短編 | ナノ
林檎の意味を知る人

「ひっ、」
「フクロウの鳴き声ですよ、そんなに驚くほどのことじゃないですから。」
「は、はい…」
「あはは、そんな震えるほどお化けが怖いんですか?」
「…いえ、そうじゃなくて。」
「?」
「小さい頃、友達とかくれんぼでふざけて学校の体育館倉庫に隠れたら、それを知らなかった先生に鍵かけられて、独りぼっちで朝までいる羽目になったことがあって。」
「………」
「友達はもう家に帰ったと勘違いしてそれ以上は探してくれなかったし、私も怖くて動けなくなってしまって…。それ以来、真っ暗闇の中だとその思い出が蘇ってしまって…、その、すみません。」
「…そうですか。」
「はい…。」
「………」
「………」
「………」
「………何ですか?」
「…別に。でも、少しくらいましだと思ったんで。」

ほら。そう言いながら彼は何故か左手を差し出すと、指切り拳万をするときのように小指だけを差し出した。何故かと問えば、小指だけなら貸してもいいと言う謎の理論を披露してくださった。正直微妙な雰囲気ではあったが、今は兎に角過去のトラウマのせいでどうにかなりそうだったので、一先ず、お言葉に甘えて彼の差し出された人差し指をぎゅっと握ってみた。冷たくて少しカサついた小指を握れば少しだけ落ち着いたきもしなくもなかった。暗闇に慣れた目で彼の小指を見れば自分のとは形の違う爪は綺麗に切りそろえられていて、深爪が何とも彼らしいなと思う。

最近は曇りばかりで太陽が出ないせいか蒸し蒸しするとは思ってもあまり暑いと思うことはなかったが、こうしてこの車内にいると暑いなあと思わざるを得なかった。実際、隣の上司は首元のネクタイと襟を緩めて少しだけ額に汗を滲ませていた。いざという時のため、クーラーは使えないので私もジャケットを脱いでボタンを第三ボタンまで外した。暑い、とぼんやり言えば隣で上司が返事の代わりに呑気な欠伸を返した。

営業部の主任である宇佐美さんの元に配置されて一年が経とうとしていた。それまで営業ではなく企画にいた私がこうして一からこの人の元でやることは大変に気が滅入ることであった。彼は決して適当な仕事をするような人ではないが、かと言って特別優しい訳ではなかった。足を引っ張るくらいならパパッと自分でやってしまうし、その後の説明やフィードバックも丁寧にしてくれるような先輩ではなかった。

「これくらい見て覚えてください」。これが彼が直属の上司になってから私が言われ続けた言葉ベスト3に入る。最初こそ心が折れそうになったが、そんな彼の方針が功を奏し始めたのは本当にここ最近になってからだ。一緒に移動してきた同期の誰よりもできることが増えていたし、宇佐美さんはあまり褒めはしないが他の人からは成績や仕事に関して褒められることが多くなった。出張が多いわけではないが、かなりの時間を彼と過ごしてきたと思う。最初こそクールで何を考えているか全く分からないので嫌だと思うこともあったが、今はなんとなく認めてもらえている気はしている。何となくだけど。

「(本当はいい人なのか…?)」

と言うのがようやくわかってきたようなこないような、そんなよく分からない上司である宇佐美さん。そんな彼を横目に見ながら、頭の裏では昔読んだ少女漫画を思い出していた。エレベーターに閉じ込められた主人公の女の子と意中の男の子が密室で色々ロマンチックなやり取りをするベターな展開を読んだことがあるが、実際はそんな爽やかではないのだなとしみじみ思った。車内はジメジメして蒸しているし、自分たちはやや汗だくで、暗くてほとんど顔は見えないし(暗くて怖いのでいろんな意味で確かにドキドキはするけれど)、緊張で心臓が痛い。暗闇であまり夜目がきかない分、他の五感は敏感になっているようで、彼が動く度に柔軟剤のいい香りがした。自分たちの微かな呼吸音も何となく耳に届いた。何だかむず痒くて思わず握っていた小指の力を少しだけ強めた。

