない。それはどの結婚式でもそうなのだろうが、あまりの緊迫感と違和感に思わず肩が震えて今にもこの屋敷から飛び出してしまいたいくらいだった。初夜に関する手ほどきは昨日、嫁ぎ先からわざわざ準備の手伝いに来てくれた姉達にしてもらった。とはいえ、急拵えであったし、何しろ男性経験のだの字もない私に一体口頭で教えて何が身につくのか分からなかった(何も知らないよりかはましであるが)。

彼もまたこうして指南を受けたのだろうかとふと脳裏によぎって、でも彼のこの現在の家庭環境を思ってすぐに思考を停止した。歴史あるこの名家とはいえ、実の父親は酒浸りで心の病に罹り再起不能、幼くまだか弱い弟を連れた彼を支えてくれる人など、この家にいたのだろうか。このような家柄で後ろ盾がないわけではないだろうけれど、こうした細々としたことに関して逐一口を出して助けてくれる人などいたのだろうか。

いくら彼の人望が厚く人柄が良かったとて、たった一人で今日この日を迎えるにしても多大な苦労はあったはずだ。ましてや、彼のその職務を考えば尚のこと。それだというのに、何故彼はわざわざ私を呼び寄せ、ここまでしたのか。

今日の日に到るまでのことを思い起こそうとして鏡をぼんやりと見ていれば、だんだんと近づいてくる衣擦れの音が間遠に聞こえてきて、思わずピシリと肩が固まった。廊下の方を見やれば見たことのある影がこちらに近づいてきているのが分かって思わずはっと息を飲み込んだ。間も無くその影は障子の前に立つと、そのまま障子をスパンとあけ放ち、私を見つけるやいなや開口一言。

「そう緊張する事はない!」
「いや、でも…(緊張するわ!)」
「気持ちはわかるが、もうここまで来てしまったのだ。済まないが、どうか許してほしい。」

彼は珍しく焦点を私に向けると、開け放った時とは打って変わって静かに障子を閉めて部屋の中へと入ってきた。彼もまた先ほどの黒の紋付袴ではなく、普段きている着物に袖を通していて、その上には防寒の外套を着ていた。私の目の前まで来ると側にあった座布団に腰を下ろして、それから遠くにあった火鉢をたぐり寄せると灰をかいて整えた。

じんわりと火鉢の中の炭が溶岩のような色を出して時折パチリと小高い音を鳴らす。外からは耳を澄まさなければほとんど拾えないようなか細い声で泣くトカゲや虫の声が聞こえて来る。少しだけ開け放たれた円窓からはこの季節には珍しく粉雪が落ちてき始めているのが見えた。円窓の側には静かに敷かれた一対の布団がある。後戻りはできない、そう静かに言われている気がして思わず膝に置いてあった手を握りしめた。

「寒くないのか?」
「ちょっとだけ、寒いです。」
「ならばこれを着るといい、女性が風邪を引いてはいけない。」
「いえ、杏寿郎さんが引いてしまう方がはるかに問題ですから。」
「俺は風邪を引かない!」

根拠もないようなことを何故か自信満々に言うと杏寿郎さんは自分が来ていた外套を手にとって私の言葉を無視して私の肩に自身のそれを掛けた。本当にそうしないと気が済まないようで私が大人しくそれを受け入れない限り彼はきっとずっと外套を掛け続けようとしていただろう。そう言う人だ。彼の体温が移った外套はほんのり暖かい。普段は暑苦しいくらいの性格であると思うが、こう言うところで彼もまた私と同様の人間なのだなと感ずることができた。

「今日は冷えるそうだ。」
「いけない、湯たんぽ…」
「いや、必要ないだろう、」

彼はきっぱりとそう言うとにこりと笑って、それからそっと私の頬に触れた。真っ直ぐと私に向けた瞳は迷いのない澄んだ瞳で、まるで焔をのものを見ているかの様だ。昔、父がまだ羽振りが良かった時に母に贈った真紅の石の指輪があったが、まさにそれの様に思えた。物心がつく様になってからあれがルビーだということに気が付いてからは、隙を見て母の化粧台の中のそれをまじまじと見つめるのが私の幼少の頃のささやかな楽しみとなっていて、よく母に「私が結婚したら頂戴ね」と言ったのをふと思い出した。まさか今日この日に思い起こすことになるとは。とはいえ、それは順番的に一番上の姉にもらわれてしまったので叶わなかった。

