梅に鶯

「………、」

患者の寝間着やシーツの洗濯を終えて、一息つく。今日は久々の快晴で溜まった洗濯物を干すことに若手の看護婦たちは駆り出されていた。物干し竿にそよそよと洗濯物たちが静かにそよぐのを見ると達成感を感じて額の汗を拭い、ふと、視線を宿舎の方に向ければ、ちょうど渡り廊下を歩いていた鯉登少尉を偶然にも発見した。隣には月島軍曹、そしてその前には鶴見中尉殿が歩いており、きっとこれからお話でもされるのだろうという雰囲気であった。最初は気が付いておらず真っすぐ目の前を見ておられたが、私の視線に気が付いたのか、横目を向いて、それからはっと顔をこちらに向けたが、あまり不自然だと噂になってしまうので口角を僅かに上げてくれた。そう言えば彼は今朝戻られたばかりだ。その時もちょうど私は彼とすれ違っていた。古参の看護婦の言いつけで注射器等の器具の消毒作業を朝一番に任命されてばたばたしていた折だった。「お帰りなさいませ」と言えば「只今戻った」の一言だけの挨拶だった。他の看護婦たちからすれば普通の光景だったであろうが、私たちからすれば数週間ぶりの再会で、本当は「無事で何よりです」とか、「お怪我はありませんでしたか」「お変わりありませんか」とか言いたいこともいっぱいあったし、抱擁の一つや二つしたいものだが、それもここでは我慢だ。

「(後でお話が出来る時間があるといいな…)」

そうぼんやり思いつつも、お互い仕事をきちんとこなさねばなるまいと自分を奮い立たせる。私が忙しいとき、きっと彼はもっと忙しいだろうから。

「ねえねえ!鯉登少尉が今私を見て微笑まれたわ!!」
「そ、それはよかったですね…。」

ぼんやりと彼の背を見つめていれば、横から一個上の看護婦が嬉々として声を上げたので思わずギョッとしたが、別段何かを悟られたわけではないと分かると人知れず胸を撫で下ろした。この先輩看護師は溌溂とした方で、丸顔でぽっちゃりしているが、おおらかで私の好きな看護婦の一人であった。面白い性格の持ち主で、この師団の中で頼んでもいないのに美男子番付なるものを勝手に催して逐一私や他の看護婦に伝えることを得意とした。新しく入ってきた新兵の確認も余念がない自他ともに認める面食いであったが、今まで一度として男性とお付き合いはしたことがないという乙女である。彼女からは幾度となく鯉登少尉の話を聴かされたり(「薩摩の貴公子」というあだ名をつけたりしてよく話題に上らせていた)、私の立場上彼らと絡むことが多いので、何か話のネタは無いかと催促されることもあった。そんな面食い先輩(心の中で呼ばせてもらっているあだ名)彼女に向かってはは、と乾いた笑いを浮かべれば、今度は反対側で籠をもって戻ろうとしていた別の先輩看護婦が声をかけた。いつぞやの春祭りの時に、着物を着せてくれた看護婦だ。

「アンタに微笑むわけないでしょ!…それか、よっぽど面白い顔でもしてたんじゃないかい?」

そう言って彼女は笑うと、密かに私に向かってにこりと笑いかけた。彼女にはもちろん、私と音之進さんのことはお伝えしていない(中尉との約束で言いたくても言えないので申し訳なくは思っている)。だが、女の勘というか、歳の功というか、それとなく私と音之進さんとの関係を察している様子であった。とはいえ、もとよりあのお祭りの頃から私と彼のことを少なくとも察しているのだから、きっと彼女にはおおよそばれているのだろう。彼女のことだから、きっと言いふらすことは無いのだろうが。

「ちょ、それどういう意味ですかあ?…でも、本当なのか知らねえ、少尉殿のあの話……。」
「あの話?」

面食い先輩の話に私が思わず聞き返せば、面食い先輩はうん、と頷いて見せた。その姿に思わず古参の看護婦と目を見合わせる。

「数日後の社交会が新築の洋館で開かれるんでそれに彼が行かれるらしいんだけど……そこで結婚相手を探すとか何とか…」
「そ、そうなんですか。」
「うん。社交会はうってつけの機会だもの。外国じゃあ、社交会で出会って、結婚することは珍しくないらしいわ。もうお見合いなんて古臭いことはせず、自分で赴いてお話されて、気に入った娘と結婚するとか何とか…」
「その話、誰から聴いたの?」
「昨夜門番をしてた兵士達が話しているのを盗み聞きしたのよ!」
「そっか…」
「あーあー、私も忍び入ろうかしらん…」