「…何ですか」
「いいえ、何でもないです…」
「頼むから発狂だけはしないでくださいよ。するならせめてレッカーが来てからにして下さい」
「ダイジョウブデス」

前言撤回。なぜこの人とこうなってしまったんだろうと心底思いながら、つい先程までの自分の行動に少しだけ後悔した。









「何処からともなく線香の匂いが立ち込めてきたら、“いる”らしいですね。」
「な、何がですか…」
「あ。もしかしてこういう話苦手でした?」
「………」
「(図星だな)」

チラと視線を横にすれば何食わぬ顔で運転をする上司の顔が見えた。色素の薄い鋭い瞳はハイビームの先の薄暗い道路へと向いている。窓の外を見れば真っ暗すぎて自分の顔が窓に反射して写ってかえって怖かった。こうして車で二人きりで行動すること自体は珍しいことではなかったけれど、このような地方に夜遅くまで車を走らせることは今まで一度としてなかった。田舎の山道特有だと思うのだが、どうしてこうも極端に道が狭く、そして街灯が少ないのだろうか。鹿注意の看板も長年の酸性雨のせいか爛れてしまって薄気味悪い。その手の話が苦手で怖がる私を余所に、運転をする上司は何故かご機嫌らしく時折鼻歌さえも歌っていた。わざわざ地方まで来たのは大きな案件を鶴見部長から任されたからなのだが、上手くこれが纏まったのだ。これで鶴見さんに胸を張って報告ができるし褒めて貰えると、打ち合わせ後の彼は大変嬉しそうに顔を恍惚とさせていた。

「別に怖がる必要ないじゃないですか。しょうがないな、ラジオでも付けてあげますよ」
「す、すみません…」
「あ。山奥だからちょっと砂嵐っぽいですね」
「あの、逆に怖いんでやっぱり結構です。」
「やっぱり怖いんですね」

あはは、と少し小馬鹿にしたように彼は笑うと、つけようとしたラジオを消した。気分転換にスマホを取り出して画面を見ればもう夜の20時を指してた。通りでお腹が空くわけだと納得する。今一度横を向けば眠気覚ましなのか辛いミントガムを噛みながらあくびを咬み殺す綺麗な横顔が見えた。いつもは小馬鹿にした悪態や、胸にぐさりと刺さるような冷たい辛辣な発言を私にしてくれる上司なのだが、こうして黙っていればそう悪い男性でもなかった。変な黒子は付いているが目鼻立ちは綺麗だし、綺麗に切りそろえられた坊主頭は清潔感があるし似合っている。スーツのセンスも悪くない。初対面の人はきっと彼が小綺麗で純真そうな好青年に映るのだろうが、それは完全なる営業用の顔だ。本当の姿は今私に見せているこの姿が本来の姿なのだ。女の子でも後輩に容赦ない棘を刺してくれる一風変わった先輩である、というのが私の印象だ。

「失敗しましたね。こんなに遅くなるなら近場に宿をとればよかった。」
「す、すみません…」
「別に責めてませんよ。綺麗なホテルが良いって僕が言いましたし。」
「宇佐美さん、あの、」
「ん?」
「ガソリンが…」
「ああ。わかってますよ。だから出来るだけ飛ばさずにいるんです」

焦る様子も無く彼はそう言ってのけると何時ものように運転をしていた。ここに来るまで気がつかなかったのだが、ガソリンの残量があまり芳しくなかったのだが、今日はバタバタでなかなかがsりんスタンドに寄れず、今の今まで給油するのを忘れていた。それは宇佐美さんも一緒だったらしいが、こうなっては後の祭りと出来るだけ使わないように運転するより他なかったようだ。こんな山奥ではなおさらそうだろう。最悪ガス欠になれば社用車なので保険でレッカーを呼べるが、この場所では出来るだけそれは避けたい。来るのもかなり時間がかかるだろうし、こんな真っ暗闇の中待たされては一溜まりもない。暗闇が苦手な私としてはかなりの苦行だ。

