短編 | ナノ
君と生きる朝が欲しい

朝靄のようにぼんやりとする頭を振る。もう何度目か分からない欠伸をすれば、一人しかいない室内ではやけに大袈裟に聞こえた。障子の隙間から見えた世界は山の端が白んできて、雲が棚引いていた。群青色の空は遠くにうっすら白い月が見える。まるで枕草子だな、とぼんやりとする頭の裏で思って、それからもう一度だけ小さく欠伸をした。布団の上でこうして座していると、今にも眠ってしまいたくなる。それでも今一歩のところで踏みとどまって、漸くこの時間まで来た。
自分の膝を覆うあの人の外套を一晩で縫い切ってしまいたかったが、そうこうしているうちに朝を迎えようとしていた。切れてしまった部分を縫う時間よりも、あれやこれやを考えて、ぼうっとしている時間の方が長かった気がする。夜がこんなに長いなんて、彼の帰りを待つようになってから、本当に身に染みて思うようになった。

「(あともう少し、)」

あともう少しで朝日が昇る。そうすれば恐ろしいものは消えて、彼が帰ってくる。彼が帰ってきた時、私は一番に迎えてやりたくて、こう毎日毎日、彼と同じような昼夜逆転の生活をしている。不思議と彼は慣れているのか、その凛々しい目の下にクマもなければ、とても溌剌として元気であった(鍛えているからだろうか)。反対に、私はこの屋敷に嫁いでから否応無しにクマが濃くなり、心労のせいか頬が痩けた気がする。
「もうそんなことはしなくていい」と、幾度となく彼には言われたがそうもいかない。
『新婚だというのにそれらしいことは出来ず、いつお別れになるかも分からないのに、気が気でなくて、ぐっすりと眠れるわけがない。』
一度だけ本音を伝えた時、いつも快活で竹を割ったような性格の彼が、そのまっすぐな瞳をわずかに揺らし、少しだけ悲しそうに笑ったのを覚えている。そんな顔されては、もう二度とそんなことを言わないと誓わざるを得ない。彼もまたあれ以来、安易に寝ろとは言わなくなった。
鬼狩りのことや鬼のことも、ましてや柱のことなどは正直分からない。彼の心優しい義弟が幾度となく私に説明してくれたが、凡人の私にとっては余りに大事で、かえって想像出来なかった。一つだけわかったことは、愛した人が、いつ自分の窺い知れぬ場所でひっそりと逝ってしまうか分からない、という事だけだった。
夜の寂しい暗がりの中で、人知れず人が為に死んでいく。でもそのことをこの世の多くの人が知らない。自分とて彼と出会う前はそうであった。それが酷くもどかしくて切なくて、遣る瀬無く思う。

「…っ、」

寝ぼけていたせいか、考え事をしていたせいか、針が自分の指をぷつりと貫くまでぼんやりしていた。あっという間に指の先には小さな血溜まりができた。先ほどよりも辺りが白んで来て、障子の外側がぼんやり白くなって、小さな血溜まりを作る指先を照すのを見つめていれば、間遠に聞き覚えのある衣擦れの音が聞こえてきた。ハッとして振り返ったのと障子が開け放たれたのは、ほぼ同時であった。

「おかえりなさい、杏寿郎さん。」
「ああ、ただいま!」

彼はそう言って目を細めると、そっと障子を閉め、部屋に入ってくるなり私の肩を抱いた。慌てて針を針刺しに終って、スリスリと子供のように頬ずりをする彼の背中に腕を回す。ほんのりと焼けたような匂いと、微かに鉄の匂いがする。視線を彼の方に向けたが、今日も怪我はしていないようでホッとする。スリスリと彼が擦り寄る隙にその羽織を外してやれば、彼は目を合わせてにこりと笑った。そして私を抱きしめたまま、なだれ込むように布団へと横たえた。
今一度顔を見れば朝日よりも眩いその瞳が見えてどきりとする。「先にお風呂入りますか」と問えば、「後でな」と子供のような返事が返ってきて苦笑した。薄暗がりの部屋は外の白に照らされて、どんどん仄かに明るくなっていた。障子の向こうから数匹の雀達の声が間遠に聞こえる。衣擦れの音が先ほどまで一人でいた室内にやけに大きく聞こえて、生娘でもないのに不思議と耳が熱くなった。

「眠いの?」
「ああ、少し、な」

うつらうつらとしている彼の為に布団を肩まで掛けてやれば、彼はその目を何度か瞬かせた。お休みなさいと小さく私が言えば僅かに口角を上げたので、そのまま私を抱いて眠ってしまうかと思われたが、直後にすん、と鼻をピクリと動かすと、突然するりと私の手首を掴み、ずいと自分の顔の前に寄せた。

「怪我をしたのか?」
「いいえ。誤って自分を刺しました。」
「…そうか」

彼はそう言って血溜まりのできた私の人差し指を見遣ったのち、何を思ったのか、そのままパクリと口に含んだ。生暖かくて柔らかいそれにペロリと舐められて思わず肩が震えたが、もう片方の手で肩を掴まれているので身動きが取れない。そう大層な怪我でもないというのに、執拗に指を舐るので擽ったくて笑えば彼もまたふふ、と口角を上げた。

「擽ったいです。」
「針仕事はくれぐれも気をつけてくれ。」
「それは此方の台詞です。あなたのお仕事よりは、大分マシです。」

命までは取られないのですから。そう言えば彼は困ったように眉をハの字にして少しだけ笑った。

「それもそうだな!」
「…でも良かった。今日も無事帰って来てくださって。」

ホッと息を吐いてそう言えば彼は視線を此方に向けた。掴んでいた私の手を解放し、するりと私の頬に手を添える。剣を振るう人の手は特別だ。大きくて太くて骨ばっていて、そしてゴツゴツとしてザラザラして、豆が出来ていて硬い。私の手よりも大きなそれは暖かくて、冷え性の手など直ぐさま暖めてくれる。ずい、と自分から顔を近づければ、何方ともなく瞼を閉じ、そしてそのまま互いの唇を唇で塞いでいく。
自分の乱れた呼吸が耳に届く度に、胸が熱くて呼吸が早まる。瞼を閉じたまま、彼の首に腕を回せば、応えるようにさっきよりもきつく、優しく背中に硬い腕が回った。優しく回る腕とは相反し、ぬるりとした熱い舌が乱暴に自分の口内を犯して酸素を奪っていく。

「んん、」

くぐもった声を出せば、少し興奮したような男の洗い吐息が頬にかかるのがこしょばゆい。一頻り口づけを交わし離れたかと思えば、彼は突然自分の着ていた隊服のボタンをぷつりぷつりと外して、あっと言う間に肌色を露わにした。鍛え上げられたその胸の厚さや、腹筋の凹凸がすっかり明るみになった朝の世界に顕になって、はっと思わず息を飲んだ。

「困った!」
「杏寿郎さん…?」

私を見下ろす彼の頬はすっかり上気し、いつもキリリとした曇りのない瞳は、今は熱に浮かされとろんとしている。私の手を取ると自分の頬に寄せて、怪我をした指を再びペロリと舐めた。

「大人しく眠ろうと思ったが、眠れそうにない。
…いいか?」

彼は態と私に言葉を促すのが好きだ。言葉にするのが癪で、でも抗うことは到底出来なくて。小さくこくんと頷けば、杏寿郎さんはとても満足そうに笑って、それから私の胸にゆっくりとその大きくて暖かい手を這わせた。

2019.10.28.
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