短編 | ナノ
ローにお注射される

運があるとかないとかよく言うけれど、私はあの男ほど“クソみたいな運の持ち主”を知らない。運はいつでも人間の大部分を左右するし、時には人格の形成にも大きな影響を与える。彼は間違いなく彼自身の運命に翻弄されて心身ともに摩耗している。けれどそんな“クソみたいな運の持ち主”である彼は悪運は強いらしく、何とか今の今まで生きていたのだった。目の下に、くっきりとした隈を刻みながら。

「痛い。」
「我慢しろ。」
「痛いよ。」
「我慢しろ。」

同じことしか返さないんだなと感心しながら私は目の前のやたら隈の濃い男に自分の腕を投げ出したまま動かない。腕に力をいれようものなら全力で頭を叩くのだ。既に注射による痛みに耐えているというのに、頭まで痛くなっては面白くない。とりあえず早く終わることだけを考えながら視線を窓辺に移す。窓の向こう側は真っ暗な世界が支配していて、時折深海魚の目なのかぎらりと光った。暫くすると先程まで無言で事務的に作業をしていた男は小さく息を吐くと、ゆっくりと注射を引き抜いた。この瞬間、なんだか情事のようだなといつも思う。男は慣れた手つきでカルテに何か書き加えると、そのまま椅子に腰を下ろした。先ほど私が淹れてあげたコーヒーはもうすでに冷めたらしく湯気はない。

「血圧相変わらず低いんだけど、何か薬ないの。」
「こんだけ薬漬けの体でこれ以上何摂取するつもりなんだよ。」
「朝が辛いんだもん。」
「食い物で補え。それができねえなら我慢しろ。薬はこれ以上投与しねえからな。」
「レバー苦手。血なまぐさいのだめなの。」
「ほうれん草でも食っとけ。」

男はそう言って冷たくあしらうと一言の遠慮もなく私のシャツをめくり腹をあらわにした。乙女に対して随分不躾な行為であることは私も重々承知なのだが、慣れというものは恐ろしいもので、めくれたシャツを持って大人しく為すがままでいた。男のゴツゴツしたひんやりと冷たい指先が腹に触れる度にゾクゾクしてしまう。男は表情一つ変えずに心音を聴くよう務める。彼の言動は随分無骨で失礼に値することのほうが多いが、こういった作業をしているときは事務的でありながら的確の一言に尽きるのであり、無駄のない最善の業務を淡々と冷静に執り行うのであった。彼にとってはそれが至極当たり前のことなのかもしれないが、私にはその作業は一種の神秘性を孕んでいるように思えた。料理人が魚を包丁で丁寧におろしていくように、硝子細工師が丁寧にガラスを己の吐息で膨らまして形を与えていくように、彼の指が私の体に触れて私に医療を施すのは神聖であり儀式のようなものであった。言動はぶっきらぼうであるがその手つきは神様のように優しく平等に人に施しを与えるのだ。

「もういい。」

彼の一言で私は捲ったシャツを元通りに下ろす。男はそれきりこちらを向かずにまた本を取り出すとそれと睨めっこを始めた。そしてまた一通り鉛筆を走らせるとこちらを見ることなく「くすりちゃんと飲めよ」と一言言った。私はうんと一言答えるもそこから動こうとはしなかった。男は別に気に止めぬ様子ですっかり冷えたコーヒーを一口口にしてそのまま机に向かう。時計の針は夜の11時を回っていた。

「ロー」
「船長だろ。」
「うん。」
「うんじゃねえよ。さっさと部屋もどれ。」
「うん。」

じっとりとした熱のこもる視線で彼の言動を眺めた。あまり物を口にしない彼の体はよくもまあ成人男性としての肉体を維持できるものだと、病人である自分でも感心してしまう。さらさらと男の指が鉛筆を紙に走らせる音が聞こえ始めた。もうこんなに遅くだというのに、はたして今から作業を初めてこれはいつになったら終わるのか。長い夜がまた始まろうとしている。注射をされた左腕が疼き、彼に触れられた腹部は熱を帯びたように熱い。彼の節くれだった細く大きな指に、また触れて欲しくてたまらなくなるのだ。

「ロー。」
「………なんだよ。じろじろ見んな。寝ろ。」
「欲情した。」
「ああ?」
「ローの指えろいんだもん。」

そう言えば男は隈の刻まれたその目でじとりとこちらを見た。多分ケロリとした表情の私を見ると男はふ、と息を吐くと、こちらに向き直した。ぎしりと無機質なパイプの椅子が鳴る。ベポたちは今頃お酒も入ってぐーすか眠っている頃だろう。男はそのエロい指を私に伸ばすと私の頬に触れた。男の親指が私の頬をするすると撫でた。男は表情一つ変えぬまま、私をもう一方の腕で抱き寄せると自分の膝に座らせた。私が腕を男の首に回すと、男は顔を寄せる。キャミソールの中に手が入り込んで、器用にブラジャーのホックが外される。目を閉じぬまま、キスをされる。頬を撫でていた親指はやがて私の唇に割るように入れられて、開いた場所から舌をねじ込まれる。幽かに開けた視界には相変わらず目を閉じずに私を口付ける男が見えた。男は目が合うとようやくふっと笑った。

「シたらちゃんと寝ろよ。」
「うん。」

これじゃまるでさっきの事務作業だな、と思って笑ったら唇を噛まれた。


2015.08.22.
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