「ふふ、」
「擽ったかったか?」
「いいえ、すみません…。杏寿郎さんの目を見ていたら、思い出してしまったことがあって。」

私がそう言えば口元をにこりと釣り上げながらもキョトンとした様に彼は首を傾げた。大の大人の男がするにはあまりに可愛い行為であるが、目の前の顔の良い青年がやれば更に可愛らしく見えてしまうから不思議だ。

「小さい時、母が持っていたルビーの指輪をね、『私が結婚した時に頂戴』って約束したのですが、結局、一番先に結婚した姉に取られてしまったんですよ。あの時私、姉が遠くに行ってしまうこともとても悲しかったけれど、あのルビーも遠くに行ってしまうのが本当に悲しくて。」
「ふふ、#name#は可愛らしいな!」
「私、小さい頃、あの赤くて綺麗な宝石にどうやら恋をしていた見たいなんですよ。」
「恋?石にか?」
「ええ。とても憧れていたんです。何回も何回も母の化粧台の中の小箱を開けては指につけてみたり、まじまじと見つめてみたり、日差しに翳してみたり…。日差しが宝石に差し込んで足元や私の手を赤く染めたり、小さく自分を映したり、キラリと光るの眺めているのが一等幸せでした。あんまり幸せそうだったから、最初こそ注意していた母も、最後には諦めて影で見てはクスクス笑ってたみたいです。」
「そうだったのか…。すまない、早く知っていれば、今日という日に同じものを上げられたんだが…」
「いいえ!そうじゃないんです、」

彼が眉を八の字にしてそう言うので思わずパッと顔を上げる。そして私の頬に触れていた彼の温かい手の様に私も彼の頬に手を伸ばした。そして親指で彼の眦に触れてみた。そうすれば彼は瞬きを少しして、それからにこりと笑った。

「もう私にあの石は必要ないんです。」
「?」
「もう目の前に宝石よりももっと綺麗なものが、私を映してくれているんですもの。きっと、今も、この先もずっと…。こんなに幸せで良いのかしらって、神様に跪いて感謝したいくらい、」

気恥ずかしさから伏し目がちに言って、それから彼の顔を見ようとすれば、するりと頬を撫でていた手は顎に添えられて、そのまま視界が暗くなったかと思えば唇に温かい温度を感じて反射的に瞼を閉じた。そして暫く柔らかく唇を啄まれ、私の息が続かず思わずクスリと笑ってしまえば目の前の男も同じくふ、と息を吐いて漸く離れた。

「すまない、君があんまり可愛いことを言うものだから、」
「いいえ、我ながら恥ずかしかったです。でも、本当のことですから。…今日はもうお互い、疲れてしまいましたね。」
「ああ、もう一緒に休もう。」

そう言うと彼はぎゅっと私を抱きしめて、側の灯火をふうっと息で消すと、そのままゴロンと後ろに倒れた。ゴロンと倒れると彼の香りが鼻腔に一杯広がって、とても不思議な気持ちになる。これが初夜だなんて本当に信じられぬほどに気が付けば心が穏やかになっていた。今朝は早起きしてお互い休む間もなかった。特に彼は落ち着かないのではないだろうか。本来ならば鬼を狩に外に出ていただろうに、今日は晴れの日だからと司令は勿論鎹鴉の影さえ見えない。それどころか、この屋敷は実にひっそりとしていて、自分たち以外誰もいないような空気さえ漂っていた。

もぞりと動いて彼の肩に額を当てる。うっすらと暗闇に慣れた目は夜目が少しばかりきいてきたらしくよく見れば彼のその瞳が見えた。障子から差し込む月光に照らされて彼の目は宝石のように深く鈍い光を宿っているように見えた。耳を澄ませば自分の心音と、耳の裏から彼の心音が聞こえてきた。自分たちの吸って吐く行きさえ大げさに聞こえる。鈴虫の音さえ遠くに聞こえ、遠くの方で静かにフクロウが時折その存在を知らせてくれた。私の耳朶に触れていた大きな手はやがて私の頬を再び撫でた。ちらりと上を向けばその赤はしっかりと私を捉えている。何方ともなく自然と背伸びをして彼の唇に吸い付けば、彼もまた同じ様に柔らかなそれを食んだ。そしてそのまま

「…」




「」


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