短編 | ナノ
優しいヤクザ月島さんとお嬢さん

明日は雨になると言う。雨は苦手だ。


「さっきの何の歌なんですか?」
「は?」
「鼻歌。お風呂の時ご機嫌そうな鼻歌が聞こえて来たから。」

私がそう言って視線を寄越せば隣の男は体の動きを止めて、それから暫し考えていたが眉間にしわを寄せてうーん、と小さく唸った後、再び私に視線を合わせた。私が首を微かに捻れば彼も少し困った様に眉を下げて、分からん、と一言宣ってから漸く缶ビールに口をつけた。明日は雨だとお天気お姉さんが言うと、隣の彼は少しだけ嬉しそうに口角を上げ、ビールの缶を持っていない方の手で私を握るとグーパーグーパーと楽しそうに戯れ始めてしまった。

「明日どうする。どっか行きたいか。」
「…雨なのにどこか行くの?」
「雨だから行くんだろう。水族館に行きたいって言ってたな。スカイツリー行くか。」
「どうせならプラネタリウムに行きたい。コニカミノルタの。」

私がそう言えば隣の彼、月島さんは至極ご機嫌そうに一本目のビールを空けた。今日は金曜ロードショーで紅の豚をやると言う。開け放った窓からは湿った空気が小さな音を立てて入る込んでくる。今日の夜にかけて雨ですと、レインボー発のお天気お姉さんの言葉を思い出して些かげんなりした。そんな私の気持ちなど露知らず、月島さんは紅の豚を真剣に見始めていた。すんすんと彼の肩に頭を預ければパンテーンの匂いがした。

「私ね、レインボー発のこと、小さい頃『レインボ1発』だと思ってたんだ。」
「意味わからん。何だよレインボって。」

自分の髪をかき上げれば自分からもパンテーンの香りがした。ビールちょうだい、と言えば月島さんは自分が飲んでいたビールを私の空グラスに注いだ。あ、関節チューじゃん。笑えば「良かったな」と返されたのでそっちも意味がわからんなとぼんやり思った。ニュースが終わるとCMを挟んで漸く紅の豚の本編が始まった。緑の小さな豚達が様々な言語を織り成して行く。

「そう言えば、俺も子供の頃そう言う変な思い込みしてたな。」
「どう言うやつ?」
「例えば、波浪警報をハロー(HELLO)警報だと思ってた。」
「レインボのこと言えないじゃん。」

テレビ画面ではマンマユート団がポルコに追い詰められて、無邪気な幼稚園位の女の子達が海にどんどん飛び込んでいく。「心配しないで、私達スイミングスクールの子だから」、と言う大人の気も知らないセリフに少しだけ笑った。子供ってこう言うところがある。私は未だにもうしかしたら月島さんからしたらこう言う子かもしれない。ふと視線を上げれば月島さんの顎髭が少し伸びているのがちょっと気になった。

「あとは、そうだな…今の親は実は他人で、だから大人になったら親父と違って背も高くなるし、人を助けることのできる優しいヒーローみたいなのになれるんだと、そう信じてた。」

テレビの影響だな。そう言いながら月島さんは3本目のビールに手を伸ばした。随分さらりと言ってくれるじゃないか。そう思って思わずグラスを持って、結局口もつけずにテーブルに戻してしまった。月島さんは時折こう言うところがある。彼の腕を引っ張って、それからぎゅっと抱きしめる。ジーナの美しい歌声と共に、窓の外からしとしとと小さな雨音が聞こえてきた。寒いと呟けば雑にブランケットを被せられた。むかっときて月島さんの肩に顎を乗せてウガウガと口を開閉すれば、くすぐったいと言われた。チラと見えた首筋の裏の極彩色を暫くの間見つめる。彼の着ているシャツからは自分が着ている部屋着と同じダウニーの香りがして、何だか酷く滑稽に思えた。

「ねえ、ダウニーの香りがするヤクザってどうよ。」
「別にいいだろ。」
「鶴見さんは何にも言わないの?」
「いい匂いだなって言う。」
「(言うんだ。)」

漸く顔をテレビの方に向けると、何やかんやあってポルコが例の名言を言ってジーナに怒られていた。飛べる豚は普通の豚とは違うように、女の子と同棲したり、太陽の下を堂々と歩けないから雨の日を好んでデートをしたがるヤクザは、ただのヤクザではないのだろうか。窓の外の雨脚はだんだんと強くなっていく一方だ。雨嫌い。呟けばむくりと私に視線を寄越す月島さんと目があった。

「何で雨嫌いなんだよ。雨は草花や木に取っていいだろう。」
「そのお顔でそれを言うとは思わなんだ。」
「節約だって言ってミニトマトの苗買ってすぐ枯らす奴には言われたくないな。」
「…月島さん雨の日ばっかりデートに誘うんだもん。雨何でそんなに好きなの。」

不貞腐れたようにそういえば、彼が再び此方を見てじっと見つめる。缶ビールを持ったまま。まるで時間が止まってしまったかのようだ。此方を見る目はようく見ると、湖のように淡く深い緑が見えた。暫く黙った後、彼はふっと笑うとビールを置いて私の顔に手を伸ばし、私の額に唇を優しく押し付けた。

「お前と会ったのも雨だったろう。」


◇ ◇ ◇


「すみませんでした…」
「いや、」

礼を述べて深々と頭を下げれば、目の前の男は視線を逸らして少し恥ずかしそうに頭を掻いた。破れて肌蹴てしまった服を抑えて鼻を啜れば、それに気が付いた男が自分が着ていたジャケットを私にかけてくれた。深夜1時を過ぎ真っ暗が支配する世界で、自分たちを照らすこの心許ないジリジリとした街灯だけが世界で唯一の光のように感じ、彼に当たって後光のように感じた。まさか自分が暴漢に襲われるなんて思わなかったし、もう終わりだと思っていた矢先、まるでアメコミのように屈強な男が助けてくれるとも思わなかった。そしてその暴漢もボコボコにされた挙句負け犬のように逃げていくところまでも、まるでシナリオ通り、と言ったところだ。気がつけば空からはしとしとと冷たいそれが降って来て、あっという間に地面と私達を濡らしていく。

「私のせいでお怪我が、」
「あ、返り血です。」
「…(返り血なんだ)でも、シャツが汚れてしまったので。弁償しますし、その、家に来ていただければ。すごい雨降って来ましたし。」
「いや、俺は、」
「さっきの男、ストーカーだから、家も割れてるんです。報復してくるかもしれないんです。だから、」

そう言えば目の前の男はハッとしてそうか、と一言言ったのち、私の手を引くともう使い物にならんだろうと折れてしまったハイヒールを脱がせ、私を背負った。大丈夫か、と振り向いた時に見えた目が深緑色にどきりと心臓が跳ねて、ヒーローみたいですね、そんな小さな言葉などザアザア降りの雨の中では聞こえるはずもなく、はい?と彼が聞いて来たので、咄嗟に何でもないと首を振った。これだから雨は苦手だ。

2018.12.01.
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