短編 | ナノ
燈涼し

「今年は蝉があんまりいないね、ばあちゃん。」
「居たさ、先週までまあいたけども、盆からさっぱりいなぐなったなァ…」


カラスが皆食っちまったか、とそう言うともう齢70を超えた祖母は何か可笑しそうに笑った。虫除け用の粉のようなものを田んぼにまき散らしながら、私はその傍らで盂蘭盆用の菊の花やら何やらを切るので忙しかった。その傍らでは何を考えているのかさっぱり分からんが、煙草を燻らせながら一人ぼうっとその田んぼの青々したのを見詰めている男が一人、まるで私たちの仕事をご苦労様ですねえ、とでも言うようにじっと見つめたまんま、黙っているのが一人いた。


「百ちゃんも手伝う?」
「いや…、俺はいい。」


虫つくし、とまるで女子高生のようなことを言って百ちゃんは煙草を一個消すとその辺の缶に入れて器用にポケットからもう一本取り出して煙草をまた吸いだした。私が怪訝な顔をすれば百ちゃんはにいと口角を上げて、引いた茣蓙の上で足を組み替えると私に新品の一本を差し出した。


「吸うか?」
「…いらない。煙草ばっか吸って。」
「いいんだいいんだ、煙がありゃあ虫も寄って来ねえし、狐も狸も来ねえし、いいことずくめなんだ。」
「ばあちゃんもそう言ってるぜ。」


おばあちゃんの手前、うざ、と心の内で独り言ちて、ざくざくと菊の葉を切っていく。ちきちきと虫音がどこからともなく聞こえてきて、ぼうっと辺りを見回したが、この一面の緑の中ではどうにも見つかる気配はない。早朝になれば20度くらいにしかならないこの東北の地では昼間以外はクーラーは必要なかった。ユニクロのTシャツにフォーエバー21で買ってきた短めのダメージジーンズにサンダルといういかにも蚊に食われそうな風体で作業をこなしていれば、その辺のおじさんやおばさんは珍しそうに私を見たが、傍らで煙草を蒸かすこの男の風体もなかなか負けてはいない。

良く分からない柄のアロハシャツに短パン、先ほどまではサングラスまで掛けていたから、髭は剃っていないしでヤの付く自由業の方と絶対に思われていることだろう。近所の人が田んぼを通るたびにお祖母ちゃんは嬉しそうに、東京の商社でバリバリ働く私の『いい人』が挨拶に来てくれたと紹介したが、恐らく、ほぼ信じてもらえてないだろう。実は本当なんだけれど。


「ちょっと夕飯の支度さしてくるわ。」
「あ、じゃあ私も…」
「いいんだ、花の面倒みててけれ。ここは涼しいし、もうそろそろ蛍さ出てくるかもしれね。」


見てこい、とそう言っておばあちゃんは蚊取り線香をこちらの方に持ってくると、そのままのっしのっしとざるを抱えたまま家の方に行ってしまった。取り残された私は暫くぼんやりと夕日の方に向かって行くお祖母ちゃんの小さな背中を見詰めていたが、おい、という傍らの男のひと声で意識を再びこちらに戻した。ばち、ばち、というはさみの音も再開させて、ん?と声で返事をした。


「なんもないな。」
「なんもないよ。最初に言ったじゃん。」
「ここまでとは思わなかった。」
「うん。」
「…蛍何処だよ。」
「まだこの時間はないでしょ。あと一時間くらいしたら見れるんじゃない?」


そう言えばアロハシャツの男基百ちゃんは返事の代わりにじりじりと煙草を吸って黙って、それからふうっと吐いた。春先の健康診断で引っ掛かったばかりだというのに彼は改善の兆しさえ見せなかった。


「たばこ吸ってたらでないかもよ?」
「これで最後だ。」


そう言って本当かどうかわからないが百ちゃんは煙草を吸い終わると再び傍らの缶にその吸い殻を押しつぶした。きちきちとまた何処からともなく虫の声が聞えてきて、はあ、と息を吐く。さらさらと少し手前にある小さな清流の音に耳を済ませれば間遠に日暮が泣いているのが聞えてきて、ああ、まだ蝉いるんだなと心の内でそっと呟いた。