「線香でと言えば、今年は田舎に帰るんでしたっけ?」
「あ、はい。少しだけ有給も消化させてもらいます。お盆明け数日ですけど。」
「ふうん。」
「宇佐美さんは帰らないんですか?」
「帰りますけどすぐ戻ります。ずっと居てもしょうがないし。」

彼はそういうと



彼は少しだけ窓を開けると、スーツのポケットからタバコを口に咥えて、それから器用に片手でジッポを点けた。間も無く車内にタバコの香りが漂って、思わず眉間にしわを寄せた。

「嫌でしたか?」
「いえ。私もたまに吸うんで。」
「メビウスですよね。スーパースリム。」
「よくご存知ですね。」
「前にたまたま喫煙所で見かけたんで。」
「そうですか…」

よく見てるし覚えているなと感心して彼を見れば、すぐ傍の彼は何食わぬ顔で少し眠たげな目を下げてぼうっとフロントガラスの向こう側を見ていた。先ほどから聞こえていたフクロウの鳴き声がやむと、今度はよくわからない生き物や虫の音が聞こえてきた。ぎゅっと握っていた彼の小指は私の掌の体温が移ったのかだんだん暖かくなってきた気がした。こう言うとき、ラジオが聞ければいいのだが、先ほど試した通り山中のせいか音が砂嵐となるし、これ以上何かしようとすればバッテリーも上がってしまう可能性もあったので控えた。

時刻を見れば21時をすでに回っていて、今にもお腹の音が聞こえてしまいそうだった。この辺は動物もよく出没すると言うことは先ほどから幾度となく見てきた看板で知っていたが、鹿ならまだしも熊は勘弁願いたい。熊が出てくる前にレッカー車がきてくれることを願うばかりだが、こんな山奥ではどれほど時間が経つのかも正直読めなかった。再び傍の上司を見れば、もう既に1本目の煙草をすい終わったらしく、吸い殻をブラックコーヒーの空き缶にねじ込むと欠伸を一つした。今まであまり気がつかなかったが、こうしてよく見ると春先よりも髪が若干伸びてきている気がする。仕事柄、いつもこうして二人で行動することが多いが、こうしてまじまじと見るのはなかなかない機会かもしれない。

「何ですか、人の顔をジロジロと」
「いや、すみません…あの、なんか、お腹すいたなあ、なんて。」
「あ。そう言えばさっきのお客さんからなんかもらいましたよね?」
「そう言えばそうでしたね。何だろう。」
「見てみるか」

そう言いながら宇佐美さんは後部座席に手を伸ばすと、紙袋をたぐり寄せた。中に中に入っていたのは箱に入っていた林檎らしく、箱を開けた瞬間からその香りが車内に満ちた。宇佐美さんはそれを一つ取り出すと、もう一つを私に手渡した。

「林檎みたいですね。」
「すごく高級そうな林檎ですね…。」
「…はあ、鶴見部長のお土産にと思いましたが…仕方がないでしょう。」
「はあ…」
「背に腹は変えれないし。」
「まあ、でも、また部長用にお土産別個に買えば良いですし」
「あたりまですよ何言ってるんですか」

そういって彼は至極残念そうにため息を吐くと、まるで洋画のようにその林檎を肩でゴシゴシと擦って、躊躇いなく一口齧った。林檎を噛む時の音というのは本当に子気味良いと言うか、爽やかで何ともさっぱりしたものだなあと思う。

