タネ

「(あ。鯉登少尉。)」

濃霧の今朝。時刻にしてまだ午前5時にも満たない。早朝の水くみに行こうと今日はまだ制服を着ず軽装で桶をもって裏の戸口を開けて外に出れば、北海道特有のつんと冷たい朝の空気が鼻孔を掠めそして肺に満ちていく。北の朝は日が昇るのが遅いのだが寒さのせいか目覚めるのは早い。東京にいたころは平気で7時に起きていたのだが、石油のストーブを焚いても結局この時間に目覚めてしまう。おかげで早起きをするのが日課になってしまった。朝の訓練もまだ7から8時ごろに開始するので、この時間帯には人とすれ違うことはもちろん人の気配もない。一応ここでは看護婦の中でも下っ端なので、こういった雑務も私の立派な務めである。東京も外国程水道が普及しているわけではないが、ここ北海道ではもちろん水道などなく井戸水が一般である。

「(えらいなあ、鯉登さん。)」

兵舎の脇、厩や井戸のある傍の庭の空間で何やらふんふんと鼻息を鳴らす音が聞こえたものなので驚いて濃霧の中目を凝らすと、それは浅黒いシルエットになり、ぼんやりとしていたシルエットはやがて見覚えのある線へとはっきりと変わっていった。浅黒い肌の男が朝の鍛錬の一種か、竹刀で素振りをしている。一定のリズムを崩さず、そして呼吸を乱すことなく、シュッシュッと空気を刻んでいく。濃霧がそこだけどんどん薄くなっていっているような気さえする。さすが、将校ともなると若いとはいえ気迫が違うのだなと感心しつつ、井戸のある場所へと足を運ぶ。そういえば日ごろから彼は若いが故にまだまだ鶴見中尉のお役に立ちたいと言っているし、きっと毎日こうした努力を影ながら行っているのだろう。ここから鯉登さんは見えるが、鯉登さんの方からは私はちょうど死角で見えないと見えて、彼はこちらに見向きもせず淡々延々と素振りを繰りかえす。邪魔をしても申し訳ないしと敢えて声はかけていない。何だか声をかけがたい雰囲気でもある。こういった集中をしているときは何よりも邪魔をしないほうがいいに決まっているのだ。

「(おっと、おも。)」

ぎこぎことぎこちなく縄を引っ張って何とか水を汲んでいく。ここにいる兵士たちとは違って日ごろから全く運動をしない私では流石にしんどい。先程の鯉登さんとは真逆の私の貧弱さに辟易としつつもよいしょよいしょと健気にひっぱり続ける。ところが、少し疲れて手を緩めてしまったからか、ずるりと縄が手から滑り落ちてせっかく随分上まで上がってきた井戸の桶が下に落ちそうになった刹那、急にぐっと強い力で引っ張られたかと思えば、桶がぐいぐいと近づいてきて、縄もずんずんと上がり始めた。突然背にひと肌を感じてバッと後ろを振り向けば、はあはあと息を荒くしながらも私の持っている縄を一緒になって引っ張っている鯉登少尉殿の姿が視界いっぱいに広がった。

「鯉登、少尉」
「重かっただろう。一声かけてもらえればいいものを。」
「…いいえ、お邪魔しては悪いかと思って、」
「いや、気にならん。それより、これは女の細腕ではあまりにも激務ではないか。いつもこれを?」
「ええ。鯉登さんもですか?」
「ああ。今日はあいにくの濃霧だから偶々あの庭でしていたんだが、いつもは別の場所でしている。」

そうこう言っているうちにあっという間に鯉登さんの力で桶は水でいっぱいになった。鯉登さんは未だに上半身裸でずっと背中合わせに彼の熱いほどの体温が伝わってきた。彼は桶も医務室までもっていくと聞かないので、一個ずつ持っていきましょうと提案したら渋々うなずいた。上着を着なおし、桶を持つ姿はどこか滑稽である。名家のお坊ちゃまだから、きっとこういう雑務など手慣れていないだろうに。

「本当にありがとうございます。」
「これくらい構わん。それに、女一人にやらせるのは心苦しいからな。明日からはおいに一声かけてくれないか。」
「できませんよ、他の人に怒られてしまいます。」
「そういうやつにはおいから言っておこう。」
「すみません…(鯉登さん、鶴見さんの前では私だけど、他の人の前では自分のことおいっていうのちょっと可愛いかも)」

まだ兵士たちの起きない静かな廊下を二人の男女の会話が響く。とても不思議な心地だ。近頃は鯉登さんの様子もおかしかったので、このように他愛もない話をするのは結構久しぶりなのではないかとも思った。

「そういえば、鯉登さんもお見合い話来てたんですね。」
「、ああ。」
「私なんかとは比べ物にならないくらい大変そう。鯉登さんのような家柄のある方のお見合いですから、それはそれは素敵なご令嬢方が選ばれるんでしょうね。」
「よくわからん…相手も見ずに断るからな。」
「なるほど。」
「さくらは、一応相手と会うんだな……」
「形式的に、ですね。母の顔も立たせなきゃダメかなって。でも結局父がダメにすることはわかってますから。だから私、見合いの席で相手の方と二人きりになった時に実は告げて謝罪するんです。貴重な時間を奪ってしまって、申し訳ございませんって。」
「…………そうか。」

あっという間に医務室へと新鮮な井戸水を運び終えると、清潔な水亀に移す。鯉登さんに再度感謝を述べると鯉登さんは医務室の椅子に腰を掛けて一休憩でもするのか、火鉢に火をくべて火を起こした。

「茶を、頼んでもいいか。」
「分かりました。ちょっと待ってください。」

新鮮なお水も手に入ったことだし、鯉登さんも朝の鍛錬でお疲れだろう。彼はこれから午前の訓練だってあるだろうし一息ついた方がいい。

「どうぞ。熱いのでお気をつけて。」
「うむ。」

ふうふうと湯のみの湯気を吹いて一口口に付ける。香ばしい青い香りが鼻をすり抜ける。鯉登さんは姿勢をしゃんと崩さず正して湯飲みを口に付ける。視線はやや下を向いていて黙ったままだ。私はその隣にちょこんと座って、同じくお茶を静かに飲んでいた。じりじりと火鉢が目のまえで燃えて、ほんのりだんだんとあたたかくなっていく。窓の外ではようやく明かりが強くなってきて、霧も緩やかに薄くなっていくようであった。そろそろ皆が起きだす頃合いだろう。遠くの方で鶏の声が聞こえてくる。何も話さず、何も聞かず。男女二人がひたすら茶をすする、不思議な時間である。ちらりと鯉登さんを見れば、鯉登さんと目が合って互いにそらす。なんだ、この感じ、不思議だ、不思議すぎると思わず額に汗が噴き出そうだ。だがそんな気持ちなのは私だけではないようで、鯉登さんも視線をそらした後、居た堪れなさそうに視線を泳がすのであった。何か話題でもあった方がいいだろうかと考えあぐね居ていれば、突然横で鯉登さんがさくらと名を呼んだので反射的に返事を返せばちょっと変な声が出た。

「また、こけ来てんよかか。」
「えっ、ええ。」
「そうか。」

突然彼の出身地の方言が飛び出したかと思えばほぼ言葉の内容を理解しないうちに返事を返してしまった。とりあえず、またここに茶を飲んでもいいか、というような内容なのだろうと検討をつけて頷けば、彼は思いのほかとても嬉しそうに瞳を輝かせて私を見て頷いた。



2018.02.25.

×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -