短編 | ナノ
鶴見さんに歯磨きをしてもらう

「やれやれ、歯も磨かずに眠るつもりか?」

声に反応しようと息を吸い込むも、今は疲労と倦怠感でそれさえも億劫だった。こんなに疲れたのは久しぶりで、疲れを癒そうと珍しくコンビニで適当に数本買ってきて勢いで飲んだお酒もまずかったらしい。ハアハアと少し荒い息遣いをすれば困ったようなため息が頭上から聞こえてきた。また彼を失望させてしまっただろうかと人知れず落胆して、でも今は抗えない疲労感に身をまかせる事で精一杯だ。ソファに自分の身を横たわらせ瞼を閉じたまま呼吸を繰り返していれば、突然体に何か温かい布が敷かれた。その直後、何らや頭上でもぞもぞソファが動いているなと思っていれば突然体を引っ張られて思わず目を見開く。そうすれば視界に見慣れた天井と共にニッコリと笑む男性の顔が見えてそこで初めて自分は今彼、鶴見さんのお膝の上でいわゆる『膝枕』というものをしているのだと理解できた。

「つ、鶴見さん…?」
「眠る前に歯を磨こうか。でないと、虫歯になっていしまうぞぉ?いいのか?甘いものがしばらく食べられなくなっても。」
「じ、自分で磨けますから、」
「そんなふわふわした調子で本当にできるのか?随分酔っ払っているようだが。」
「ちょっと疲れてて…お酒回るのが早いんですよ」
「だったら尚更私に任せたほうがいいだろう。目が据わっていて見てられんからなあ」
「そんな、子供扱いしないでください…」
「子供みたいになるまで飲むのもどうかと思うがな」

そう言って鶴見さんは視線を目の前のテーブルに移した。確かに、テーブルの上には4、5本チューハイの空き缶が転がっていて弁明の余地もない。もちろん、全て先ほど自分で胃に流し込んだものの残骸だ。酔っ払っているのでこれ以上抵抗することも考えることも全てが面倒になってしまい、ほれほれと唇にあてがわれたその赤い歯ブラシを受け入れるように渋々唇を開ければ何だか子供の頃によく見ていたNHKの歯磨きのコーナーを思い出して滑稽に思えた。あれは確か仕上げはお母さんがやっていたはずだが、最初からお母さんにお願いするのは恐らくあのコーナー始まって以来、私くらいであろうか(もちろん彼はお母さんではなく実の恋人であるのだが)。

「自分で磨いているとなかなか内側を磨く事が少ないだろう?どれ、もっと口を大きく開けなさい。」
「…はひ、」

もうここまでくると恥じらいも全て無くなったに等しく、ぎゅっとブランケットを握りしめて言われた通りに大きく口を開いた。鶴見さんはまるで宝探しのように注意深く私の口内を睨め回して、一つ一つしらみつぶしをしていくように一本一本懇切丁寧に歯ブラシの先で綺麗に磨いていく。力加減もまるでその道のプロかと思わせるほどの程よい強さで、いつも使っている歯磨きなのに特別なものに感じた。歯磨き粉はちょっとしかつけていなかったらしく、なかなか泡立たないが、こうして丁寧に磨くにはそれくらいがちょうど良いらしい。

「風水では歯を綺麗にすると金運が上がるそうだ。良かったな?」
「あの、もういいでふか」
「まだまだぁ。歯磨きは最低10分はかけないとダメなんだぞ?もう5分は待ちなさい。」
「………」

もちろんそんなことは理解していたのだが、流石に10分も人にやらせておくのは如何なものかと思いそう言ったのだ。しかし、鶴見さんは納得いくまで歯を磨きたいらしい。まるで本当に自分が赤ちゃんにでもなってしまったかのような錯覚さえ覚え始めて視線をあげれば、何がそんなに楽しいのか鶴見さんはとてもご機嫌で私の歯をシャコシャコ磨いては私を覗き込んでニッコリと微笑まれた。そしてようやく満足された頃合いでその手を止めると私の口内を再び注意深く確認し、よし、これでいいだろうとお許しのお言葉を下さった。解放されてようやく起き上がり洗面台へとトボトボ足を進める。自分では普段磨き残しがちな場所も磨いて頂いたせいか、とても口内がスッキリしている。

「スッキリしたろう?」
「おかげさまで。ありがとうございました。」

もぞもぞと口元をタオルで拭いていれば歯磨きを戻しに来た鶴見さんと洗面所で並んだ。カランと甲高い音を立てて鶴見さんの青い歯ブラシと自分の淡い赤の歯ブラシが交差する。鶴見さんの歯ブラシはいつも毛並みが揃っていて綺麗だし、けばけばしたところを見た事がない。自分のやや毛羽立った歯ブラシを見て余計にそう思う。

「歯ブラシ、今度は鶴見さんと同じにしようかな。」
「じゃあ、今度一緒に買いに行こうか。」
「はい。」
「口内のメンテナンスは日々しっかりやって損はない、これから定期的に私が見てやろうか?」
「そ、そこまで子供じゃありません!でも…これからはますます気をつけますね。」
「いい心がけだな。」
「先にベッド行ってますね。」

くあ、とあくびを一つすると鶴見さんが自分の歯を磨き始められたタイミングでそのまま先に洗面台を後にした。今日はスッキリ眠れそうだ、そう思い緩む頬に手をあてる。チラと視界の端に捉えた鏡越しの鶴見さんが私と一瞬目があうとにたりと口角を上げられたので思わず首を傾げたが、ほんの一瞬のことで、そのまま洗面台を後にした。

「………せっかくだから下のお口のメンテナンスもしておこうか、」

聞こえるか否かで呟く低い声に聞こえなかったふりをして、一瞬止まりそうになった足を何とか引きずって寝室へと進んでいく。幸か不幸か、ふるりと瞬時に震えた背筋はただの冷え性のせいではない事が理解できるくらいには、どうやら自分はまだ正気らしかった。


2019.01.03.
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