短編 | ナノ
慎重に慎重を重ねるヴァシリ

「………」

見られている。そう感じるようになったのはついこの間くらいだったか。自分のとは違う、大きく睫毛の長い、美しい色素を持ったその瞳が間違いなく私を射抜くように見ているのだった。けれど、目が合う、と言うことはなかった。というのも、ハッとして振り向くと大体彼は他の場所を見ていたり、本を読んでいたりするからだ。彼の名前も知らなければ世間話のような話さえしたことはなかった。彼は恐らくこの辺りで働いているのだろう。正直国籍は分からない。

この界隈で働く外国の方は実に多国籍で、土地柄、皆一様に英語も話せるのだから尚のこと謎であった。多分、ではあるけど、このお店の目と鼻の先にあるロシア大使館から来ているのかなとも思う。彼が来るようになったのは、ほんの1、2か月ほど前のことだ。このお店で働いてもう1年以上経つが、こんなに私を見てくる人は初めてだった(ナンパするなら他の外国人ならもう目が合った瞬間にしてくるパターンが多かったからだ)。

このお店は昼間はカフェ、夜はダイニングバーに変わり使い勝手が良いので、地元の人はもちろん、この界隈で働く人々も通う。なので彼のような外国のお客さんは珍しくはない。ただ、こんなに見つめてくる人は珍しい。「私の顔になんか付いてますか?」と気軽に英語かロシア語かで言えればいいけど、近づきがたい雰囲気を出しているので、いつもの調子でそれができなかった(悔しい)。

「thanks」
「、」

お店を出られる時、一言私が声をかけると、いつも彼は少しハッとしたように目を見開く。それは少し驚いているようにも見えたし、何処となくだけど嬉しそうに見えた。それは僅かに彼の口角が上がるからだろうか。直ぐに背中しか見えなくなるので、よくは分からないけれど。









見ているのは何も「彼」だけではなかった。見ている彼を更に見ている人もいた。この辺りで働いている常連のOL達だ。かっこいい外国人男性には大体目星をつけて、遠巻きに眺めては数名でキャッキャする、そんな女子高の延長みたいな事をしている。まあ、分からなくはない。

「そのボールペン、可愛いですね」
「ああ、これですか?これ、結構気に入ってるんですよ。猫ちゃん好きなんで。」
「猫ちゃんと言えば、店長さん、あの人名前知ってる?窓際によく座ってる男性。何処と無く猫っぽいイケメン。」
「いやあ、分かんないですね〜(分かってても軽率に言えないけど)。普通にかっこいい方ですよね。皆さん次はあの方狙いですか?」
「まさか。ただね、今度ロシア大使館でパーティーするから、会えたら挨拶しようかなあ、なんてね」
「ああ、やっぱり大使館の方だったんですね。パーティーか、楽しそう。」
「そう。いつも黒光りしたアウルスで出入りしててさあ。若いし指輪してないからシングルかなあ?」
「あはは(よう見てるなあ)」

私の密かな感心を他所に、珈琲を淹れれば彼女達はまた別の話題に移ってしまったらしくその会話はそれきりだった。確かに、彼女達の言うようにこの界隈ではよく色々な国の大使館のパーティーが開かれる。文化交流を意識した類のパーティーなら、日本人でも紹介があれば入れるらしい事は以前彼女達から教えてもらった。お客さんから招待されたこともあるが、如何せん、見知らぬ人の多い場所に、ましてや言葉に自信がないのでなかなか行く気になれなかった。

「(ご飯がいっぱい食べられのはちょっと興味はあるけれど)」

ふふ、と笑ってしまってふと視線を上げる。するとまたしても彼は別段此方を向いてはおらず、優雅に紅茶をすすり、本を読んでいた。









「excuse,」

声を掛けられて振り向けばそこには「彼」がいた。彼はいつものようにお昼休みなのかお店に来ていた。彼のお昼休みの時間は疎らなのか、決まった時間には来ず、今日のようにお昼というよりもおやつの時間と言えなくもない時間にくることも割りにあった。いつものように紅茶と簡単なサンドイッチを注文して窓際の気持ちのいい席を陣取っていた。彼以外は数名の麻布マダム達しかいない昼下がりで、日差しが少し照りつけるが風のある気持ちのいい時間帯であった(こうも人がいないのは珍しい)。私がはい、と返すと、彼は少し目を見開いて、それから数秒黙ったのち、口を開いた。

「Do you speak English?」
「あ〜…sorry,Not really...
I’ll get an English speaker.」

私がそう言って申し訳無さそうにすれば彼ははっとして再び口を開いた。

「わたしも、Russianだから、English少し、です。」
「そうですか」
「でも、すこしならほんごではなします。いいですか?」

私がはいと言えば彼は今度はホッとしたような表情を見せた。そして徐にスマホを取り出すと、テーブルに置いて画面を指した。

「今度、どようび、Russia Embassyパーティー、あります。」
「へえ。」
「『ロシアのひ』です。ここの人のしりあい、入れます。日本のひともOK」
「はあ、」
「あなた、来週、ここ来ます」
「えっ(決定事項???)」
「しりあい…。いいですか?」
「あ、えっと、いい、(かな?)」

余りに焦り過ぎて自分も日本語がたどたどしくなり、思わず返事をしてしまえば、目の前の彼はパアアッと嬉しそうに表情を明るくさせた。このように分かりやすく表情を見せるこの人を見るのは初めてだった。そして再びスマホを操作すると、トントン、と画面を指で叩いて私に見せた。

「phone number」
「あなたのですか?」
「はい。」

トントン、とまた指で指し示したので、困ったなあと思った。仕事中はスマホを持ってないのであたふたしていれば、そんな私を察したのか、彼はポケットから何かを取り出すと、私の胸ポケットに入っていたペンを貸してと言った。小さな四角い紙には日本語と英語、ロシア語が書かれていて彼は裏にペンで番号を書くと私に手渡した。

「どようび。よるのしちじから。entranceにきてほしい。でんわ、ほしい。まってる。」

彼はそれだけ言うと小さく笑って、それから何事も無かったかのように席から立ち、お店を後にしてしまった。手渡されたビジネスカードを持ったまま、ガラスの向こう側で小さくなっていく広い背中を暫し眺める。あまりの展開に思わずぼうっとしてしまったが、店内の音楽がジャズからボサノバに切り替わってハッと意識を浮上させた。

「あっ…」

買ったばかりの山猫ボールペンが無いと気がつくには、そう時間はかからなかった。どうやらあのボールペンを人質に取られてしまったようだ。取り返すには彼の言う「ロシアの日のパーティー」とやらに参加しなければならないらしい。あーあ、と他人事のようにぼんやり思って、カードを一先ずエプロンのポケットにしまい込んだ。

「(そういえば私ってあの人と知り合いだったんだ…)」


2019.06.21.
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