猪鹿蝶

「鯉登さん、だったとは…」
「……ああ。」

ぽろぽろと手からパン屑が落ちていき水面に広がっていく。お互い見たことのある格好でこの昼間の庭を散歩することになろうとは思わなかった。鯉登さんは言葉少なでなかなか目を合わせようとしない。私もさすがにちょっと気まずい。お見合い相手が良く知る人だったとは誰も予想だにしないだろう。でもこれで合流する手間は省けたけど、と頭の裏で冷静に思う自分がいて思わずため息が出そうになる。

「…なんか、すみませんでした。」
「何故謝るんだ、」
「その、皆さんの前で鯉登さんとは知らなかったとはいえ、相手の親御さんまで色々言ってしまって…」
「いや、いいんだ。誰もこのようなことになろうとは、予想だにせんだろう。それより…さくらの母上を驚かせてしまった。すまなかった…」
「気にしないでください、能天気な母です、もう忘れていますよ。」

そう笑えば鯉登さんは漸く目を合わせて苦笑いをした。水面の餌めがけて綺麗な鯉がぱくぱくと口を大きく開けている。綺麗な色だなあとつぶやけば鯉登さんがずいと近付いて同じく水面をのぞき込んだ。

「さて…でもどうしましょうか。なんていえば母は納得するかしら。鯉登さんは何と言いますか?」
「そうだな……前にさくらが言っていた通り、『断る』か?」
「そう…ですね」

お互い水面を見詰めたまま会話を続ける。いつもならば話の通り私は全てを素直に話お断りをしていただろう。だが、今回は相手が鯉登さんならば話は別だ。鯉登家のご子息ほどの見合い相手にお断りを入れたと知れたら、父の立つ瀬はないだろう。母も今まで以上に落胆するはずだ。立ち去り際にとてつもなく喜んでいたので(主に彼のお顔を見てだが)。では、鯉登さんからお断りをするのはどうだろう。理由ならばいくらでもある。すでに気心知れた中で、友人としか思えないと、そういえばいいだろう。父や母には申し訳ないが、鯉登さんからの申し出ならだれもが納得するはずだ。すごく、残念だけれど。

「私が言うのは立場的に難しい話です。身に余ることですから、どうか、鯉登さんから先ほどの女性にお話しお願いできますでしょうか。」
「………」
「そうしたら、何処か美味しいコーヒーでも飲みに行きましょう。さっき、ここに来る前に気になる喫茶店があったんですよ。」

笑ってそう言って傍らを見上げれば、真面目な顔をした彼と目が合った。じっと見つめて、暫く何も言わないので思わず私もすっと口角を戻し鯉から意識を彼へと向ける。

「あの、鯉登さん?」
「できん。」
「はい?」
「すまんが、おいにはできん。」
「…それは、どういう意味ですか?」
「おいから断っことはできん」
「なぜ?」
「断っ理由がなか。おいはさくらが好いちょっで、断っ理由がなかど。」
「す…す!?」

何を言われたのか一瞬訳が分からず、彼を見詰めたまま口をパクパクさせていれば、鯉登さんは頬を赤くさせてつづけた。

「驚かせてすまん。だが、嘘じゃなかだ。好いちょっ。じゃっで、おいからは断らん。」
「鯉登さん…」
「断っか断らんかはわいが決めてくれ。おいは、こん見合いを受けっつもりだ。」

いつものようにバリバリするでもなく、猿叫するでもなく、しっかり私を見据えて鯉登さんはそういうと、緊張が解けた様に私に向かって笑んだ。私は何が起きているかすぐに把握するのが難しく、彼の紡いだ言葉を処理するのに時間がかかっていた。魔法にかかったように時間がゆっくり、本当にゆっくり進んで、湖から飛び立った小鳥の羽ばたきさえもゆっくりに聞こえた。

「私は……」

口の中がすごく乾いて、言葉を吐き出すのがやっとに思えた。目がかすんできて、心臓がばくばく五月蠅い。鯉登さんがすっと握ってきた手の暖かさが私の掌からジンジンと伝わってきて肩にそそぐ春の日差しよりも暖かいくらいだ。鯉登さんが嘘をつくはずがない。どうすればいいかわからない。私はどうしたいんだろう。何だか熱い。暑くて、目の前がぼんやりして陽炎が近づいてくるようだ。視線を上げれば春の日差しが目の前いっぱいに広がって、それから真っ白な世界が私を包み込んだ。身体が急にふわふわして、後ろに落ちていくきがする。ちかちかとする世界で船のように大きく綺麗な飴細工の鯉が私を掬うように背中を支えたのが見えた気がした。







「……あれ、ここ。」
「あれあれ、ようやく気付いたのこの子は?」
「お母様、」

ゆっくり起き上れば額から濡れ手拭いが落ちた。外は先程よりもやや日が傾いていて、橙色の気配がする。見覚えのある庭が見えたので、ここは先ほどの邸の敷地内であることは把握できたが、なぜ自分はここで横たわっていたのか理解できなかった。困惑する私に対し、母は溜息を吐くとお茶を差し出してくれた。

「驚いたわ、急に貧血だなんて。」
「……なるほど。」
「そりゃあ、あんな素敵な青年将校様を相手にしたら誰でも倒れそうにはなるかもしれませんけれど、ご面識があるんでしょう?どうしたの急に。」
「ちょっと、日に当たりすぎたみたいで…鯉登様は?」
「ホテルにお戻りになったわ。気が付いたら遣いを遣わしますから知らせてくれっておっしゃっていたのよ。すごく心配されていて。自分のせいだと嘆いてらっしゃったわ。」
「えっ。それは違うわ。」
「勿論です。もとより貧血を起こしやすいことは私が伝えましたから。とりあえず、今日はもう少し休んで、ホテルに戻りましょう。」
「はい…」

あのタイミングで普通貧血起こすかと自分の顔を殴ってやりたい。恐らく、馬に揺られて体が少し疲れていたし、驚きのあまり気が動転してしまったからだろう。鯉登さんにまた迷惑をかけてしまったと落ち込みつつ帰る支度をしていれば、廊下側、障子の向こう側に人の影が見えたので母が声をかけた。

「失礼します。」

女性の声が聞えて障子が開け放たれる。そこには見知らぬ女性が立っており、私たちを見るなり深々と頭を下げてその場に膝をつけた。母は検討がついたらしくああ、と言うと頭を下げたので私も続けて会釈した。

「鯉登様の、」
「さようでございます。ご容体はいかがでしょうか。」
「お蔭さまで。すみません、ただの貧血でございます。鯉登様が咄嗟に支えて下さったおかげで、この通り、怪我もありません故。愚かな娘がご迷惑をおかけしまして、申し訳ございません。鯉登様には何卒、よろしくお伝えくださいませ。」
「とんでもございません。お怪我もなく、なによりでございます。鯉登様より言伝がございます。」
「何でございましょうか。」
「本日はゆっくりお休みされて、ご体調が回復されましたら昼食を明日ご一緒にいかがでしょうか。」
「何てことでしょう。お気遣い、まことにありがとうございます。私の娘には勿体ないくらいでございます。大事を取って本日お休みしても、明日の昼ならば、いいわよね?」

そう言われて素直に頷けば、お遣いの女性はにこりと笑って頷き返した。

「それでは、明日の昼馬車を遣わせます。本日はどうぞ、ゆっくりお休みなさってください。」

女性はそう言うと最後に頭を下げて障子を閉め、すっと消えてしまった。母は風呂敷に荷物を全て入れ終えると私に外套を着せた。

「鯉登さん、さくらの事を随分気に入っているようじゃない。」
「そうかしら。まあ、彼の部下の兵隊さんたちの介抱等はしますから。それを多少評価はしてくださっているようですけれど。」
「ふーん」
「…何ですか。」
「いいえ。とりあえず行きましょう。」

意味深な目を向けてくる母に思わず口をとがらせる。母は私の手を引くと障子をあけ放つ。外はすっかり橙色が包み込み、ソメイヨシノの黒い幹が橙色に照らされてボンヤリ浮かび上がる姿が幻想的であった。静かに親子で廊下を歩き、出口へと向かう。その最中、前を行く母がそういえば、と言いながら口を開いた。

「今回は、『お断りします』って、言わないのね。」
「……私から言える立場ではないわ。」
「そう。明日鯉登さんにきちんとお詫びしなさいね。」
「はい……」

貧血とはまた別の頭痛が私に襲い掛かるのをじんじん感じたが、鯉登さんの顔が脳裏をかすめた瞬間、少しだけ心臓に火が付いたように跳ねて夕焼けに染まる自分の頬が日の光とは別の熱を帯びていくのが分かった。

「(明日、どんな顔して彼に会えばいいのか、分からない…)」


2018.03.21.

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