青短

「しっかりしなさいね。」
「分かってますって。」

やれやれという風に返事を帰せば問答無用でぎゅうっと帯を締められて思わず変な声が漏れ出た。母親というものは本当に、何時になってもなかなかかなわぬものだなと思ってため息が出た。札幌。初めてこの北海道に来て東京の香りをにわかに思い出すことができた地だ。今でこそこの北の大地の森や山を愛するまでに至ったが、最初の頃が自然に目を向ける余裕などなく、むしろこのような地域の方にぬくもりを感じたものだ。

「あ、お母様。鶴見中尉がよろしく言っていました。あのクッキー美味しかったと仰ってましたよ。」
「鶴見さんには本当にお世話になっていますからねえ。後でこれが終って帰るときにもう一度挨拶に行かなきゃね。」

今度は娘が結婚しますって報告もしなきゃだし、と私よりも意気込んでいる母を見て微妙な顔をする。どうせ今回も破談になってしまうだろうと思って思わず肩をすくめた。

「お父様はなんて言っていました?」
「今回も破談になるだろう、ですって、本当にお父様ったら…」
「(お父様が来てくれればよかったなこりゃ)」

子の心親知らず、だなと思ってお茶を飲む。永い間馬車に揺られて疲れてしまった。久々にお母様の元気な様子を見れたことは大変良いことであったが、女親の性なのか、出会った瞬間にやつれたわねえだとか、もっと普段から綺麗に化粧しなさいだとか言われてすっかりげんなりしてしまった。おまけに仕事があるので永い間の滞在は無理であるので本当に弾丸お見合いだ。休む暇もなくこうして私は先日のお祭りで着た母の着物を着てお見合いに今日挑む。鯉登さんもきっとそのようなスケジュールなのだろう。昨日の朝一足速く出立した時はその姿を見ることはなかった。というよりも、忙しくてお互い会う時間もなかったし、何となくではあるが、今は合わないほうがいいのではないか、という直観が働いた。写真の件から何となくではあるが二人の関係性が微妙に変わり始めている気がする。後で落ち合う予定だが、今になってちゃんと合流できるかどうか少し不安になってきた。

「さあ、準備ができました。」
「そういえば、先様はご了承いただけたの?」
「勿論。すでにご準備は完了されています。女性は準備にかかるでしょうからとお待ちいただいているんです。」
「左様ですか…」
「あ、そういえば、お父様にいただいた棒口紅をつけたらどうかしら?」
「えっ…あれは、特別なときに付けたい物ですし…」
「今日という日以上に特別な日なんてありませんよ。さ、塗って差し上げますから、お貸しなさい。」
「自分で塗れますから。母もご準備なさってください。」
「そう?」

結婚しろとうるさいかと思えば、子ども扱いしたり本当に母は忙しいなあと呆れつつも鏡に視線を移す。つい先日お祭りのときにつけたあの薄暗がりの中の鏡の中の自分が重なって思わず吐息を漏らした。あのお祭りは私にとって特別だったのかと自分の紡いだ言葉に思わず驚いて、それから視線を下に落とす。手元の棒口紅のさやをとり紅の部分を唇に押し当てる。鏡の中の自分の唇が赤色に染まり、熱を帯びたようだ。

「あら、いいじゃない。」
「…そう。」
「粗相のないようにね。黙っていればあなたは本当に器量よしなんですから。」
「何と言っても、『浅草小町』の娘ですからね。」
「まあ、褒めているんだか、馬鹿にしているのか。とにかく、暫くはおとなしくしてなさいね。」
「はあい。」
「さあ、行きましょう。」

そう言って母が差し出した手に自分の手を重ねた。刹那、不思議とあのお祭りの夜に手を引いてくれた鯉登さんを思い出して少しだけ心の臓が跳ねた気がした。






丸石を敷き詰められた中庭には大きな立派なソメイヨシノが中央に植えられていて、かすかにふっくら蕾が膨らんでいる。あと数日もすれば咲くのだろう。願わくば咲いているときにここに訪れたかったものだ。鯉登さんや鶴見さんたちが見たらさぞ喜んだだろうに。ここで皆でまたお花見したいなあ。いそいそと親子二人で廊下を進む。敷地は広いのだが然程邸自体は広くはないが、いくつかの座敷があるらしく障子はぴしゃりと仕切られている。庭はまさに駒込の六義園を思い起こすようだった。先様方はすでに一番奥の一番広い座敷にいらっしゃるらしい。ずいぶん待たせてしまったと母が着物を静かに翻す。そしてようやく目的地に着くと再度母は私の着物を正して一息ついた。

「失礼いたします…」

母が声をかければかすかにどうぞ、と室内から女性の声がした。それを合図に母は薄い障子を恭しく開ける。母が先におはいりなさいと目で指示してきたのでいそいそと先に進む。

「…お待たせして申し訳ございません。」
「…な、」

男性の息をのむ音が聞こえて思わず視線を上げた瞬間、私も目を大きくして息を飲んだ。

「…こ、鯉登さん?」
「さくら!?」

視線の先には見覚えのある着物に身を包んだ見覚えのあるお顔だった。心底驚いた様子でバッと座していた体を起こして、立ち上がって私と母を見る。母も何事かと彼を見てそしてそのあとに私を見た。鯉登さんのお隣にいるのは随分お年を召されたご婦人で、お母様ではなさそうだったが彼女もむくりとこちらを一瞥すると彼の驚き様にやや驚いたように視線を上げた。

「お知り合い、かしら?」
「…ああ。」

ご婦人の言葉にすこし落ち着きを取り戻したように見開いた眼を一度閉じてそして息を吐くと鯉登さんは彼女にそう言った。

「まあ、兎に角立ったままではお話もできますまい、お座りになってください。」

ご婦人の一言で私と母はこくんとうなずくと向かい合うように用意された座布団の方に腰を下ろした。お互い視線を泳がせて定まらない。母はすこし気圧されて何も言えなかったが、はっとして口を開き始めた。

「鯉登様は、愚娘を存じてらっしゃったのですね。」
「はい。鶴見中尉の御命で私がお供をすることになってからというもの、大変お世話になっています。」
「なるほど…、鶴見様の下で…なるほど。」

納得するようにつぶやいて母はそうかそうかと胸をなでおろしたらしかった。後から母に耳打ちをされて知ったが、鯉登さんのお隣に腰を下ろされているご婦人は鯉登家にお遣いされている方で、彼のことを幼少の頃から知る乳母のような方だそうだ。確かに、お母上は九州にいらっしゃり、御父上もお忙しい御身である鯉登家のご両親わざわざ北の大地まで足をお運びになるのはあまりにも難しいお話だ。とはいえ、次に家を継ぎ、かつ士官の将来を約束された息子の見合いである、かばかりであるが一番信頼できる人を遣わしたのだろう。母と主にやり取りをし、この見合いの段取りを代理で進めていたのもこのご婦人だというから、よほど、鯉登家にとって信頼の厚い人物なのだろう(聴けば、ご婦人は私と同じ年くらいの頃から彼の家で仕えているから驚きである)。母は納得した様子であるが私たちの反応を見てやや不信を抱いているようで始終微妙な空気が流れていた。確かに、顔を見合わせて第一声が私の名前であれば、あの能天気な母でも私と鯉登さんの関係を不信がるだろう。だが、勿論、いかがわしい関係でもないのでどう言い訳をしようかと思案していれば(鯉登さんもそのようにお考えになっているように見えた)、見かねたご婦人が一声かけた。

「お互いに面識が御有りなのであれば、むしろ都合がよかったではありませんか。音之信様、今日はいい日よりですから、八重野様のお嬢様と庭を散歩されてはどうです。店の者に頼んで鯉の餌を持ってまいりましょう。どうですか?八重野様」
「ええ…そうですね。」

母はご婦人の言葉に間をおいたが返事を返すと二人に見えないように目配せをした。先ほどは訳が分からないとでも言いたそうな顔をしていたのに今度はちょっと嬉しそうで思わず吹き出しそうになったが、とりあえずこの場を離れたかったし、彼と諸々話すべきだと思っていたし、好都合だ。

「履物をご用意しますから、お二人はお待ちになってください。八重野様、行きましょう。」
「はい。」

そう言ってあれよあれよという間にご婦人と母が立ち上がり、そして静かに出口へと向かう。私たちは黙ったまま、その二人の背中を追い、障子が静かに閉まるまで呆けたように二人を目で追っていた。いやに自分の呼吸がおおきく聞こえて、二人きりになった瞬間、忘れていたように心臓がばくばく言い出した。視線をゆっくり前に向ければ、間違いなく、見覚えのある浅黒い肌の貴公子が目の前で口をキュッと結んだまま、私をじっと凝視していた。


2018.03.20.

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