橙色の光にちらほら出てきたばかりの稲穂が照らされて、かすかに青い匂いが鼻孔を掠める。煙草の匂いはあっという間に風に流されて、田舎特有の青臭い、太陽の香りがあたりを掠めた。風向きでは何処からともなく牛くさい匂いもするこの地だが、不思議と今日はその匂いも鳴りを潜めていて、取れたてのお米のようないいにおいと、お線香の匂いがそこらじゅうを満たした。どこもかしこも誰にも言われずに一つ、また一つと軒先の灯篭に灯を灯し始めて、大きな蛍のように思えた。


「田舎だなあ…」
「茨城の方が都会に見える?」
「どっこいどっこいだな。苦手なんだよ、田舎は。」
「……そっか。百ちゃん蛍見たことあんの?」
「ねえ。」


くあっと猫のようなあくびを一つすると百ちゃんは茣蓙の上でごろりと寝そべった。私の片膝に断りもなく頭を預けるとそのまま瞼を閉じた。彼の着ている派手なアロハシャツが橙色にだんだん映えてえ見えて少しおかしかった。百ちゃんの足の上で蜻蛉がすっと止まって、私も彼もそれじっと見つめたまま暫く黙った。風が止んで虫たちの声も聞こえなくなった。

先ほどまで聞こえていた小川の音も間遠になって、まるで世界から百ちゃんと私だけ置いてけぼりにされたような感覚になった。本当にそうなったらどうしようと頭の内でどうでもいい妄想が過ったが、きっとこの男はそんなことになってもいつも通り煙草を蒸かして至極どうでもよさげに前髪を撫でつけるのだろう。鋏をちょきんと動かせば蜻蛉は思いだしたかのようにそのまま百君の足から離れていって、青々とした稲穂の方へ消えていった。


「…高速混むから明日の朝には発つぞ…。」
「…うん。」


ちょきん、と鋏を動かせば謝って花の頭を切ってしまって、思わずあ、と小さく声を漏らした。百ちゃんはそれをじっと見つめたのち、静かに口を開いた。


「…なんもないな。」
「それさっきも聞いた。」


無限ループか、と思わず聞き返そうとしたが、ふと口を紡いだ。全ての菊の花を切り終わるとふうと一息ついて伸びをした。膝の下でくつろぐ百ちゃんを見れば、じっと空を見詰めたまま、いつの間に掴んだのか落ちてしまった菊の花の頭を鼻の方に寄せて香っていた。なんだかその様子が滑稽でふ、と笑えば彼は視線を私に寄越した。お花なんて百ちゃんぜんぜん似合わないね、そう言えば彼は不機嫌そうに眉間に皺を寄せた。


「蛍来ねえな。」
「煙草吸ったからじゃない?」
「蚊取り線香だろ。」
「そうかな。…そろそろ戻る?私お腹空いた。」


そう言ってその辺の後片付けを進めれば、すっと寝そべっていた百ちゃんは起き上った。橙色のそれはずうっと向こう側の海の方に頭を隠し、山側は既に群青色が支配し始めている。灯篭の灯がその明かりを尚一層強くした。夜になれば都会と違って明かりが少ないので、心細くなるくらいこの辺りは真っ暗になるのだが、この時期だけは夜になっても優しい光がそこここに燈るのだ。

彼はこの時期の景色しか知らないだろうから、そんなことは分からないだろうけれど。ぼんやりとそう思って蚊取り線香の灯を消し、菊の花を束ねて籠に入れて入れようとすれば、すっと手を握られて思わず息が漏れた。どうしたの?と聞く間もなく彼の背を見詰めれば、百君は静かにと言わんばかりに私の手を強く握った。


「…いるな。」


何が、と聞こうとした矢先、目の前に静かに光の玉が通過して、思わず息を飲んだ。驚いて目を見開いていれば、こちらに視線を向いて「蚊取り線香だったろ?」にやりと笑う男と目が合った。至極どうでもよかったのだが、「本当に蛍いるんだ…」と感心すれば、視界の端で一つ、また一つと光が生まれて、そして間もなく消えた。

するとせっかく起き上ったというのに目の前の男はくあ、とひとつ欠伸をすると、再び無遠慮に私の膝の上に頭を乗っけて小川の方を向いて暢気に蛍観賞を始めてしまった。私は慌ててスマホを取り出したが、下から小馬鹿にするような笑い声が聞こえて思わず持っていたスマホを下ろした。

「無粋だな、こういうのは写真に撮らずに心にしまっておけよ。」
「…百ちゃんにだけは言われたくなかった」

地味に傷ついてスマホをポケットに戻して私も蛍観賞しようとすれば、突然、ぐいっと腕を引っ張られて「うわ、」と声を上げながら体が下に引っ張られた。瞬く間に視界は地面の青々とした暗がりの緑に移り変わり、訳が分からず一先ず息を整えていれば、後ろからお腹を回されて、ようやく自分は茣蓙の上に寝そべっているのだと理解できた(正確には寝転がされた)。後ろから熱を感じて振り向こうとしたが、それは回された腕によって制された。より一層草のいい香りが鼻孔を掠め、小川の水面が灯篭や蛍の光を反射してゆらゆら揺れている様子がよく見えた。


「もう、いきなり引っ張って…」
「この方が見やすいって教えてんだよ。感謝してほしいくらいなんだがな。」
「………」

悔しいがそれは彼の言う通りであった。座っていた時よりも、此処からだとよく小川の様子が見て取れた。人が分かりやすくそこにいるよりも蛍もその方が良かったのか、一つ、また一つと増えてはまた消えて、そして再びその命の灯を放った。ちきちきと虫の声や川の音がここからだと良く、聞こえた。

めいいっぱい息を吸いこめば青草の香りと一緒に微かに煙草の匂いと嗅ぎなれた男の匂いが肺を満たした。後では男はぼうっと黙ったまま蛍を見ているらしかったが、時折私の体に片足を載せたり、すんすんと私の頭を嗅いだりと忙しそうだった。ちゃんと蛍を見てるんだろうかと少しだけ心配になったが、目の前に現れた無数の蛍に意識を奪われて口にはしなかった。

街のフィラメントとは違う、薄緑色のような黄色のようないくつかの光の玉は、やがて無数の群れを成していった。一見規則性なく無数に飛び交うそれらは流れ星のように飛んで、そして何処へともなく消えていく。まるでこの地上にも天の川ができたみたいだ。私の掌中の拙い言葉では言い表せない程の光景に、ただ何も言えなかった。ただ確かなことは、彼の言う通り、これは写真に収めても無意味だということだけはようく分かった。キャラに似合わずおセンチな気持ちになってお腹に回された腕をぎゅっと掴めば、後ろからふ、という鼻で笑う声が聞えた。

馬鹿にしてるのかと言おうとしたその瞬間、目の前にすっと何かが差し出されて思わずそれに視線を持って行かれた。見慣れた太い手の内の菊の花に一つの光の玉が静かに、呼吸をする様に光を放っていた。男の持つそれに手を伸ばせば、蛍の淡い光に照らされて、男と自分の指に嵌められた銀色が鈍く光った。


「百ちゃん、こういうこと似合わないね」
「驚いたな、お前が言うのか。」
「お互い様だね。…百ちゃん、ありがとう。」
「は」
「…田舎苦手なのに、来てくれて。」
「………」


私がそう言えば暫く百ちゃんは黙って、それから蛍の乗った菊の花を茣蓙の上に載せた。蛍は私たちの気持ちなど知らん顔で光を放つ。私たちもまた蛍の命を焦がすこの行為を知らんとでも言うようにじっと眺めていた。


「腹減った、戻るぞ。」


彼が起き上った刹那、一斉に光の玉が飛んで、それから暫く辺りは静かになった。横たえていた自分の身を起き上がらせれば、夜風が頬や項を撫でたので思わずぶるりと身体が震えた。田舎の朝晩は都会と違って肌寒い。蛍の飛び立った菊の花を手に取ると、少しだけ仄かにあたたかい気がした。小川の方にするりと滑らせるように流せば、静かにそれは流れて何処へともなく消えていった。


「…あと一日くらい、」
「え?」
「あと一日くらい、伸ばしてもいいけどな。」


ばあちゃんに悪いし。百ちゃんはそうぶっきらぼうに一言言うと、じっと煙草に火を点けてずかずかと行ってしまった。一瞬何を言われたか考えてしまったが、理解した瞬間に思わずぷ、と吹いてしまって、慌てて暗闇の中で一つだけ燈る赤い光を追いかけた。


2018.8.19.
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