短編 | ナノ
寂しい女の子と鶴見さん

上京して数年。こう言う夜を迎えることは初めてではないけど、然程多くもない。今流行りの『パパ活』ってやつに手を出すほどの年齢でももう無い。ただ、どうしようもなく一人で居たく無い夜がある。今夜、そんな私と同じような夜を過ごす女の子が、一体この街に何人いると言うのだろうか。

「君はあまりお酒を飲まないんだな。」
「今日は飲みたく無い気分なんです。」
「ふふ、そうか。私は助かったよ。随分な下戸なんでね。」

彼はそう言うとふふ、と小さく笑って、それから上着綺麗に上着をソファーに掛けた。ネクタイをいくらか緩めて肩に掛けて紅茶の準備に取り掛かる男性の姿が真っ暗な窓に反射して見えた。手伝おうとすれば無用とばかりに窓越しに視線を合わせてきたので、立ち上がった腰を再びふかふかのソファに下ろした。先ほど私と同じくらいのホテリエが持ってきたルームサービスワゴンの上には美しい陶器の茶器と合わせてステンレスポッドの注ぎ口から湯気が上がっている。彼はそれを慣れたようにテーブルに載せると紅茶を注いだ。

「寝る前にはあまりよろしく無いんだが、ここの紅茶は直接バイヤーがスリランカから取り寄せているらしくてね。ブレンドがなかなかなんだよ。」
「よく使われるんですね、ここ。」
「ふふ。君が思っているような使い方では無いけれどね。出張や地下の会議室でセミナーなんかをする時に使うんだ。」
「そうですか。“ツルミさん”は偉い人なのね。」
「そうでも無い。君ほど頑張っているかと問われれば、あまり自信がないよ。」
「………」
「昔は若かったからなりふり構わず仕事に没頭していたけれど、この歳になると、いい意味でも悪い意味でも仕事の手の抜き方を覚えてしまう。」

隣に腰を掛けた彼は紅茶を一口楽しむとそのまま視線を窓の方へと向けた。私は反対に横で姿勢を崩す事なく足を組んでリラックスをする横の紳士を見た。先ほど階下のホテルのラウンジで見かけた際、目が合った瞬間まるで獲物に狙われた草食動物のような気持ちになったが、こうして見ると普通に素敵な紳士であった。全てが完璧に見えた赤の他人のこの人が、たった数時間後にこうして密室で私と隣にいる事が実に不思議に思った。

「今更なんですけど、何で私の方に来てくれたんですか。一緒にいた人たち、驚いてましたよね。」
「さっきも言ったが私は下戸でね。接待されても飲む事ができなから、どう切りあげようか困っていたんだよ。そんな時に君を見つけた。」
「なるほど、それで。赤の他人なのにまるで知り合いのように近づいていったわけですね。手を振られたとき、どうしようかと思いました。」
「一か八かだったけどね。君が聡い子でよかったよ。おかげで一芝居うって何とか抜け出せた。」

彼はそう言ってにこりと微笑むとカップをソーサーに戻した。埃一つない革靴に時折袖から見えるたかそうな腕時計。スーツはオーダーメイドらしく寸分違わず緻密な仕事によって彼の美しさをより一層引き立たせていた。街ですれ違ったなら、きっと私は彼を目で追ってしまったと思う。実際、数多の人がいるラウンジで彼を見つけたのだから。

「でも、本当にお礼はこれで良かったのか?」
「ええ。結構です。ここのホテル、泊ってみたかったんです。私のお給料じゃあラウンジで一人過ごすので精一杯。」
「君のような若い女性には確かに手が届きづらいかもしれないね。」
「私よりも若い女の子がよく羽振りの良さそうなおじさんとよく消えていくんですけどね。」
「ふふ。でも、君はそういう類の女性には見えなかったけれどね。今もそうだよ。」
「どうしてそう思うんですか?」
「年の功かな。仕事を通して私はいろんな人間に会ってきたかから、何となくわかるんだよ。」

テレビもつけないホテル上階の一室は実に静かだった。ビルトイン空調は高級ホテルらしく静音で、ビル風も通さぬほどの分厚い窓からは空の星にも負けぬほどのまばゆい光が見えた。足元の高級絨毯を素足で触れてみたくてそっとサンダルのストラップを外すと、そのまま足の裏をつけてみた。サラサラとしてとても気持ちがいい。電気をつけず橙色の間接照明だけで成立したこのだだっ広い室内はまるでいつかの映画で見たワンシーンのように思えた。

「綺麗だね。今日は空気が澄んでいるからか、遠くまでよく見える。」
「ええ。本当に。夢みたい。この光の中で喜んだり苦しんだりしていると思うと、なんだか胸がいっぱいになるんです。」

自分で言った言葉だが思わず心のうちでその言葉を反芻して、本当にその通りだなと心底思う。言葉で言い表せないけれど、嬉しいような、切ないような、本当に自分の語彙では表現しきれないような、複雑な感情が入り混じって、そうとしか表現できなくなる。私がそう言えば隣の彼は目を細めて、それからソファの肘掛に肘をかけると頬杖をついた。

「私も時折こうしてこの夜景をただ見つめていたくなる時があるよ。自分がちっぽけな存在に思える。でもそれが時に慰めになる事があるんだ。恥ずかしいが、私はこの歳までずっと一人でね。時折考える。仕事ばかりしてきたなってね。」

彼はそういうと横目で私をみてウィンクをした。お茶目な人だなと思うと同時に、急に胸にぽっかりと穴が開いたような気がした。

「それでもツルミさんは、居場所があるのね。さっきの人たちの中のツルミさんは、凄く慕われいるのがわかりました。恭しくされるのは、存在感の裏返しでしょう。私のようなちっぽけな人間とは、全然違う。」
「そんな事ないさ。君は若いからそう思うだけだと思うよ。」
「ううん。違うの。」
「………」
「この光に憧れてのこのこやってきたのに、いざ来てみれば、この街の何処にも自分の居場所なんてないんだなって、この街に居れば居るほどそう思う。」
「………」
「恋人もいないし、仕事もそう簡単にはうまくいかない。才能も無ければ愛想も無いから、私。…もういい歳だし、自分の身体の始末くらい、自分で判断できるので。」
「…それで時折ここのラウンジに来ては一晩過ごす相手を探すのかい。」
「歯に絹着せず言えばね。」
「…そうか」

彼は私をじっと暫く見つめた。すっかり冷めてしまったカップに口を付ければ思いの外味が落ちておらず感動した。それを素直に言えば傍の彼はにこりと微笑んで、それからしゅるりとネクタイを外した。

「本当は、何をして欲しいんだい」
「…え?」
「本当は、どうして欲しいんだ。君は私に何を求めているんだ。」
「………」
「私は君に何をしてあげられる?」

首を傾げてそういう紳士の目は細められているが決して笑ってはおらず、それどころか先ほどよりもその眼差しはとても真剣なものであった。促しはするが決して強引ではなく、私の言葉をいつまでも待つようなその彼の姿勢に思わずハッと息を飲んだ。微かに唇が震えた気がした。息を整えて震える肩を宥め、膝の上で震える手をぎゅっと握ると、ゆっくりと視線を再び傍の彼に向けた。

「…ただ、抱きしめてもらえますか。」

私がそう言えば彼は私の腕を優しく掴むと何も言わずに抱きしめた。


2019.09.02.
×
「#オリジナル」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -