短編 | ナノ
春眠暁を覚えず

私の知っている彼はいつも瞼を閉じて眠っていた。春の昼下がり、窓いっぱいに差し込む暁の光に照らされて、気持ちよさそうに瞼を閉じて眠る姿はまるで猫のようである。そういえばいつだったか、猫はよく寝るからよく寝る子で「ねこ」なのだとだれかが言っていたのをふと思い出して、少しだけ笑いそうになった。今は一人だし、ひとりでににやにやしていたら周りの人に変な人に思われてしまうのが嫌で、さりげなく口元を巻いていたマフラーで隠した。かさかさした唇にマフラーの繊維が引っかかる。もう一度視線を上げる。電車の車掌さんのアナウンスが響き渡り、扉が一斉に閉まる。その音に少しだけ肩を震わせ、目の前の席に座る彼は「んん」、と唸ったかと思えば瞼を開くことなくまたこっくりこっくりと眠りの世界へと旅立っていった。

「(あ、よだれ)」

口元にだらりと下がった一筋のよだれが、春の陽光にてらされててらてら光るものだから、私はおかしくておかしくて、もう一度口元をマフラーで隠してはくすくす揺れる肩を抑えるのに必死だった。周りを見渡せば朝から眠そうなサラリーマンや席に座れず高いヒールの靴を履いたのを公開しているOLがちらほら見えて殺伐とした雰囲気であるが、彼の周りの空間だけはどこ吹く風である。まるで南の島のようなのんびりとした雰囲気が彼の周りには漂っていた。すうすう眠る彼の眠りを妨げようとか、咎めようという輩はもちろんいない。かといってよだれが出ていますよという優しい人もいない。ただ、よだれが垂れるほど熟睡していることを知っているのはたぶんこの同じ空間で私以外に他にいないだろう。ただ唯一、太陽の光と私だけが彼のこの熟睡っぷりを知っているのだ。春の日差しは確かに抗いがたいほどの睡魔を誘ってくる。現にこの私でさえも瞼が重くて重くて仕方がない。

「(春…なんだっけかな、こういうの、なんていうんだっけ。)」

ぼんやりそう思いながらあくびを一つしておれば、間もなく次の駅のアナウンスが聞こえて立ち上がった。





「(あ、)」

軽快な音とともに扉が閉まり、慌てて空いている席に座る。今日は向かい合った席の左斜めのほうにいる。今日はマフラーをしておらず、だんだんと温かくなってい居ることをまさかいつも眠っている彼を通して改めて実感するとは思わなかった。鞄の中から文庫本を取り出してそれをぼんやり読みながら、時々視線を左斜め先で寝息を立てる彼を見た。眠る彼はいつも一人か、あるいは時折金髪の同い年の男の人か年下っぽい頬に傷のある大きな目の男の子といる。でもだいたい彼は眠っているのだ。今日は一人だが、やはり寝ている。だけど彼の周りは本日はややにぎやかだ。彼の周りに座っているかわいい女子高生グループがひそひそ彼を見ながら話して笑っている。たしかに、かっこいい見てくれの彼がすやすや眠っている姿は傍から見て微笑ましいことだろう(よだれは出ているが)。私とは違う制服を身に着けているので同じ学校ではない女子高生たちだが、私だけでなく彼は他の女性にもよく見られているようだ。

「(………)」

私は電車に乗るときは何時も一人なので、彼女たちのようにわーきゃーはしないが(心の中ではよく笑っているけれど)、ああやってクスクス笑いあえるのはちょっぴりうらやましいものである。そうこうしているうちにあとふた駅ほどで私の目的の駅につくというところで、珍しく彼はゆっくりと瞼を開けてそれから大きく伸びをした。彼の起床に少しだけ周りも静かになった。だが、ようやく起きたかと思えば彼はポケットからスマホを取り出して何をするかと思えば、イヤホンをつけて、またもや眠ってしまったのである。どうやらやはりうるさかったようである。周りにいた女子高生も皆顔を見合わせて少しだけ変な顔をしたかと思えば、またクスクス笑い始めたところで、私は目的の駅についてしまった。その後の展開が少しだけ気になったが、また明日、と彼の寝顔を横目に密かにそう思いながら電車を後にした。橙色の夕日がいつもの駅のホームをめいいっぱい染め上げていて、彼の乗った電車はその夕日を追いかけるようにして発射した。






