短編 | ナノ
港区おじさんにもなり切れないおじさん門倉とデヱト

「名字さん、西麻布の仕入れの件で第七商事の鶴見部長にこのデータPDFで送ってくれる?CCに月島部長補佐を入れてあげて。俺からの指示でって。」
「わかりました。」

契約書か何か分からないが私が言われた通りに冊子を受け取ると目の前の彼はその目尻の皺を濃くして目を細め、それから小さくよろしくと言って視線を再びパソコンに写した。3月も1週間を過ぎると流石にだんだんと春めいた空気を帯び始め、道端の梅やボケの花は花弁を開き、桜もようやくその蕾を大きく膨らませ始めた。窓を揺さぶるほどの強い風は相変わらず肌を突き刺すように冷たいが、日差しはまるで子を抱く母の胸のように暖かい。手渡された書類のスキャンを終えるといつものように自分のデスクに戻りそして一息つく。窓際に近い自分のデスクからは午後3時を過ぎた陽射しが差し込んで、キーボードに置かれた両の手を照らした。ふと、窓の外を見る。眼下に広がる駅前の景色をぼうっと眺めて、それから一息ついてから視線を今度は先ほど冊子を手渡したあの人の方に向ける。熱心に何やら営業の男性と話して顔を青くしたり、力なく笑ったり、本当に忙しい人だと思う。人畜無害そうな顔をして、ここぞという時やピンチの時は何とかことを穏便に収める能力には長けているし、正直女子社員にはあまり持てないが人望は厚いので先日のバレンタインでは本当にたくさんのチョコレートを貰っていたし、例に漏れず私もあげた。笑うと目尻の皺が増えて、それからいつもむっとしている可愛い口元が緩む。おじさんのくせに意外と清潔漢で着ている服もソフランの香りを感じるし、頸は石鹸の香りがする。キスをすれば煙草の香りがして、それを素直に言えば何故だか「宇多田ヒカルの歌にもそんな感じの歌詞あったよな、」と、微妙にトンチンカンな答えが返ってきて笑った。バレンタインのあの夜も、生まれた姿の彼はどこもかしこも煙草の香りはすれど、不思議と嫌な匂いはしなかった。もしかするとずっと一緒にいたらだんだんと彼のおじさん臭に気がつくのかもしれないし、一緒に暮らせばおじさん特有の枕臭も感じてくるのだろうか。ホテルの枕を香っても、たった一度では流石にそこまでは分からない。

バレンタインの翌日、2月15日。
私は門倉部長と同じベッドから出社した。


▲▽


「門倉さんって何でバツイチなんでしたっけ」
「嫁さんに逃げられたからだよ。」
「へー。」
「へーって…」
「ふふ、そんな感じしたので」
「…そんなに俺逃げられそうな顔してんの」
「ううん。優し過ぎるから。」
「………」

私がそう言えば目の前の男性は少し視線を下げて目の前の七輪を眺めて、それから静かにトングを握ると程よく焼けたお肉をひっくり返した。平日だからかそこまで人の入りはないがやはり有名店だからか程よく人の入りはあって、私たちの会話などすぐに他の人々の雑音にかき消された。門倉さんは程よく焼けたらしいお肉を私のお皿に横すと自分は焼くことに徹していた。差し出した灰皿にはすでに腰を曲げた小さな吸い殻が4本程転がっていて、そのくせ門倉部長はお肉をそこまで食べている様子は見えなかった。掘りごたつの中の足を組み替えた際に膝が当たって紙袋が落ちてしまったので慌てて拾う。中のチョコレートは多分無事だろうが、何となく申し訳なくて紙袋を拭った。伊勢丹の紙袋はそれほど大きいものではなく、小さくてかさばらず持ちやすくて、お弁当を毎日持って行っている私を気遣ってのことだと思うと少しだけ頬が緩んだ。

「門倉さん、彼女作らないんですね。」
「そういう名字さんもいるの?」
「いませんよ」
「余計なお世話なの重々承知だけど、もうちょっと自分のこと大事にした方がいいぞ。」
「本当に余計なお世話ですし、なんかお父さんみたいで嫌だ。」
「まあ、世代的にはそうだろうな。」
「自分より10子以上年の離れた女の子抱いといて言える台詞とも思えないんですけどぉ」
「それ言われると何にも言えないんですけどぉ…」
「あ、門倉さんてお子さんいたの?」
「いないよ。」
「そう…。不幸中の幸いってやつ?」
「さあ、どうだろうな。経済的には助かったけど、」

門倉さんが焼いてくれたお肉にタレをつけて咀嚼する。年齢のせいか否かは知らないが、門倉さんはお肉よりも付け合わせのカクテキや漬物の方を好んで食べてはビールを煽っていた。塩っけが足りないようで、ご飯を頼む時に塩も店員さんにお願いしていた。そんな彼を眺めながらぼんやりの頭の裏で何時ぞやの部署の飲み会で周りに言われて嫌々ではあるが話してくれた門倉さんのお話を思い出していた。隣の席ではあったが、そこまで会話には入っていなかったので本当に耳にたまたま入ってきたのだ。若い頃は営業部に回されていて出張も多く、単身赴任で北海道によく飛ばされていたそうで、そのせいで東京に奥さんを一人ぼっちで置くことが多くなった。苦節5年、ようやく昇進が決まり異動となって東京に戻ってきてようやく夫婦生活も落ち着くかと思われた矢先、すでに他の男の人を作っていた奥さんと穏便に別れたそうだ。自分以外の子を宿して大きくなったお腹を抱えた奥さんと話し合った結果だという。空気の読めない新人の男の子がどうして一緒に連れて行かなかったのかと問えば、彼はいつもの人のいい疲れたような笑顔を向けて、一緒に行こうと行ったら、行きたくないって言われたんだよと言ったのでこの場のこの話題はそれきりで終わってしまった。本当に、この人は馬鹿な人だと思う。

