短編 | ナノ
逃げても逃げても無惨様に追いかけられる話

「何をそう逃げる?」

底冷えするような声に思わず動きが止まる。じっとしていても警鐘のように鳴り止まぬ心臓音さえ恨めしく思えた。心臓の音さえあの男に聞こえているのかもしれないという感覚に襲われ、両の手で自分の肩を抱いて体を縮こまらせ、手の内の物を握りしめて息を潜めた。まるで何度も何度も水責めにあったかのように額や背中に汗が滲み、そして息さえもままならない。息を整えようと必死に深呼吸をしようにも震えが止まらずそう簡単には行かない。そのうちにピタリとそれまで聞こえていたはずの衣擦れが止まり、あたりに静寂が訪れた。はっとして頭を上げたが先ほどと同様の真っ暗な世界が視界に映るだけだった。劈くような鉄の匂いに鼻が慣れてしまったのか、最早気にならなくなった。
このまま悪夢で終わって欲しい。次の瞬間には目が覚めて、いつもの毎日が訪れればいい。どんなに辛く苦しくとも、それでもまだ“人”としての生を全うできるのならそれで構わない。
足先からは未だ生ぬるい感覚がして、時間が経つにつれてそれはどんどん冷たくなり、そして凝固していくようであった。暗闇に目が慣れてくると、白い足袋が薄黒い墨のような色に染まっているのがわかる。自分のものではない血で染まった白い足袋を今にも脱ぎ捨ててしまいたかった、それもままならぬほどには身も心も憔悴仕切っていた。あの男は人ではない。そう気がつくのに時間はそうそうかからなかった。幼い頃から直感は優れていた方であったと思う。
“災厄”を呼ぶ体質であると言われ、山間にあった小さな村の一族からは蔑ろにされ、そして流れ流れて行き着いたのがこの屋敷での女中であった。使用人として虐められ罵られる日々には正直慣れていた。この家の主人の異常性欲によって虐められる日々は凡そ想像を絶するものであったが、字もろくに読めぬ女を雇ってくれるだけでも有難いと我慢していた。食べていけるだけで幸せなのだと、そう思って日々耐えていた。

「もう隠れる必要などない。お前はもう自由だ。」
「………」
「お前を痛めつける者はもうこの世にいない。一体、何が不満なんだ?…言ってみろ。」

戸が一人でに開かれたかと思えば、喉元を圧迫されて思わず嗚咽が漏れた。骨が軋む程の力で抱きしめられている事に気がついたのは数秒経ってからのことだった。背中に回った男の腕はそう屈強ではない筈なのに、まるで大蛇にでも絞め殺されるのではないかというほどの力で、最早抗う気さえ削がれた。頬をもう片方の手で押さえつけられ、無理矢理男の方に向かされると、凡そ人とは思えぬ獣のような赤い瞳が暗闇に炯々と光って見えた。


「離し、て、」
「下らん隠れんぼを止めると言うならそうしよう。何故逃げる?」
「人殺、」
「人殺し?それは私に言っているのか?」
「いッ…ーー!」


唐突に布を斬り裂く音が聞こえたかと思えば、ややあって背中や胸元に冷たい空気が這う感覚がした。服を切り裂かれたと分かるには然程時間は掛からなかったのは、その直後、部屋の窓から差し込んだ月光によって自身の肌色が露わになったからだ。男は温度を持たぬその細く骨ばった指で私うの肌に触れた。無数に刻まれた擦り傷のような跡と青痣をなぞったり、時折押して私の眉間に皺が寄ると静かに口角を上げた。


「お前を助けただけだ。でなければ、お前が殺されていたのだぞ。この家の者共に。」
「………」
「見てみろ、この傷を。凡そ人の所業とは思えないだろう?ん?」
「っ、」
「“助けて”とお前が呟いたから、助けたまでのこと。」
「…でも、殺す必要なんて、無かった、」
「この屋敷の主だけを殺しても、報復でお前はどうせ殺されていた。同じことだ。」
「自分の奥様まで殺すだなんて…」
「形だけの結婚だ。気にすることはない。」
「ならば、さっさと私も殺して、」
「はあ…、何故お前は分からんのだ。」


そう言うと男は私の下腹の傷を撫でていた手を止め、そしてゆっくりと再びその手を私の頬に寄せた。


「私はあの男のように加虐嗜好者でも快楽殺人者でもない。」
「………、」
「全ては哀れなお前を解き放つ為に行ったまでだ、そうだな、人助けと思えば話が早いだろう。」
「よくもまあ、そんな言葉を…」


男は自身の言葉の通り、一体自分が犯した罪がどれ程のものかを実際知らぬようだった。そうでなければこのように慈愛に満ちた様な手で私の眦の涙をこんなに優しく拭うことなどできない筈であった。恐ろしい。底なし沼に足を取られて身動きが取れぬ様に思えた。未だ震える瞼を下げて視線を扉の方に向ければ、廊下の端でこの家の主人の首が転がっていた。もう永遠に閉じられぬ真っ黒な瞳と目が合うと、もう逃げ場などないのだと、そう静かに私に諭す様であった。


「私は、最後まで人でありたい、」
「そう思うのも今の内だ。もう少し自分に正直になったらどうだ。お前の人生はこれまで不運の連続だった。だが、もうこれからは違う。私がお前を変えることができる。生まれ変わるのだ。お前はずっと私の側に侍ることのできる体になる。痛みも苦しみもない、素晴らしいと思わないか?」
「もうこれ以上耐えられない…見たくない、聞きたくない…!私はこれでいい。もう何もしなくていい、これ以上の不幸になんぞなれない!ここで私の喉をその指で掻っ切って、さっきやった様に…」
「…そうだな、お前を捨てた故郷の者全員殺さねば、本当の始まりにはならんだろう。」
「何を、言っているの…」


私がそう言って男へと視線を合わせれば、男は至極飄々とした表情で私を見下ろした。そして自分のものではない彼の頬についた返り血を口の端で舐め、次の瞬間には男はすっと顔を寄せたかと思えば、その鼻筋で私の首筋を撫で、耳元に口を寄せた。


「喜べ、」
「っ」
「私に魅入られたのだ。お前は実に“幸運”だ。」


男の低い声が耳元で聞こえたかと思えば、次の瞬間には自分の青白く震えた唇に男の薄い唇が押し当てられた。無理やり開かれた隙間に生ぬるいそれが進入したかと思えば、突然舌を噛まれて自分の鮮血が顎を伝った。ピリリとした痛みと一緒に自分のではない、男の生暖かなそれが注ぎ込まれてくる。もう自分はこれ以上不幸になどなれぬと思っていたが、そうではないらしい。朦朧とする意識の中、最後に視界に映ったのは、実に満足そうに私の頬を撫でる男の青白い顔であった。


「(そうか、この男こそが“災厄”そのものだったのか)」


2019.11.04.
×
「#オリジナル」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -