短編 | ナノ
幼馴染音之進君のひと夏の思い出

橙色と群青色と薄紫色を混ぜた夢の中のような色の空の中を、頭上でくるくると黒い鳥が回っている。それをぼうっと見詰めていれば、少しだけを先を歩いていた彼も歩みを止めて、ちらりと私を見て「鳶だ」と言った。南から吹く湿った潮風が頬を撫で、彼の少し長い前髪を揺らす。私が暫く空を眺めていれば、行こう、と一言言って私の手を引き歩みを再開した。


「相変わらず綺麗だね。音君は見慣れているかもしれないけれど…」
「いつもと変わらん景色だ。」
「そっか。私はもう暫くぶりだから。」
「………。」


そう言えば握られた手に力が微かに加わった気がした。人の多い往来を避けて海の方まで来ると流石に人通りが少なく静かであった。後ろからはお祭り特有の楽しそうなざわめきと、笑い声とお囃子の音が間遠に聞こえる。屋台の近くで感じたソースのいい匂いも、今は潮風の方がやや勝っている。ざわざわした雑踏の音も波の音にかき消されて、途切れ途切れに耳に届いた。着慣れない浴衣と履きなれない下駄に少々気疲れをしていたが、彼は慣れているようでずかずかと前へと進んで行ってしまう。
そのうちに人気のない海辺まで来ると、この辺でいいだろう、という風に辺りを見回して、ようやく足を止めた。其処はこの港町の中でも人通りがほとんどなく、先ほどまでいたお祭り会場の神社の一番賑やかなエリアから結構離れた場所だった。対岸にお祭り会場を確認できて、群青に染まっていく世界であの辺りだけぼんやりと明るかった。錆びれた倉庫を背後に音君は握っていたビニール袋の中からいそいそとそれを取り出すと、段取りよくマッチで火を起こして蝋燭を地面に突き立てた。私も彼の横に膝を曲げて座ると、ぼうっと燈った蝋燭の明かりを見詰めた。


「ん、」
「ありがとう。危ないからちゃんと火、見てね。」
「分かっちょる。子ども扱いすっな。」
「(かわいい)」


たくさんの花火の束をずいっとぶっきらぼうに差し出されたので、適当な一本を手に取ると、蝋燭の火に近づけた。瞬く間に小さな炎は握っていた花火に移って、最初は緑、次は赤、という風に、まるで万華鏡のように色と形を変えて、やがて消えていった。
彼とこうして花火をするのは私がこの地から上京した数年前のことだったと記憶している。あの日も確かこのお祭りの日で、私が音君に「上京する」と初めて伝えた日でもあった。数年も経ったというのにこの港町はほとんど変わらなくて、でも目の前の青年は目を見張るほどの成長を果たしていて、時の流れをしみじみと感じることができた。
ちらりと視線を何となしに彼の方に向ければ、どうやら彼もこちらを見ていたのか急にふい、と視線を自分が持っていた花火に視線を移してしまった。火、ちゃんと見ておけと言ったのに、思わず笑えば彼は少しだけ不機嫌そうに眉を顰めた。


「音君ももう来年は高校卒業かあ。本当に、時間がたつのは早いねえ。」
「…そうだな。」
「彼女はできたの?」
「いねえ」
「勿体ない、音君かっこいいのに(まあ、さっきの対応見てれば何となくわかるけれど)。」
「…そんげなお前は東京に行って男はできたのか。」
「はは、いたら今回の里帰りに連れてきたよ。」
「…そうか。」


それから暫く音君は何も言わずに花火を見詰めた。先ほどここに来る前、神社の境内を歩いていれば、数名の女の子達が歩いていた私たちを見るなり音君に声を掛けていたのをふと思い起こした。皆、音君と同い年位の女の子で、この辺の子らしく肌は小麦色に焼けていて、眩しいくらいに若くてきらきらしてて、可愛い浴衣を身に纏っていた。
あれはきっとあの中の誰かが音君に告白をしようと声を掛けた違いなかった。現に、私を見た瞬間に一人の娘が酷く驚いたように目を見開いて、それから私を見つめながら少しだけ泣きそうな顔をしたのだから。私は幾分かの罪悪感を感じて弁面しようと声を上げれば、それはこの目の前の青年によって阻止された。
あろうことかこの子は幼気な乙女心もつゆ知らず、相変わらずの仏頂面で、「今はこいつと用事がある」とだけ言って、私の手を引いてずかずかその場を後にしてしまったものだ。その行動には随分肝を冷やした。「女の子にそんな態度はだめでしょう」といっても、今更この子は聞かないことくらい、昔から実の弟のように可愛がっていた私は十分理解していたので、溜息を吐くことしかその場ではできなかった。


「ふ、」
「なんだ」
「ううん、何でもない。」


思いだし笑いをして誤魔化すと、音君は少しだけ疑わし気にこちらをのぞき込んできた。話題を変えようと、そう言えばどこの大学に決めたのかを聴こうとした矢先、後ろからドーン、という大きな音がして、二人して思わず背後を向いた。その刹那、既にもう真っ暗になっていた空に大きく大輪の花が咲き始めていて、思わずわあ、と声を上げた。
大きなお祭りほどではないが、そう言えばこのお祭りにも少しだけ打ち上げ花火が上がるのを思いだした。数年前はどういう風に彼とこうして 見ていたんだっけとふと思いだそうとすれば、徐に傍らの音君がもう1本花火を差し出したので、素直にそれを受け取った。線香花火だった。どんどんと絶え間なく空に打ち上げられるそれをぼうっと眺めながら息を吸いこめば、波の香りに交じって少しだけ焦げ臭いような香が鼻孔を掠めた。


「夏の匂いがする」


静かにそう言えば音君は分かっているのか分かっていないのか、いまいちわからないが「そうだな」と一言返事を返した。視界の端に見えた海は真っ暗な中でもしっかりと意思を持った生き物のように寄せては返す波の運動を続けていて、満月の光に反射してきらきら光った。まるで花火のようだと思う。


「来年の春から東京に行くぞ。」
「へえ、大学決まったの。おめでとう。音君頭いいものね。」
「ああ。」
「否定しないところも君っぽいね。あ、そうだ。お祝い何が欲しい?」


後ろで華やかに弾けて散っていく空の花と比べれば随分質素に思えるこの小さな夏の花をじっと見つめる。そうしているうちに、だんだんと花火の大きな音も、すぐそばの波音も間遠に聞こえてきて、ここの空間だけ世界と隔たれた、二人だけの不思議な世界に思えた。
今一度ふと彼を見れば、音君はじっと自分の点けた線香花火を見詰めていた。その横顔は昔見慣れた可愛い幼い陽だまりのようなあどけなさをそこはかとなく感じることができたけれど、私の知らない間に随分変ってしまったように思えた。切り立った厳かな岩山のような、きりりとしたよそよそしさと、うっかり見詰めていれば噛み切られてしまいそうなほど鋭く吸い込まれそうな、少しだけ危ういほどの美しい大人の男の雰囲気を感じることができた。
弟分として彼を幼い頃から慕ってはいたが、まさか一人の男としてドキドキする日が来るとはと思わなかった。とはいえ、「流石にこりゃモテるよなあ、でも男尊女卑っぽい性格直さない限りは、東京に行っても彼女できないかも」、と心のうちで独り言ちて、自分の手元に視線を移せば、その瞬間、ぼとりと音もたてずに小さな光の玉は足もとに落ちてしまった。


「あー、私の普通に落ちちゃった…。あれ、音君の落ちてないじゃん。」


笑ってそう言えば、音君にこりともせずにすっと視線を私の方に向けた。暫くじっと私を見たかと思えば、その瞬間、ぐいっと腕を掴まれた。そのまま体が彼の方に引き寄せられて、バランスを取る暇もなく「あっ」と声を漏らすのもつかの間、視界には見慣れた切れ長の双眼が見えて、直後、唇に熱いくらいの熱を感じて反射的に瞼を閉じた。


「………っ」


どれほど経ったか分からなかった。でも、私たちがこうしている間にも暗闇の中で花火と波の音だけは確かに聞こえてきて、少しだけ不思議な心地がした。ようやっと熱が離れたかと思って視界をゆっくり開けば、目の前には蝋燭の橙色に照らされて浮かび上がる美しい青年が見えた。
私をじっと見たまま微動だにせず、日焼けをしたなだらかな頬と耳を僅かに染めている様子が見てとれた。私もあまりの衝撃にドキドキしているというのに、こうした間にも心の内で、「これはやっぱりモテるよなあ」という余計な感想を抱くくらいにはまだ正気を保っているらしかった。年の功というやつだろうか。
音君は私の腕を握って、かなりの至近距離でじっと見つめたまま、今までの緊張を解くようにゆっくりと息を吐いた。掴まれた手首が酷く熱い。掴んだ手から、彼の鼓動が聞こえてくるようだった。後ろでは最後の大きな花火が打ちあがって、わあっと数多の歓声が湧きおこったのち、静寂があたりを包み込んだ。



「何にもらねえすけ、傍にいろ。」



2018.08.19.
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