短編 | ナノ
林檎の意味を知る人

「ひ、」
「あはは、そんな震えるほどお化けが怖いんですか?」
「…いえ、暗いのが苦手で…。小さい頃、友達と遊んでて学校の体育館倉庫に隠れたら、それを知らなかった先生に鍵かけられて、夜中に独りぼっちでいる羽目になったことがあって。それ以来、暗闇が苦手で…その、すみません。」
「ふうん…」
「……何ですか?」
「別に。でも、少しはましだと思ったんで。」

ほら。そう言いながら彼は何故か指切り拳万をするときのように左手の小指だけを差し出した。何故かと問えば、小指だけなら貸してもいいと言う謎の理論を披露してくださった。正直微妙な雰囲気ではあったが、今は兎に角過去のトラウマのせいでどうにかなりそうだったので、一先ずお言葉に甘えて彼の差し出された小指をぎゅっと握ってみた。冷たくて少しカサついた小指を握れば、少しだけ落ち着いた気もしなくもなかった。暗闇に慣れた目で彼の小指を見れば、綺麗に切りそろえらた爪をしていて、深爪が何とも彼らしい。

クーラーを付けず車内で2人だからか流石に暑い。「暑い…」と呟けば隣の上司が返事の代わりに呑気な欠伸を返した。今日の出張は大きな仕事で、彼もかなり疲れたらしく今日は特に欠伸ばかりが目立った。

営業部の主任である宇佐美さんの元に配置されて一年が経とうとしていた。それまで他部署にいた私が、こうして一からこの人の下でやることは大変なことだった。彼は決して適当な仕事をするような人ではないが、かと言って特別優しい訳ではなかった。色々辛かったけれど、仕事において彼は理想であり目標であった。

おかげで同期の誰よりも成績は上がり、他人から褒められるようになった。この一年間仕事の大部分の時間を彼と過ごしてきた。最初こそ何を考えているか全く分からない怖い人だなと思うこともあったが、今はなんとなく認めてもらえている気はしている。

「(本当はいい人なんだろうな…)」
「…何ですか。」
「いいえ、何でもないです…。」
「頼むから発狂だけはしないでください。せめてレッカーが来てからにして下さい。」

前言撤回。なぜこの人とこうなってしまったんだろうと心底思いながら、先ほど素直に小指を握ってしまった自分の行動を恥じた。そもそもこの人に少女漫画的な展開を期待してはいけないのだ。初めての地方出張で、ラブラブロマンスコースなんて想像していたが、これでは完全に地獄のお化け屋敷コースだ。こうなるだなんて、ほんの十分程前の自分も予想だにしなかったのだ…。


●▲●▲●▲


「何処からか突然線香の匂いが立ち込めてきたら、“いる”らしいですね。」
「何が、ですか…」
「もしかしてこういう話苦手でした?」
「…」
「図星ですね。」

チラと視線を横にすれば何食わぬ顔で運転をする上司の顔が見えた。色素の薄い鋭い瞳は、ハイビームの先の薄暗い道路へと向いている。窓の外を見れば自分の顔が窓に反射して写ってかえって怖かった。二人きりで行動することは珍しくはなかったけれど、このように夜遅くまで車を走らせることは今まで一度としてなかった。山道特有だと思うのだが、どうしてこうも極端に道が狭く、そして街灯が少ないのだろうか。鹿注意の看板も長年の酸性雨のせいか爛れてしまって薄気味悪い。

「別に怖がる必要ないじゃないですか。僕がいるんですし。ラジオでも付けてあげますよ。…あ、山奥だからちょっと砂嵐っぽいですね。」
「あの、逆に怖いんで結構です。」
「やっぱり怖いんですね。」

そう言って彼は笑うとつけようとしたラジオを消した。スマホを取り出して画面を見れば、もう夜の22時を指そうとしていた。今一度横を向けば綺麗な横顔が見えた。

頬に変な黒子は付いているが目鼻立ちは綺麗だし、均一に切りそろえられた坊主頭は清潔感があるし似合っている。スーツのセンスも悪くない。初対面の人はきっと彼が純真そうな好青年に映るのだろうが、それは完全なる営業用の顔だ。今私に見せているこの姿が本来の姿なのだ。女の子の後輩にも容赦ない言葉の棘を刺してくれる、どS先輩だ。

「失敗したな、こんなに遅くなるなら近場に宿をとればよかった。」
「すみません…」
「別に謝らなくてもいいでしょう。適当にって言ってホテルを決めたの、僕ですし。」
「宇佐美さん、あの、」
「ん」
「ガソリンが…」
「わかってますよ。だから出来るだけ飛ばさずにいるんです」

焦る様子も無くケロリとした表情で彼はそう言ってのけると、何時ものように車の運転をしていた。ここに来るまで気がつかなかったが、ガソリンの残量が芳しくなかった。今日はバタバタでなかなかスタンドに寄れず、今の今まで私も彼も給油する事を忘れていた。こうなっては後の祭りだ。

「線香と言えば、今年はお盆に田舎に帰るんでしたっけ?」
「あ、はい。少しだけ有給も消化します。お盆明け数日ですけど。」
「ふうん。」
「宇佐美さんは実家に帰らないんですか?」
「帰りますけどすぐ戻ります。結婚しろだの何だの煩いし。」
「(どこも一緒なんだな。)」

私の安堵のため息などつゆ知らず、彼はそういうと欠伸を噛み殺していた。その十分後、ガソリンがお釈迦になるとも知らずに……ーー


●▲●▲●▲


傍の彼はエンジンを切ってシートベルトを取ると、少しだけ窓を開けた。スーツのポケットから気怠そうに煙草を取り出し口に咥えると、器用に片手でジッポをつければ間も無く車内に煙草の香りが漂ってきた。

「あ、嫌でしたか?」
「いえ。私もたまに吸うんで。」
「メビウスですよね。スーパースリム。」
「よくご存知ですね。」
「前にたまたま喫煙所で見かけたんで。」
「そうですか…」

意外によく見てるし、覚えているなあと感心して彼を見た。すぐ傍の彼は何食わぬ顔で少し眠たげな目を下げてぼうっとフロントガラスの向こう側を見ていた。ぎゅっと握っていた彼の小指は私の掌の体温が移ってだんだんと暖かくなってきた気がした。再び傍の上司を見れば、もう既に1本目の煙草を吸い終わったらしく、吸い殻をブラックコーヒーの空き缶にねじ込んだ。

「何ですか、人の顔をジロジロと。」
「いえ。なんか、お腹すいたなあ、なんて。宇佐美さんは空かないんですか?」
「まあ。そう言えばさっきのお客さんからなんかもらいましたよね?」

そう言いながら宇佐美さんは後部座席に手を伸ばすと、置いてあった紙袋をたぐり寄せた。中に入っていたのは箱に入っていた林檎らしく、箱を開けた瞬間からその香りが車内に満ちた。宇佐美さんはそれを一つ取り出すと、もう一つを私に手渡してくれた。

「何だ、林檎か。」
「高級そうな林檎ですね。青森だからかな?」
「…はあ、鶴見部長のお土産にと思いましたが…仕方がないでしょう。」
「でもまた部長用にお土産別個に買えば良いですし」
「当たり前ですよ何言ってるんですか」

そういって彼は至極残念そうにもう一度ため息を吐くと、まるで洋画のようにその林檎を肩でゴシゴシと擦って、躊躇いなく一口齧った。林檎を噛む時の音というのは本当に子気味良いと言うか、爽やかで何ともさっぱりしたものだなと思う。私も続いて林檎を顔に近づけその香りをよく嗅いでみた。

白雪姫は魔女に騙されてこの実を食べ眠りについたし、アダムとイブは蛇に化身した悪魔に唆されてこの実(知恵の実)を食べてパラダイスから追い出されてしまった。確かにかぶりつきたくなる程、この実はとても芳しくて、惚れ惚れする程美しいと思う。私がぼんやりと林檎を眺めていれば、彼は林檎を食べ終えたらしく、再び煙草を咥えた。

「●●さんの実家、田舎なんですか?」
「ええ。ど田舎です。地元に残った友達は全員結婚しました。」
「ふうん。お見合いでもする気ですか?」
「…」
「(図星だな)」
「親がそうしろって煩いんで、フリでも…」
「地元に戻りたいの?」
「いや、本当にそうじゃなくて、相手は親の同級生の市議会議員の息子さんらしくて。」
「ふうん…」
「ええ…」
「…」
「…」
「…さっきの話、一晩ずっと閉じ込められていたんですか?」
「え?…ああ、体育館倉庫にですか?いいえ。探しにきてくれた先生と両親に見つけてもらいました。うとうとししていたら、間遠に自分の名前を呼ぶ大人たちの声がしたんです。それを聞いてすぐに返事を返そうと思ったのに、声が出なくて。」
「何で?」
「本当に一瞬なんですけど、ここで声を上げてしまったら居場所がばれて、きっと酷く叱られるんだろうなあって思ってしまって。確認せずに閉めてしまった先生が悪いんですけれどね。でも、怖じけずいて声が出なくなって。」
「…」
「当時の私、それなりに優等生だったんですよ。美化委員で毎日お花にお水をあげてたし、学級文庫をいつも綺麗にしていたのは私でした。別に、誰のためって訳じゃないけれど。」
「…」
「ほとんど気づいてくれる人なんていなかったけれど、いい子でいなきゃって、思ってたんですよ。強迫観念ですね。仕事では散々ご迷惑をおかけしていますけれど。」
「…まあ、確かに今でも優等生ですよ。」
「え?」
「他の奴らに比べて良くやってるんじゃないですか。誰も嫌がってやらないシュレッダーのゴミ捨ても、コピー用紙の交換も、電話も率先して取ってくれるし。」
「それは…」
「鶴見部長も褒められてましたし。まあ、多少鈍臭いけど。」
「…」