「すみません、ライン交換してもらえませんか。」

聞き捨てならない言葉に思わず自分のことのようにパッと顔を上げる。どうやら気付いたら眠っていたらしい。それよりも今しがた聞いた言葉は何だったのかと視線を動かせば、声の主は私の左隣の人物の前にすっと立つ女の子であることが判明した。それだけでまず驚いたのであるが、私は隣に座っていた人物を見てさらにギョッとするのであった。

「…ん、俺に言ってんのか。」
「はい。あなたに言っています。」

短いスカートにニューバランスのかわいいピンク色のスニーカーを履いた女の子ははっきりとそういうと、握っていたスマホを差し出した。私はその現場を間近にしながらぽかんと間抜けな顔をして傍観するしかなかった。イヤホンをしていたが、もうずいぶん前に終わっていたのか曲は流れていない。短いスカートから見える太ももの少し日焼けしたところ、髪の毛がさらさらして、今CMで流れている流行りのシャンプーの香りが漂う、そんな青春の権化みたいな子だ。なんだかこちらまでドキドキして思わず傍らの彼を凝視してしまう。勝手にドキドキして掌に汗をかく私をよそに傍らのそばかすは目をこしこしこすってその眠たげな瞼を開けて暫く目の前の女の子を見たかと思えば、ふむ、と息を吐いてから口を開いた。

「俺、ラインやってねえんだけど。」
「あ、じゃあ、ケー番とか、」
「いやあ…遠慮しとくわ。」

ええー、とその場にいてこの状況を目にした者誰もが心の内でそう声を上げたに違いない。

「悪ィな。個人情報にはうるさい性質でね。」
「はあ…。」

無理もあるまい、そんなこと言われたら変な返事しか返せないだろう。哀れな女子高生は変な溜息を二回ほど吐いて、次の駅で降りてしまった。同じく入り口付近にいたもう一人の女の子の肩に手をやって何だか訳が分からぬとでも言いたそうな表情でちらりとこちらを向いたかと思えば扉はしまった。ちらちらと視線を傍らに向ければ相変わらず眠たげに目をこすってふあああ、と欠伸をするそばかすの頬が夕日に照らし出されているのが見えた。

「もったいねえ、もらえばよかったのに。」

私の気持ちを代弁するかのように男の声が車内に響く。金髪の男の子がそばかすにそう言えばそばかすは怪訝な顔ではあ?と声を上げた。

「面倒くさそうな女だったからな。」
「まあ、確かに。でももったいねえよ。かわいかったろう顔。」
「まあなー、じゃあお前にやるよ。」
「え、いらね。」

なんなんだ、この男どもは、贅沢者めと恨めしそうに無意識のうちに彼らを再び口をとがらせて凝視しておれば、ようやく自分の駅に着いたらしく扉があいたと同時に慌てて鞄をもって立ち上がる。勢いで片方のイヤホンが外れて、もうあの女の子のことなど忘れたとでも言わんばかりに彼らの談笑が聞こえてくる。話題は先週ロードショーしたばかりのディズニーの映画の話で、そばかすの男のはその顔に似合わず気になると口にしていたのを、小耳に挟んで扉が閉まった。





今日も今日とて眠い私は何度目かもわからないあくびをしながら目をこすった。今日は週末だから人も少なかろうと高を括っていたが、それもはずれ、空いていたのは優先席だったので何となしに座って電車に揺られていた。春休みに入ったというのに部活やらノリで入ってしまった生徒会やらで何気に私は学校にほぼ毎日通っている。この時期になると制服よりも私服で過ごす学生のほうが多いというのに。ああ、明日は土曜日だし何しようかなあ、ディズニー映画の新作でも見に行こうかと心のうちにふと算段しておればそのうちに目の前に妊婦さんが来たので寝ぼけ眼でどうぞと譲れば妊婦さんは申し訳なさそうに感謝を述べて腰を下ろした。うん、今日もいいことをした。いい金曜日だと思いながら窓の外の景色を見る。夕日がいつもよりピンク色を帯びていて、空はピンク色になっている。まるで今日お昼に食べたグレープフルーツみたいだとぼんやり思う。混んでいるせいか今日はちょこちょこ電車が止まる。そこまでこの車両は混んでいるわけではないが、今日はいつもより人が多い。

「……すみません。」

スマホで明日見に行くディズニー映画の情報と会員限定の半額チケットの購入画面をを見ていれば、電車が揺れたと同時にこつんと肘が隣の人にあたってしまった。小声で謝罪すれば「すみません」と聞いたことのある声で変事が返ってきてえ、あれ、と思って思わず見上げれば、こちらを見るそばかすの双眼と目が合って思わず目をい開いた。微かに、「あ、」という自分の声が聞こえた。なんだか気まずくて、何となく小さく会釈をして視線をスマホに戻す。ちらりと横目で隣を伺えば、彼もまた私の持っているスマホの画面を見ていた。あれ、これおじさんがよくやる新聞紙を読んでいるおじさんの新聞をさらにその隣のおじさんも見てしまうような、あれかな、と何となく居心地の悪いような気がしてどうしようかと迷っておれば、ありがたいことに私の降りる駅へ電車は停車した。

「(よかった、)」

ぞろぞろと降りていく人の波にあわててついていく。そして少し歩いた先にあるホームのベンチの前でいったんイヤホンを取り出そうと鞄を椅子に置いてポケットを漁っていれば、ぽんぽんと肩を叩かれたので、反射的に振り返った。

「なあ、」
「ああ、え?」

思わず振り返った拍子に変な声が出てしまったが無理もない。先ほど電車の中の隣にいたっそばかす男子がなぜか私の背面に立っているではないか。しかも良く見たらいつもの制服ではなく私服である。彼も春休みなのだろう。彼はどうやら私と違って春休みをエンジョイしているらしい。でも今日は一人のようだ。でもいったい何の用だというのだ。なにがなんだかわけがわからず眠気も吹っ飛んだ状態の私に彼は右手を差し出すとそれをわたしに見せた。

「イヤホン、落としてったぞ。」
「あ。……ありがとうございます、わざわざ。」

白いiPhoneのイヤホンを差し出すと彼は「いや、」とにかりと笑ってそれだけ言うともう既に行ってしまった電車の背中を見送りながらおとなしく黄色い線の内側に並んだ。私はポカンとしながらも彼の背中をボンヤリ眺めて、それからイヤホンを耳にかけたまま駅の改札へと急ごうと歩き出した。が、数歩歩いたところで引き返して、彼の背中へと向かって行った。

「あの、」
「ん。」
「映画、のチケット、要りますか?」
「…は?」
「その、お礼に。」
「………。」
「あ、違いますよ?私と一緒に行こうということじゃなくって、あなたに一枚チケット上げますってことです。」

誤解を与えぬように矢継ぎ早にそういったものの、彼は不思議そうに私の顔を見た。なんだか気まずくて、やはりこんなこと言うんじゃなった、早く帰ればよかったのにと思わず後悔の念が私を覆い始めたその時、彼は打って変わって相変わらず眠そうな目をこすってあくびをしたかと思えば口を開いた。

「いや、いい。イヤホン届けた位で悪ィし。」
「でも………」
「………。」
「………。」
「……そうだな、そんなに言うなら、俺の分は俺で払う。で、お前はそれ使ってくれ。明日の15時だよな?」
「え?」
「明日の分買ったんだろ。この駅前のパルコの映画館のやつだよな。」
「、そうです(やっぱのぞき見してたんだなこの人)。」
「俺もそれ見たいと思ってたんだ。明日土曜だからカップルならどうせわりびきになるんだろ?カップルのふりして見に行こうぜ。」

いたずらっぽそうな笑顔を向けて再び笑う彼になんだか拍子抜けしてしまって、思わず脱力してしまった。

「いいんですか、見知らぬ子と一緒に……。」
「見知らぬ訳じゃねえだろ。いっつも電車一緒じゃねえか。」

ああ、ずっと寝ているだけか、下らぬ話に花を咲かせて周りをみていないのだと思ったら、やはり見ていたんだなと思わず頬が熱くなった。

「…個人情報にはうるさい性質ではなかったんですか。」
「なんだ、お前も見てたんじゃねえか。」

あ、墓穴掘った。と思った頃にはもう手遅れで、可笑しそうに笑う彼が白い歯を見せた。

「ケー番だけ教えとくな。090、12…―」
「ああ、ちょっと待った!今打ちます、」

それにしても本当にこの人今時ラインやってないんだなとぼんやり思いながら、もう既に眠気などさっぱり飛んでしまった目で彼を追いながらスマートホンに数字の羅列を打った。エイプリルフールは明日だから、たぶんこの状況は嘘でもなんでもないんだろうなあとぼんやり思いながら、かすかに見える眼下の桜のつぼみにようやく春を覚えた。


2017.04.01.
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