短編 | ナノ
鶴見さんと夜明け前

「…とくしろう、」
ポツリと呟けば暗闇の中に吸い込まれるように消えていき後には何も残らないようだった。ゆっくりと瞼を開けばそこもまた仄暗さが支配する世界が広がっていて、分厚いカーテンの隙間から漏れる微かな澄んだ青色の光をぼんやりと眺めていた。
「呼んだか。」
驚いて視線を傍らに向ければいつの間にやらキュッと綺麗に閉じられていた唇は僅かに開かれていて、細められた二つの瞳が私を捉えていた。ちらと見えた時計は4時過ぎを指していて、自分ともう一人の男の微かな息遣いと小雨の音しか聞こえない。時々聞こえてくるシーツが擦れる小さな衣摺れの音さえ今のこの世界では大袈裟に聞こえた。僅かに身を捩っただけでも自分の鼻先と男の鼻先がくっつきそうな距離。息を吸い込めば男の心地よい香りがうなじから薫ってきて鼻腔を掠め、やがて肺に行き届き、この香りと一緒に酸素が身体中に循環していくことを想像したら、セックス以上に官能的でロマンティックであると思って、思わず目をそらした。目の前の男は私が頭の裏でそんな夢想をしていることを知らぬはずなのだが、まるで全てを見透かしているかのように私を暫く黙って見つめて口角を上げた。そして慎重に手を伸ばすと私の頬に触れて、陶器に触れるかのように指の腹でするりと撫でた。
「怖い夢でも見たか?」
「いいえ」
「私は見たよ」
「どんな夢?」
「さあ、忘れてしまったな。起きたらすっぽり抜け落ちてしまったようだ。だが、酷く恐ろしい夢だった。目が覚めても、目が覚めても、一向に朝の来ない闇に放り込まれるような、そんな夢だった気がする。」
「鶴見さんでも怖いと思うのね。」
「当然だ、一体私を何だと思っていたんだ?」
「素敵な紳士、ナイスミドル、お髭が可愛い男の人、イケメン、甘党ギャップが可愛いおじさま」
「お前は私を通して理想を見ているようだな?」
「鶴見さんは完璧なのよ。」
「違う、私は完璧なんかではない、ただの男だよ。」
「私にとっては完璧なのに。」
そう言って上目で彼を見つめれば彼は可笑しそうに一笑して、それからスッと上げた口角を戻すと口をキュッと噤んだ。カーテンの方をちら、と向けば先ほどよりも白んできた青が差し込んで私たちの足元を照らしている。先ほどまで微かに聞こえていた小雨は止んでいるようだった。彼は私の触れていた頬の手を滑らせて背中に回すとぎゅう、と自分の胸に収めるように抱きしめた。お互い下着も纒わずにいたので、抱きしめられれば互いの肌と肌が触れ合う。昨晩の余韻を感じさせる体温に少しだけ息を飲んで、それから大人しく彼の胸に耳を当てた。とくとくと規則正しい心音に耳を傾けて瞼を閉じると再び何か小さな生き物たちが蠢くような暗がりが広がっていった。
「私の名を呼んでくれないか」
「鶴見さん」
「そうじゃない。さっきと同じように呼んでごらん」
「…、」
先ほどと同じように紡ごうとして、しかし息を吸い込んだ直後、ハッとして思わず吐息を漏らした。まるでそれまで咲いていた花がしおれるような、風船から空気が抜けていくような、そんな感覚だ。愛おしくて愛おしくて、知りたくて知りたくて、ようやく手に入れたその名を手放しで喜んで口にするには、私はあまりにも幼稚で、無知で、そして愚かだったと思わざるを得なかった。彼の名を紡ごうとした刹那、頭の裏で今度は昨晩の互いの熱を思い出して、微かに息が震えた。まるで私たちの世界は昨晩を挟んで昨日と今日とで全く違う世界になってしまったかのように感じた。知りたいと言ったのは私だった。そして彼は私を愛しているが故に答えただけだった。彼のことは知りたいと思うと同時に、その実知りたくないと思っていたのだと、そんな独りよがりな自分に気付いて心から恥じた。あの夜から、私と彼は確実に昨日の私と彼とは違う、そう思った。黙ったまま静かに視線を落とす私に鶴見さんはしばらく黙っていたが、ふ、と小さく笑うと背中に回していた手を再び私の頬に添えて、それから顎をくいとあげさせた。視界に捉えた彼はどこか憂いを孕んだような瞳で、どこか遠くを見るような視線で私を見つめていた。
「ほらな。愛する女に名前で呼ぶことを躊躇せる、不器用で醜い男だ。」
「…鶴見さんのせいじゃないの、私がいけないの」
「それは違う。お前のせいなんかじゃない。私の業が深かっただけだ。」
「私があまりにも知らなさすぎたの。あなたのせいじゃないの。」
だんだんと霞んでいく世界に反して、目の前の彼は目を細めて微笑んでいるようだった。ホロリと頬に冷たい何かが伝ったかと思えば、それは漏れ無く大きくて冷たい指で拭われた。そして目の前の彼は徐ろに顔を近づけると、そのまま優しく私の唇を奪った。
「名前を呼んでくれないか。」
「…とく、し、ろう、」
「ああ」
「とくし、ろう。」
「うん、」
未だ唇に馴染まないその名前は正直しっくりこなくて、まるで何かの呪文を唱えているような気がした。それでも、「なんだか違和感を感じるわ」と言いそうになった唇を結んだのは、目の前の彼の瞳がそれまで以上に震えていて、ほのかに光を宿した気がしたからだ。
「篤四郎、さん」
「ああ。」
「…なんんだか、知らない国の呪文みたいね。照れ臭い気がするの。」
「そうだな、私もだ。…ありがとう、もうすっかり明るくなったよ。」
呪文のお陰だな。そう言って篤四郎さんは目を細めると大きな両の手でボロボロ流れ出る私の涙をぬぐいながら、再び私にキスを落とした。視界が朝靄のようにぼやけて霞んでいく。彼の肩越しに見えたカーテンの外側はもうすっかり黄金色を帯びていた。

もう少しで、世界は新しい朝を迎える。

2018.11.09.
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