彼のマイペースには十分慣れているつもりだったが、まだまだだったのだなと思い知らされた。ため息を吐くと、火照る頬を隠すように視線をそらした。

「そういえば彼氏いないんですね。」
「セクハラですよ…」
「意外だって言ってるんですよ。いつも定時で帰りたがるんで。」
「彼氏がいようがいなかろうが、定時で普通に帰りたいですよ。」
「残業すれば鶴見部長と長くいれるのにですか?」
「それが嬉しいのは宇佐美さんだけですよ(あと鯉登さん)」

そう言えば彼は別段気にも留めずに至極残念そうな顔で私を見た。本当にこの人の鶴見さん崇拝は止まる所を知らないのだなと恐れおののきつつも、色々文句を言いながらも私を定時で帰らせてくれる優しさがあることも一応知っている。

「まあ、色々事情は理解しましたけど、お盆後の有給はダメです。」

「はあ?」と私が呆れて抗議する様子で言えば、彼は私を横目でじっと捉えたまま暫く無言で見つめた後、突然それまで小指しか握らせていなかった左手を動かして私の手を取り、緩やかに口角を上げた。

「手塩にかけて可愛がってきた女性がお見合いに行こうとして『よし言って来い』なんて言う男が、どの世界にいるんですか。」
「…は」
「地元の人間だから何だって言うんですか、僕の方が数倍、貴女のことを知っているんですから。」
「…宇佐美さ、」
「なんてね。そんなことより、早く林檎食べた方がいいですよ。」

もういいおじさん(アラサー)なのに「なんてね。」なんて、可愛い女の子が言いそうなセリフを言ってのけていた気がしたが、握り締められた手はそのままで、意識をしようものなら手に汗が出てしまいそうで思考を兎に角林檎に集中させた。座ってるだけなのに乳酸が出ている気がする。ようやく一口齧ってみれば、想像よりも甘くて酸味の少ない香りが広がった。

「…何だか酷く疲れました。明日休もうかな」
「はは、それいいですね。僕もそうしようかな。鶴見さんのお土産じっくり選べるし。」
「じゃあ、お盆休みの有給と一緒に申請していいですか。」
「ダメです。」
「(やっぱりダメなんだ)」
「あ、いいこと思いついた。僕も一緒に田舎に行ってご両親に彼氏ですって挨拶しよう。」
「何してくれようとしてるんですか。大体、宇佐美さんは私の彼氏じゃないでしょう。」
「じゃあ、ちょうど明日お互い休みをとるんだし、今夜、“彼氏と彼女”になればいいんじゃないですか?」
「ご、ご冗談を」
「あ、言い忘れてましたけど、今日予約したホテル、一部屋しか取ってませんでした。久々の地方出張だったからなあ、ミスっちゃいました。」
「…」
「でもこれで暗くても怖くないですよね。良かった良かった。」
「自分が何をしてるか、分かってるんですか…?」
「勿論。貴女よりも正気ですよ。」
「嘘だ…」
「正気じゃなければもう前から手出してるから」
「え?」
「本当に鈍いな、」

突然そう言ってチッと舌打ちしたかと思えば、握っていた私の手がぐいっと引っ張られた。ハッとして思わず片方の手で持っていた林檎が足元に転がって、体は無理やり運転席の彼の方へと向いていた。視界には日頃盗み見ていた綺麗な色の瞳があって、一瞬息が止まった。互いの鼻筋がもう目前にあって、わずかに動こうものなら唇も掠めてしまいそうな距離だ。煙草の匂いに混じって林檎の匂いが鼻腔に届いた。

「ここまでしないと信じてくれないんですね。」
「…ち、か」
「だいたい、どうでもいい人と手つなぐ訳ないでしょう。僕、綺麗好きなんですよ。」
「…」
「何か言ってくださいよ。気まずいんですけど。」
「あの、」
「ん?」
「……髪、伸びましたね。」

そういえば彼は面食らったように目を見開いて、それからふ、と笑みを含んだ声を漏らすと目を細めた。

「なんだ、僕のこと、ちゃんと見てくれてたんだ。」

『憧れてる男性なんだから当たり前でしょう』なんて、今この状況で言ってしまったらどうなってしまうかなど、優等生でなくても分かりきったことだ。

2019.07.28.
×
「#オリジナル」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -