短編 | ナノ
つま先

「器用だな」

頭上から愛しい声が聞こえてふと上を向けばそこには美しいお顔の紳士が立っていた。先ほどまで金魚鉢の金魚に餌をやっていたかと思っていたのだが、いつの間にやら終わったらしい。紳士はふふ、と小さく笑うと傍に腰を下ろした。下ろしたてのサーモンピンクのシャツは実に彼に似合っている。先週、所用で銀座の歩行者天国の大通りを一本入ったと通りに素敵な紳士服店を見つけて、直感的に購入したのが彼が今身につけているそれだ。自分の買い物も忘れて彼にと思ってわざわざ電話でサイズを聞いて買ったのだが、買ってよかった。

「鶴見さん、似合ってますね、それ」
「ああ。気に入っているよ。ありがとう。これからの季節にぴったりだ。」

今朝は早起きをして公園に出かけて来たのだが、出来る男の鶴見さんは私が差し上げたそれをここぞとばかりに袖を通した。想像以上に似合うものだから密かに写真を撮ったくらいだ。いつもお花やケーキ、素敵な装飾品など、小さなお土産やプレゼントを用意してくれる彼にお返しをしなくてはと思っていたので、お財布はすっかり寂しくなってしまったけれど、丁度良かった。体制を立て直そうと足を伸ばし、小さな筆を小瓶に収める。開け放たれた窓からは夕方の柔らかな日差しが差し込んで絨毯とソファの端を照らした。川の近くだからか時折水辺の香りがする。ひんやりとしていて心地がいいのでいつも大抵鶴見さんは窓を開けたがった。窓際の飾り棚に置かれた金魚鉢にも日差しが当たると乱反射して室内に光を刺した。

「難しくないのか」
「簡単ですよ。私でも塗れるくらいだし。」
「すぐ乾くのか」
「ちょっと待たなければです。でも慣れました。」

ぼんやりとした薄い肌色の自分の小さな足の爪たちが一個、また一個と金魚と同じような淡い光沢のある朱色に染まっていく。チラと金魚鉢の方に目をやれば偶然なのか金魚もこちらを向くように体を翻し、自慢の尾鰭と背鰭は日差しに当たって透き通っていた。先々週、鶴見さんと行った春祭りの際に何気なく挑戦した金魚すくいで思わず2匹も取れてしまい、急遽鶴見さんが用意してくれた金魚鉢に金魚たちは非難された。二人しかいなかったこの空間に別の生命体がいるのは実に不思議な新鮮さがあった。見れば見るほど可愛いし、意外にもたまたま丈夫な子達だったのか、よく食べた。お祭りの金魚なんて皆すぐに衰弱してしまって可哀想だなと思っていたのだが、例外もあるようだ。それとも、鶴見さんが献身的に面倒を見ているからだろうか。ぼんやりとそう思いながらもう片方の足にも塗ろうとテーブルの小瓶に手を伸ばした刹那、それは私よりの大きな手によって阻止された。

「私が塗ってあげようか」
「え?鶴見さんが?」
「ああ。ダメかな?」
「ダメっていうか、いいでんすか。人の足を触るんですよ」
「ふふ、今更何をいうかと思えば。いいから言っているんだ。さあ、」
「(私はちょっとな、気がひけるというか)」

黙っていればそれは肯定と受け取ったらしい鶴見さんがいそいそと体の向きをこちらに向けると、私に足を差し出すように手を伸ばした。仕方なしに足を差し出せば彼はシンデレラの王子様のそれのようにするりと私の足を捉えて小瓶の中の筆を器用に使って爪に塗り始めた。こういうお戯れはまあまあやられる方なので別段驚きもしないが、唐突なのでいつも困惑する。ペディキュアは毎回する方ではなかったが、これからの季節はサンダルやミュールを履くのでそろそろやろうかな、という気まぐれで塗り始めた。大概お店で頼むのだが、今回は偶然先週銀座でいい色を見つけたので(本来の目的はシャツではなくてこっちだった)自分で塗ろうと思い立ったのだ。まさか鶴見さんが塗ってくれるだなんて思わなかったけれど。

「すごい、上手ですね」
「面白いな。塗り絵みたいだね」
「鶴見さんは器用だものね」
「そうでもない。」
「ううん、絶対そう。繊細だなって、いつも思うの」

金魚に餌をあげる手つきも、私の足の爪にペディキュアを塗ってくださる鶴見さんもどれも繊細で美しい。金魚も嫉妬するくらいに、きっと美しいのだろう。文庫本を読もうとしてつけられた眼鏡の奥の瞳は真剣で話しかけるのもちょと躊躇われた。ガラスの靴を穿かされるシンデレラもこんな気持ちだったのだろうか。ガラス細工のようにひんやりとした大きな手が小さな自分の足を包んでいることは、少し恥ずかしいような嬉しいような妙な心地がする。短パンからはきっとパンツが見えているだろうがそんな事など御構い無しと言わんばかりに鶴見さんは黙々とペディキュアを塗っていく。今日は確か偶然下着も暖色系の赤いやつだった気がする。鶴見さん、赤とか派手なお色もお好きかしら、とぼんやり下らない事を考えて口元が緩んだ。

「あとは乾くのを待てばいいんだな。」
「綺麗。全部鶴見さんにお願いすればよかった。」
「今度からやってあげようか」
「いいえ、冗談ですよ。ありがとうございます。」

乾くまでじっと待っていようとテーブルの上の雑誌を手に取る。横の鶴見さんもメガネをつけて文庫本をじっくりと読み始めていた。そろそろ乾いた頃合いだろうかと思いあくびをひとつするとペラペラやる気のない手で捲っていた手を止めて雑誌をテーブルに再び戻した。お茶を飲もうかなとテーブルのグラスを持って立ち上がろうとすれば、すっと腕を引かれたて思わずバランスを崩しそうになったが、すぐに腰がソファに落ち着いた。

「乾いたのか?」
「うーん、多分もう大丈夫ですよ。そんな2、30分もかからないです。」
「そうか。だが分からないからチェックをした方がいい。」

そう言って徐に先ほどと同様私の足を手に取ったかと思えば突然足をご自分の唇に寄せ、そして赤い舌でちろりと私の親指の爪を舐められた。突然のことでひゃっと声にならない声を上げれば鶴見さんは別段何事もなかったかのようにれろりと舐め上げた。ぬめりとした舌の感触と温度に背筋がゾクゾクする。足の甲にチクチクと当たるお髭がこしょばゆくてムズムズする。一頻り舐めると足を未だ掴んだまま彼は微笑んだ。

「乾いたみたいだ。それにしても、仄かな赤が似合うね。」
「鶴見さん、汚いですからっ、」
「平気だよ。それに、これを塗っているときに可愛らしい下着を見てしまってね。」
「………」
「爪と一緒なんだね。可愛い。」

そう言って彼は艶めかしい目つきで私のそこを見やると再び口角を上げた。やっぱり見えていたんだなあと思って、それからまずいぞ、と眉間に皺を寄せた。

「鶴見さん、まだ日が高いのに…」
「なに、明日は日曜日だ、心配ない。」

そういうと鶴見さんはしゅるりとサーモンピンクのシャツのボタンを取り始めたので、また再び始まってしまった気まぐれなお戯れに私はもう覚悟を決めてため息を吐いた。
どうやら赤はお嫌いではないみたいだ。

2019.06.01.
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