「じゃあ、あの日は久々にセックスしたんですね。」
「まあ、そうだな。風俗は通うけど、そんなことまでしてはくれないから。てか、今時の若い子ってこんな普通のトーンでそんな話すんの?」
「人によるんじゃないですか?」
「そ、そう。」

3杯目のビールに口をつけて、それから門倉さんは5本目の煙草に火をつけた。私がそれを見つめれば今更なのに、あ、ごめん、と言いながらせっかくつけた煙草を灰皿に押し付けようとしたので反射的にかぶりを振った。門倉さんはそれを見ると安心したように消しかけた煙草を再び口につけて、それから向こう側を向きながら煙を吐いた。店員さんがこのお店で一番人気の高いタン塩を持ってくると、門倉部長はやっときたかという顔でトングでそれを掴んで網に乗せた。

「第七の鶴見部長の接待で行った西麻布の焼肉思い出しますね。なんて言ったかな、牛牛でしたっけ。全部高くてびっくりしました。」
「…悪かったな、龍叶苑で」
「いや、ここも相当美味しいですし、落ち着くから好きです。」
「どうせ俺はベルルッティの鞄も似合わない、くたびれたシャツのおっさんですよ」
「まだ根に持ってるんですか?あれは社交辞令で」
「別にぃ。」
「でも門倉さんは一緒にお酒飲んでくれるし、煙草もくれるじゃないですか。鶴見部長は本当にお育ちのいい“港区おじさん”って感じがするけど、私はどちらかと言ったら門倉さんみたいな“普通のおじさん”の方が気が楽で好きですよ。」
「ねえそれって褒めてんの?」
「めちゃめちゃ褒め言葉です。」

ふふ。と笑えば門倉さんはどこか微妙な顔をして、それから小さくなった煙草を灰皿に押しつぶした。タン塩の登場でコースのお肉は全部で終わり、締めに肉丼を食べ終わるとあとは帰るだけだ。お会計をする門倉さんを扉越しにぼんやり眺める。最近忙しいせいか少しだけ頬が痩けた気がする。肌もガサガサだし、多分、というか絶対あの日以降女の肌を抱いていないのだろうなと思う。緩めたネクタイから覗く普通のおじさんの喉仏に少しだけ目を細めて、それから自分の唇をその喉仏に優しく寄せるのを想像した。

「ごちそうさまでした。あとお返しのチョコ、ありがとうございます。」
「ああ。こちらこそ付き合ってもらって悪かったな。チケットやるからタクシーで帰れよ。この時間、駅すげえだろうから。」
「門倉さん、」
「ん?」
「セックスしたいです。」
「は、」

唇に咥えた煙草を盛大に落として、動揺したのかその場でよくわからないステップを踏んで門倉さんは足をつったらしく電信柱に身を預けた。本当にこの人いつもこの調子だよなと笑えば、目の前のかっこ悪いおじさんは「笑うなよ…」としょんぼりした目で見てきた。

「いや、セックスって、」
「したくないんですか?」
「いや、仮にやりたいって言ったらセクハラだから。」
「私のも立派にセクハラですけどね。」
「自覚しながら喋るのやめようか。」
「セックスしたいです、門倉さんと。私、あの日からずっとまた一緒に居たいって思ってました。門倉さんはどう思ってましたか。」
「最近の子ってなんかもうすごいんだね。おじさんびっくりしたよ、東京ラブストーリーかと思った。」
「素直なんです。」
「ああ、そうだな。素直で良い子だよ。それに可愛い。おっぱい大きいしね。」
「はは、セクハラだ」

お互い様でしょ。そう言いながら挫いた方の足を撫でながらもまっすぐそう言ってようやく両方の足で立つと、門倉さんは落ちた煙草をひょいとつまんで側の灰皿に投げ入れた。てんで別の方向に向かった煙草は私の足元に落ちたので結局私がそのままいれてやれば普通の真顔でありがとうと言われたのでどういたしましてと返してやった。そしてはあ、と一息つくと少しだけ目を泳がせて何かを思案していたようだが、私がずっとまっすぐ門倉さんを見つめているのに耐えられなかったのか、観念したようにもう一度深いため息を吐くと頬をぽりぽり掻いてから口を開いた。

「…じゃあ、一緒にタクシーで帰るか。」
「はい。」

そう言って一緒に歩き出すと六本木交差点の方へと肩を並べて歩いていく。まだ木曜日だと言うのにどこから湧いてくるのかどんどんどこからともなく人がゴミのように溢れ出てきて、それから道にゴミと一緒に色々なものを撒き散らしていく。ポケットから出された大きな彼の手を見つめて、それから私も息を吐く。手持ち無沙汰そうにどこか指を震えるように微かに動かして、それから何度もグーパーを繰り返す。あの日も確か、そうやって10分も繰り返して結局私が先に手を繋いでやったらその動きは大人しくなったのだ。今すぐにでもその大きな手に自分の冷たい手を絡ませたいけど、タクシーまでもう少し我慢だ。流石に会社の近くじゃあ、気まずいだろうから。

「あ、そう言えば、東京ラブストーリーって何ですか?」
「…マジで言ってんの?」
「はい。」
「ジェネレーションギャップってやつだな。」
「教えてください。」
「まあ、あとで、家についたら教えてやるよ。」

珍しく意地悪そうに笑うと、門倉さんは私の手に自分のかさかさの手を絡ませて、通りのタクシーに手を上げた。

2019.3.3.
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