猫を飼い始めた。本当の名前はまだ知らない。

「タバコ…」
「賃貸なので勘弁してください。」

私がピシャリとそういえば彼はむくりとこちらを一瞥し、そして静かにライターをポケットにしまった。テーブルに煙草を軽快に何度も軽くトントンとして、それから結局吸えないのでまた箱に押し戻す。これを見るのはもう何度目になるだろうか。最初こそ何だか悪いかなと思っていたが、今はもうあまり何も感じなくなってしまった。なぜなら彼はどうせ部屋で吸うからだ（もうこの部屋を出ていくときに何か言われたら彼にクリーニング代を請求しようと思う）。秋も深まりだんだんと寒くなってきたが、今日は夏が戻ってきたかのように少し暖かかった。おかげで私の洗濯も彼の洗濯も早く乾いてよかった。寒くなると洗濯物の乾きが良くなくて困る、そう愚痴を零せば彼はその日のうちに新しい乾燥機付きの最新の洗濯機を勝手に買ってきて勝手に設置されて面を食らったのが数日前。彼なりに一応私に感謝や恩を感じているのだろうか、とぼんやり思いながらその日は静かにお礼を述べた。彼はその時も一瞥くれるだけでそれ以上は何も言わなかった。

「なあ、あのカレンダーの丸なんだ。」
「ん？…ああ。実家に帰るんですよ。」
「ふん。里帰りか。」
「お見合いしに」
「は、」

背中からそう聞こえて、それから暫くの沈黙が部屋を包む。じゅ、と言う音が聞こえたかと思えば鼻孔に煙草の煙の香りが届いて思わず眉間に皺を寄せた。テレビの音が窓から聞こえてくる何処かの犬の声とシンクロしている。流しっぱなしのテレビからは笑い声だけが鮮明に聞こえてくるので何の番組かは分からないが、彼が一切笑わないのであまり面白くないことだけはよく分かった。お皿洗いを終えてひと休憩を挟もうかと思って手を拭う。アイス食べたいな。呟いた意味のない言葉はテレビの音にかき消される。お皿を拭き終えて棚にしまい終えて一息ついた刹那、突然、あの煙草の匂いが強くなって振り向いた。そこには案の定、私の後ろにいつの間にやら移動したらしい男がいて少しだけ驚いて目を見開いた。

「何？」
「買いにいくか。」
「え？」
「アイス食べたいだろ。」
「…でも、」
「俺も食うからいくぞ。」


チラと視線を彼の緩められた首元へと移す。チラと見える鎖骨や首筋の裏にはグロテスクな程に芸術的な彫り物がある。痛くないのかな、と最初見たときは掘ったことのない私が不思議と首の裏が痒くなった気がしたが、今はもう何も感じない。上等なシャツもゆるゆると人をダメにするソファに座ったせいであっという間にぐしゃぐしゃで、ハイブランドのネクタイもリビングの床にうずくまっている。ジャケットは辛うじてさっきハンガーにかけたが、本当にこの人これでいいのだろうか、とぼんやり思って、それから再び視線を上げた。光のない猫目がじっと私を見据えていて、きっとトムとジェリーのジェリーはいつもこんな気持ちなんだなあと可笑しなことを思い起こした。

「冷蔵庫にパピコあるからいいよ」
「…」
「オガタさん、パピコ好きでしょ」

私がそう言えば目の前の男は暫く無言で私を見下ろしたのち、無遠慮に煙草をシンクの水で流すとそのままぽいとゴミ箱に器用に投げ入れた。そして私の頬に触れるとそのまま顔を近づけてきたので突然のことで驚きながらも反射的に目を瞑る。数秒たったのち、何も起きないので恐る恐る目を開ければ、ニヤリと口角を上げた意地の悪い笑顔の猫目と目があった。

「な、何ですか。」
「いや何、安心したよ。」
「え」
「俺は一応男として見てもらってるらしいからな。」
「…どう言うことですか」
「俺はお前の何だろうと思ってな。なあ、何だと思う？」
「家の前で倒れていたところを女の子に助けてもらったか弱いヤクザ。」
「そう言う意味じゃねえよ。」
「…そんなの、私に聞かれたって…オガタさんこそ、私のこと、何だと思ってるんです？」
「…わからん。あと、お前は女の子、と言う年じゃねえからな。」
「何でそこだけ厳しいの。」

うざ、そう言えば彼は再び嬉しそうに口角を上げて目を細める。この人は基本的に天邪鬼だ。何だかムカムカしてきて彼と同じく私も両の手を彼の頬に添えてみる。そうすれば今度は細められた目が驚くほどに大きく見開いて、黒目がちな目が少しだけ震えた気がした。顎の縫合痕を両の手の親指の腹で撫でればどこかくすぐったそうに、居た堪れないとでも言いたそうに視線を逸らす。目を瞑らずとも鮮明に思い出すことができるくらいにはまだ記憶は浅い。彼と初めて出会ったのは台風が目前と迫り、職場から避難命令が下されて少しワクワクしながら帰ったあの雨の日だった。風が強くてもう誰も外に出ていなかった夕方ごろ、何故か家の前のマンションの入り口に人間が転がっているのを見て、思わず台風で飛ばされたのではと駆け寄ったのが運の尽きだった。顎が砕け、右腕の折れた男は明らかにカタギではない。おまけに背中に紋紋とくればもう皆まで言わずとも分かっていたことだ。分かっていたのだが、あれよあれよと言う間に私は介抱をしてしまい、気がつけばこうして手なずけてしまっている（のだろうか）。それとも、こっちが絆されてしまったのだろうか。名前を問えば暫くの沈黙の後、「オガタ」と一言言った。時間をかけて考えた偽名だろうな、とハナから決めつけたので、心の中ではカタカナで（仮）をつけている。猫は元気になると勝手に外に出るようになったが、また悪さをしているようだった。どうか巻き込まれることだけは避けたかったが、猫はそう言ういざこざや面倒ごとは持ってはこなかった。代わりに持ってきたのは夕飯のおかずや（自分がその時食べたい物）、上等なベッドマットレスや（自分が寝る時に一番合うもの）、最新式のドラム洗濯機だった。猫の恩返しにしてはなかなか悪くないとは思うが、こう言うことは一体いつまで続くんだろうとも思っていた。猫は自分の秘密を話さないし、ずっと黙ったまま見つめるだけだ。ニャアとたまに泣いたかと思えば、お腹が空いただのと呑気なことばかり口を衝いて出る。そして好き勝手やって、猫はやがて飼い主の元から離れてひっそり息を引き取ると言うから、あまり愛着を湧かせてはいけないと、そう強く思っていた。スリスリともうすっかり治った顎の縫合痕がねこのひげみたいだと思わず呟いて1人で笑えば目の前の彼は眉をひそめて、それから私をじっと見つめた。

「私はオガタさんの何？」
「俺はお前の何だ。」
「質問を質問で返すのよくないよ。」
「泣きながら質問をするのはいいのか？」
「、いいの。」
「わがままだな。どっちが猫だか分からねえよ。」
「ヤクザとこんなことになるだなんて思わなかった。」
「ああ」
「お父さんとお母さんにもなんて言えばいいか分からない、」
「ああ」
「一生、誰にも言えないかもしれない、」
「…」
「もう、どうすればいいか分からな、」

むちゅ、と突然待ち望んでいた熱を唇に感じて思わず瞼を閉じた。両の腕を首に回して背伸びをすればがしりと腰を掴まれて引き寄せられる。お互いがお互いの酸素を奪うような行為を暫く終えると、静かにその柔らかな熱が離れて思わず大きく呼吸を繰り返した。そして視線をあげれば珍しく息を乱して頬を仄かに染める猫目と目があった。彼はペロリと唇を舐めると、再び減らぬ口を叩いた。

「俺もカタギの、何も分かっちゃいねえ素人の女を抱くことになるとは思わなかったよ。」
「…言い方が嫌。」
「はは、」
「ねえ、オガタさんの名前って本当にオガタなの？」
「何だよ急に」
「偽名だと思ってるから。」
「とんでもねえ女だな。本当に俺に惚れてるのかお前。」
「じゃあ本当の名前は？」
「……尾形百之助。」

ボソリと呟くと男はどこか照れ臭そうに視線をそらすと、誤魔化すように私を抱き上げてそのまま寝室に連れて行くようだった。百之介、ひゃくのすけ、ヒャクノスケ。呟いてみれば見るほど何だかしっくりくるようでこない。「何だ、たまじゃないんだ。」とクスリと笑えば真っ暗闇のベッドに放り込まれて、そのまま見えない暗闇の中で再び噛み付かれた。


2018.11.24.