「まあまあですね。」
「林檎お好きなんですか?」
「いや、そうでもないですけど、喉も乾いてたし。」

ちょうど良いです。そう言いながら彼はもしゃもしゃと林檎を噛んで飲み込んでいく。私もゴシゴシと膝の上で擦って試しに口を開けようとしたが、一度中断してその香りをよく嗅いでみた。白雪姫は魔女に唆されてこの実を食べて永遠の眠りについたし、アダムとイブは蛇に化身した悪魔に唆されてこの実(知恵の実)を食べてパラダイスから追い出されてしまった。確かに、かぶりつきたくなる程この実はとても芳しくて、惚れ惚れするほど曲線と色が美しい。

「嫌いなんですか?」
「いいえ。むしろ好きなんですけど、何だか良い匂いだなって。」
「…そう言えば生まれは何処でしたっけ」
「え?ああ、私ですか?」
「あなたしかいないでしょう。お化けに話しかけてるわけじゃないんですから。」
「や、やめて下さい…!」
「そっちがそう仕向けたんでしょうが。」
「うう…。青森です。」
「何だ、青森なら林檎がお好きでしょう。」
「いえ、私、八戸っていう海が近いところ出身なので、林檎もまあ好きですけど…」

そう言って私がぼんやりと林檎を眺めていれば彼は林檎を食べ終えたらしく、再び煙草を咥えると吸い始めた。林檎の香りと紫煙が混ざって何だか不思議な空気が立ち籠め始めた。

「田舎なんですね」
「ええ。ど田舎です。地元に残った友達は全員結婚しました。東京に出てる子はまだまだですけれど。お見合いしろって両親がうるさくて。」
「ふうん。それで次の盆は帰るってわけですか。」
「…ああ、ええ、まあ。」
「お見合いでもする気ですか?」
「………」
「(図星だな)」
「別に、ちょっと親がそうしろって煩いんで、少しくらい付き合ってやろうかなあ、なんて。」

しどろもどろになりながらそう言えば彼はじとっとした目で私を見た。煙草を咥えながらそんな目で見られるとある意味お化けを見るよりも怖い。彼はふう、と煙草の煙を吐くと、ちょんちょんと空き缶に灰を落として再び口を開いた。

「…田舎に戻りたいんですか?」
「いや、本当にそんなんじゃないんですって。親がセッティングしたんで、向こうのこともあるし、顔ぐらいはださないと不味いらしいんです。相手は親の同級生の市議会議員の息子さんらしくて。」
「…ふうん」
「だから、会ってお茶して、それで帰ってくるだけです。本当に。」
「まっ、僕がとやかく言うことじゃないですけど。」
「はあ…」

そう言いながら彼はぶっきらぼうに空き缶に煙草を押し付けるとふうと息を吐いた。レッカーを読んでまだ1時間と経たないのだが、こんなにも時間が長く感じるのは久々だ。昔のトラウマのせいで割り増しに怖いのだが、横の宇佐美さんがいるおかげか多少は緩和されている気がした。一応小指だけ握る許可も得ているし、人が横にいるだけでも随分違う。あの時は本当に誰もいなくて辛かったなと思いながらため息を吐けば、煙草を灰皿に押し付けて一息つく男性と横目が合った。彼はいつものように何を考えているのかよく分からない視線を向けると、そう言えば、と口を開いた。

「一晩ずっと閉じ込められていたんですか?」
「え?…ああ、体育館にですか?」
「ええ。」
「いいえ。心配した両親が学校に通報して、それで探しにきてくれた先生と両親に見つけてもらいました。」
「ふうん。」
「12時過ぎくらいのことでした。ちょうど、終業式の日で、次の日から夏休みって日だったんですよ。とんだ夏休みのスタートになりましたけれど。」
「あなたらしいですね。」
「あはは…あ、」
「なんです?」
「思い出したことがあって。」

視線を手に持っていた林檎に落として、それからしばし沈黙した。まだ色鮮やかで傷ひとつないそれからはみずみずしい香りが漂っている。果たしてあの頃の私はこの果実のように純真で無垢であっただろうか。そう思って思わずふ、と吹いてしまった。

「体育準備室に閉じ込められてうとうとししていたら、間遠に自分の名前を呼ぶ大人たちの声がしたんです。それを聞いてすぐに返事を返そうと思ったのに、でも声が出なかったんですよ」
「何故です?」
「本当に一瞬なんですけど、ここでもし声をあげてしまったら居場所がばれて、きっとこっ酷く叱られるんだろうなあって、思ってしまったんです。今考えれば、私はかくれんぼをしていただけで、確認せずに閉めてしまった先生が悪いんですけれどね。でも、あの時それが頭にふと浮かんでしまったが最後、怖じけずいてついぞ声が出なくなってしまったんです」
「………」
「あまり見えないかも知れないんですけどね、私、それなりに優等生だったんですよ。国語と社会が得意でいつもクラスで一位でした。美化委員で毎日お花にお水をあげてたし、乱雑になっている学級文庫を綺麗にしていたのは私でした。別に、誰のためって訳じゃないけれど、そうすることがいいことだと信じていたし、実際それで喜んでくれる人もいました。まあ、多くの場合先生が喜んでましたけれど。」
「………」
「ほとんど気づいてくれる人なんていなかったけれど
、いい子でいなきゃって、思ってたんですよ。強迫観念ですね。でも、そうせずにはいられないんです。それで容量も良くて、まあ、仕事では失敗続きでご迷惑をおかけしていますけれど。」
「まあ、確かにあなたは上手くやってますもんね」
「え?」
「他の奴らに比べて良くやってるんじゃないですか。僕が何も言わなくても察してどんどん率先してやってくれますし、他の子なんかよりも営業先で上手くコミュニケーションとって契約取ってきてくれますし、たまにテンパってますけど直ぐに立ち直るし。誰も嫌がってやらないシュレッダーのゴミ捨ても、コピー用紙の交換も、電話も率先して取ってくれるし。」
「それは…」
「僕がイライラして多少きついこと言っても粘り強くやってくれますし、あ、これパワハラですかね?」
「まあ…それは…(今気づいたんだ)」
「まあ多少はね。けど、まあ、良くやってるんじゃないですか。鶴見さんも褒められてましたし。」

有難く思ってください。そう言って彼は言葉を区切るとそのまま箱の中の林檎に手を伸ばした。私は暫し呆気に取られていれば、彼はそんな私のことなど構わずに先ほどと同様、林檎を綺麗にかじり始めた。

「(意外とやっぱり私のこと見てくれてるんだな、この人…)」

彼のマイペースには十分慣れているつもりだったがまだまだだったのだなと思いため息を吐くと、再び視線を前に向けた(暗くて怖いので出来るだけ前を見ないようにしていたけれど)。すると車内のわずかな光に反応したらしいカブトムシがいつの間にかフロントガラスに一匹いてびっくりして、あっひゃあ!、とみっともない声をあげてしまった。その様子を見て宇佐美さんはぷっと吹くと、何がおかしいのか肩を震わせて笑い始めた。

「なんか今のグーフィーみたいでしたね」
「煩いです…」
「でも意外でしたよ。彼氏いないんですね。確かに突然グーフィーみたいな声上げる子を好きになるやつってなかなか物好きだと思いますけど。」
「ウルサイデス…。それにカブトムシが居たんで ビックリしただけで好きでグーフィーの声を出したわけではないんです。あと彼氏は居ませんけど何が悪いんですか。」
「悪いなんて言ってませんよ。意外だって言ったんです。」
「…何でですか」
「いつもせかせか定時で帰りたがるんで、彼氏とでも住んでるのかと思ったんですよ」
「彼氏がいようがいなかろうが、定時で普通に帰りたいですよ。」
「残業すれば鶴見部長と長くいれるのにですか。」
「それが嬉しいのは宇佐美さんだけですよ(あと鯉登さん)」

