短編 | ナノ
ストーカーに追われる尾形にストーキングされる

あの尾形百之助に恋人ができたと聞いたのはあの日から数日後のことだった。ふと、小耳に挟んだという同僚から聴いて、思わず耳を疑った。ええ、と聞き返せば私よりも一個上の(見た目では全然年が上だとは判別つかない)彼女は信じられないよねえ、といった風に肩を竦めて、それから今一度、尾形百之助に彼女ができたらしい、とはっきりとそう言った。私はそれに対して、そうか、ふーんと返して、それからまた何事もなかったかのようにお弁当で買ってきた全粒粉のサンドイッチの咀嚼を開始したことだけは覚えている。同僚やもう一人の後輩女性があっという間にそんな話など忘れてしまったかのように違う話題に話の花を咲かせていた時、私はぼんやりと視線を窓の外に向けて外の景色を横目で見た。初夏の日差しが都会のアスファルトをじりじり照らし、世界が真っ白に染まっていってしまうのではないかと心配してしまうほどの気候。咀嚼したサンドイッチを飲み込んで、午後の紅茶ストレートを飲んで流し込む。“尾形百之助に彼女ができた”が心の内で反芻されて、それから先ほど飲み込んだサンドイッチのように頭の裏に消えていった。

「あ、」
「え、何?」
「ううん、何でもない。」
「…あ、あれかな?尾形さんの彼女って…」

突然声を上げた同僚は、私の視線の先を覗きこむようにむくりと上体を起こし、窓の下に広がる景色を改めた。この階からはぎりぎり誰が誰だか判別がつくくらいの高さである故に、おそらく彼は間違いなく彼なのだろうと分かってしまった。尾形百之助らしき頭を提げた男の傍らには、栗色のふわりとしたウェーブのかかった髪の毛の女性がいて、彼にくっつくようにてくてく歩いていた。この季節にはふさわしい薄黄色のシチリアレモンのような爽やかなシャツに下はストライプの入ったスカートをなびかせてい居る。男は別段手をつなぐでもなんでもなく、無遠慮にずかずかと前に進んでいて、女の方はそれに必死についていくようにつかつかとハイヒールを鳴らしているようだった。ぼんやりそれを眺めていれば、身を乗り出して嬉々として見ていた同僚と後輩がポカンとした表情を提げたまま顔を見合わせていた。ちょっと間抜けな表情で思わずふ、と笑ってしまったが、二人はそんなことなどお構いなしで、顔を見合わせたまま会話をしていた。

「噂って本当だったのね。」
「…ですねえ。」
「分かんないもんだなあ、あの子、ふた月くらい前に中途で入った営業の子ですよね?」
「えっ、あの可愛い子ですよね。もう25過ぎてるって聞きました。」
「ねえ、十分若いよ。なんか、コネ入社らしいけど。」

分かんないもんだなあ、と再びそう言って、それからまた通常の会話に自然と戻っていく二人をしり目に、私はじりじりと照らされた真っ白な世界にずかずか進んで行くその男と、その背を一所懸命に追いかける女の背中を見送った。傍の彼女たちの会話を聞き流しながら、サンドイッチを咀嚼して、数日前のことを頭の隅でぼんやり考えていた。












「……百(ひー)くん?」
「ああ」

インターホンが鳴ったかと思っていそいそとモニターを覗けば見慣れた顔が現れた。言いなれたその名前で呼べば画面の向こうの男は微かに不服そうに眉を顰めたが、別段訂正する気もないのかそのまま流すと開けてくれと言わんばかりにこちらを見るのでとりあえず開けてやればそのままずかずかオートロックを抜けていったらしかった。尾形百之助、基、百くんは私の実家茨城からの自分より二個上の幼馴染であった。話すと長くなるが、小学校、中学校、高校に至るまで一緒で、本当に傍から見れば気持ち悪いくらいにはずっと一緒に過ごしてきた数少ない人間の一人であった。大学は流石に専門分野が違うので一緒ではなく、就職先も一緒ではなかったが、ひとまずひと月に一回くらいは何かしらの連絡が来たり来なかったりしていた。もとより実家も隣同士で母親と彼の育ての親である祖母とは本当に仲が良かった。彼の祖母が亡くなるまで、お互いよくお互いの家庭のことを相談したり助け合っていたと思う。とはいえ、尾形百之助自体とは大学以降はめっきり会うことは無かった。転機が訪れたのは就職して、それから初めての転職、という時だった。新卒で入社した会社に精神的に疲弊していて母に相談していたところ、何処からともなく母から知り合いがいるからと紹介されたのが今の会社だ。上場企業の営業事務が空いていて、若い子を捜しているというので紹介があったのだ。願ってもいないチャンスに飛びついて今に至ったものの、母の言う知り合いがまさかあの「百君」だったということを知るのは、入社してからひと月経った後だった。彼もまたこの会社の営業の一員であり、しかも私の上司にあたるのであった。大きい会社なのでほぼオフィスで会うことは無いがすれ違うこともあれば普通に仕事で会議を共にすることもあった(気まずくて仲良く談笑をしたことは無いが)。

会社でのプライべートな絡みは一切ないといっていいが、母からの噂で(情報源はいつも彼のおばあちゃんだったと思う)、都内の一等地に引っ越したとか、今はかくかくしかじかでこういう仕事でこういうことをしているとか、主任になったとか、逐一彼の状況を知ることはできた。普通にラインとか交換してるから聞けなくもないのだが、転職で彼に色々知らず知らずとは言え随分助けられたことを知っていたのでなんだか気まずかったのだ。なので、最後にきちんと会ってお話をしたのは、去年の彼のおばあちゃんが亡くなる前の最後に一緒に過ごしたお正月と、そして彼のおばあちゃんのお葬式以来であった。彼は昔よりもより一層お洒落になって、随分様変わりしていいた。葬式に参列した地元の人間たちも彼のその姿に大変感心していたものである。おばあちゃんっこだった彼はさぞ悲しかっただろうに、昔からの性分か特に別段傷ついている様子は見せず、ただ、参列者には小さく社交辞令の笑顔を見せては喪主としての仕事をきちんと全うしていた。私も母も彼のお手伝いを少しばかりして、最後に大層な品物と一緒に丁寧に感謝を述べられた記憶がある(あの百くんにしてはとても珍しい)。あの時は確か、葬式が全て終了し東京に戻るとなった時、どうせだからと彼の車で私も一人暮らしのマンションまで送ってもらった気がする。基本寡黙な彼だが、私がぽつぽつ幼いころの記憶を述べれば案外淡々と答えてくれたのを覚えている。あっという間に家路についたころには夜になっていたので、彼を私の家に上がらせて夕飯をふるまったんだっけ、とそこまで思いだして、ああ、だから百君は私の家知っているのかと納得した。

「百くん、久しぶり。」

インターホンが再び鳴って慌ててカーディガンを羽織ると、扉を開けた。そうすれば見たことのある顔が私を見下ろしていて、ずかずかと我が物顔で玄関に入りこんだ。スリッパを用意してやれば彼はん、と返事を返してそのまま無遠慮に家に上がった。手には紙袋が二つ。都内にしては築浅で安く広い1LDKをかなり安く借りている(この部屋の貸主が貸し主業を営んでいるおじだからである)。そんな話を確か彼を始めてあげたときもしたっけと思いだしながらお茶を出そうと冷蔵庫を開ける。

「百くん、十六茶しかないけど?」
「なんでもいい。…吸っていいか?」
「ダメ。換気扇の前かベランダで吸って。」
「…めんどくせえ」

背中を合わせつつもお互い会話が成立している。なんか傍から見れば熟年夫婦のような会話なのかもしれないなと思うと思わず笑えて来る。お茶をグラスに注ぎながらちらと見遣れば、彼はどっかりと我が物顔でソファの真ん中に座り足を組んでいた。勝手に我が家のようにテレビのリモコンを手に取ると、気に入ったチャンネルが見つからないのか何度も何度もチャンネルを回していた。持っていた紙袋はキッチンのカウンターに無造作に置かれていたのでお茶を出してから確認しようとグラスを盆にのせた。テーブルにおいてやれば彼はそれを一口飲んで、それから立ち上がるとキッチンに向かって行った。私はそれを見て慌ててキッチンの換気扇をつけてやり、キッチンの小窓を開けた。

「灰皿、これ。」
「………」

百くんにそう言って小さなガラスの灰皿を置いてやれば彼は少しだけ思案したようにそれをじっと見た後、しばらく煙草の煙をくゆらせてそして口を開いた。

「もうあの男と別れたのか。」
「うん、一月くらいまえかな?」
「ふん」

聴いて来たくせに別段興味なさそうにそう鼻を鳴らして彼はそう言うととんとん、と灰を灰皿に落した。百君が言う「あの男」というのは私が以前付き合っていた彼氏のことである。大学からの知り合いでひょんなことから再開し付き合った。別段そこまで劇的な出会いでもなかったのだがお互い馬が合うし、結婚するならこういうタイプだろうなあとお互い何となくそう思い合っていたと思う。だが、いつしか彼の方から疎遠となり。いつのまにやら自然消滅してしまった。何か私がしてしまったのだろうかと謝りの連絡をしても、着信拒否かブロックか何かできちんと挨拶もできなかった。当時はそれなりにへこんでしまったが、元より疎遠になっていたし、仕事も忙しくなってきた折で、気が付けばいつしか平気になっていた。付き合っていた時はそれなりに彼と私とでお互いの家を行き来したりしていたためか、喫煙者の彼のためにこの灰皿をかったものの、終ったあとは結局この灰皿もしばらく使わずに今の今まで引き出しの中で埃をかぶっていた。百君を家に上げたときはまだ付き合っていたので、家のいたるところに男の形跡があったと思う。そう言えばあの時、彼は玄関に入った瞬間から「…男のにおいがする」、とぼんやりそう言って眉を顰めていたっけ。あの頃の家には元恋人のクロックスや歯磨き、バスタオルなど生活の形跡がまざまざとそこここに置いてあったが、今はすっきり女性の一人暮らしらしく私物しか置かれていない。

「あ、お肉。」

自分のお茶のグラスを片手にカウンターまで行くと、彼が持ってきた紙袋の中を改めながら高そうなお肉にきゃっきゃしていれば、彼は吸い終わったのか煙草の箱とライターをポケットにしまった。そのまままたソファに戻るのかと思いきや彼は前髪を撫でつけながら(これは彼の癖だ)、私に近づいてきた。何?と聞けば彼は私をしばらく至近距離で向かい合うようにじっと見下ろした後、突然私の手首をとって、それからぐいっと抱き寄せると、もう片方の手で顎を掴んで強制的に私の顔を近づけさせた。そして突然、本当に何の脈絡もなく自身の唇を私の唇に無遠慮に押し付け、驚いて開けた口の隙間からぬるりと舌を滑り込ませて口内を侵した。どれ位かはわからないが時間にしてみればそこまで長くはなかったと思う。煙草の香りに口内が痺れて思わず掴まれていない方の手で彼の厚い胸をばしばしと叩けばようやっと彼は開放してくれた。一連の謎の行動に驚いて目を丸くさせて息を整えていれば、彼は「はは、」と昔から変わらぬように小馬鹿にした笑みを提げて、それから口を開いた。

「名前、お前キス下手だな。」


2018.06.03.


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