不審な目でそう言えば彼は別段気にも留めずに至極残念そうな顔で私を見た。本当にこの人の鶴見さん崇拝は止まる所を知らないのだなと恐れおののきつつも、色々文句を言いながらも私を定時で帰らせてくれる優しさもあるのだなあとぼんやり思っていた(そもそもうちの会社残業非推奨なのにこの人が勝手に残業をしているのだが)。他の部署では上司が残業をしていれば後輩も残らねばならない暗黙のルールも存在しているところも少なからずあるようなので、まあ、色々言葉に棘はあるが、寛大な方なのかもしれない。うちの部署で残業してるのは本当に宇佐美さんと鯉登さんと月島さんくらいなのだが。

「あれ、でも有給申請出しましたっけ?」
「まだです。月末くらいでいいかなって。申請出すのであとで判子よろしくお願いします。」
「ええー。どうしようかな。」
「…勘弁してください。遊びじゃないんですよ、本気なんです。」
「僕だって冗談でも何でもないんですよ。本気なんです。」
「はあ?」

私があきれた様子でそう言えば、彼は再び三本目の煙草を咥えてジッポで火をつけるところだった。風が吹いてきたらしく、木々が暗闇でざわざわしている。湿り気も少しましになったように感じた。彼は私を横目でじっと捉えたまま暫く無言で見つめたのち、先ほどよりもゆっくりと煙を吐くと滑らかな手つきで灰を缶に落とした。そして突然それまで小指しか握らせていなかった手を動かし私の手を取り、緩やかに口角を上げた。

「気に入ってる女性がお見合いに行こうって言ってる側で、『よし言って来い』、なんて言う男がどの世界にいるんですか。」
「…は?」
「地元だからってあなたのことを知っている訳じゃないでしょう。僕の方が、数倍貴女のことを知っているんですから。」
「…う、宇佐美さ、」
「なんてね。そんなことより、早く林檎食べた方がいいですよ。」
「…あ、はい。」

言われてそのままぼんやりと手に持っていた林檎を齧ってみた。彼の言う通り、酸味が少なくてすごく甘みが強い。皮のまま食べるなんて一体いつぶりであったか。そのままもう一口齧ってみれば、鼻の奥にツンとわずかに林檎の香りがした。

「本当だ、美味しいですね…」

なんてね。と言う可愛い女の子が言いそうなセリフを言ってのけていた気がしたが、握り締められた手はそのままで、意識をしようものなら握り締められた手に汗が出てしまいそうで思考を兎に角林檎に集中させた。

「あ、レッカー来ましたね。」
「よかった…(よかった…)」

前方を見れば遠くにまばゆい光が二つ見えてホッとした。これ以上ここにいるのも何だか気まずかったので渡りに船だ。時計を見ればちょうど一時間ほど経っていて、長くて短いような、そんな一時間だったなあと少し脱力した。

「疲れましたね…。」
「思ってたより早く来たんですけどね。」
「明日、休もうかな…」
「はは、それもいいですね。僕もそうしようかな。鶴見さんのお土産じっくり選べるし。」
「じゃあ、お盆休みの分の有給と一緒に申請していいですか。」
「それはダメです。」
「(やっぱりダメなんだ)」

「あ、いいこと思いついた。僕も一緒に青森行来ましょう。それならいいですよ。」
「何しにくるんですか…」
「お見合い相手の人に僕も会うんですよ。いかに貴女が不器用で結婚に不向きか教えてあげるんですよ。」
「本当に何してくれようとしてるんですか。てかさっき散々褒めてましたよね。大体、宇佐美さんは私の彼氏じゃないでしょう。」
「じゃあ、ちょうど明日お互いに休みをとるんだし、今夜、彼氏と彼女になればいいんじゃないですか。」
「…ご、ご冗談を。」
「僕は嘘をつかないですよ」
「あれーそうでしたっけー」
「あ、あと言い忘れてましたけど今日予約したホテル、一部屋しか取ってませんでした。」
「………」
「すみません」

悪びれもなくそう言って除けると、彼はにっこりと笑って、それからレッカーの人が近づいてくるのを確認すると何ごともなかったかのように車を織
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