ああ、と遠い目をしている面食い先輩にふははは、と豪快に古参の看護婦が笑ってばしばしと背中を叩き始めたので、思わずはっと面食い先輩と共に目を丸くした。そんな私たちをしり目に古参の看護婦はひいひい言いながら息を吸うと再び口を開いた。

「なにを言ってるの、少尉殿はそんな軟派な方ではありませんよ。昔から薩摩の男はそれこそ、幼少の頃より家の女意外とは口さえ利かぬように躾けられると言われるくらいなんですからねえ。」
「…確かに、」
「当たり前だよ。それに、その社交会は軍部の人脈を広げるためのものなんじゃないのかい?嫁探しなんて、そんな暇なんかありませんよ、きっと。」
「そうよ、そうですよね!あーよかった!安心したわ!」

ほっと胸を撫で下ろす面食い先輩をしり目に古参の看護婦は私と再び視線を合わせると再び口角を上げた。

「まあ、私たちにはどっちにしろ関係ない話よ、さ、戻った戻った。」
「「はーい。」」

去り際に僅かに会釈をすれば、古参の看護婦は手をひらひらさせた。彼女にはいつも助けられてばかりだなあ、と思いつつちょっとふわふわした足どりで病棟に戻った。










「失礼いたします。」
「ああ、入ってくれ。」

静かに低い声が聞えて、それからゆっくりと扉を開く。執務室の中には相変わらず背筋をピンと伸ばした彼の姿が見えて、息を飲む。いつも以上に顔をこわばらせて淡々と部屋に入っていく。小脇に抱えた封筒と、両の手で持っていた盆を落とさぬように慎重にテーブルに置けば、すっと腰を上げた彼がずかずかと歩いてきて私を通り過ぎ、そして静かにドアのカギをかけて静かに長椅子のある方に向かってきた。その顔は至って真面目で、私も静かに急須の中のお茶を湯飲みに注ぎ入れて静かに彼が腰かけるのを確認すると急須を盆の上に戻した。そして彼の目の前に差し出して、ようやく視線を合わせれば、いつのまにやら私のすぐ隣に腰を掛けていた彼とバチリと視線が交わった。この空気にもう耐えられなくて、思わずふっと笑ってしまえば、彼もそれを合図と言わんばかりにすっと両の腕を伸ばすとぎゅうっと抱き寄せた。久々の感覚と距離感と熱に思わずわっと小さく声を上げてしまったが、私も腕を伸ばせば彼は嬉しそうにすんすんと鼻を私の首筋に撫でつけた。

「お帰りなさい、音之進さん。」
「ただいま。」

彼の香りが鼻孔に入りこんで、そして肺を満たしていく。久々で全身の脈がどくどくと波打っているが、それもお構いなしに彼は抱き寄せてくるのでもう気にしない。時間はもう夜の零時を回っていて、門番や当直の兵士以外は既に寝静まっている。

「よかった、少しでもお会いできて。」
「ああ、遅うなって悪かったな」
「いいえ。私が勝手に来ただけですから。」
「いや、おいがこげん時間まで付き合わせてしもた…」
「一目でもいいから、一瞬でもいいから、会いたくて…」

そう言って眼を合わせれば彼はしばしぱしり、と固まったのち、今度は耳まで真っ赤にして唸り始めた。

「やっせん…むぜ…」
「や?」
「いや、何でもない…」

そう言って彼はこほんと咳ばらいをするとするりと体を離し、そして私を横に座らせた。そして何か思いだしたかのようにあっと声を上げ、今度はもぞもぞと懐に手を突っ込んで何かを探す様子を見せた。やはてようやく見つけたのか何かをつかむと、私の目の前に差し出した。反射的に掌を差し出せば彼はそれをそっと私の手に載せた。

「扇子…?」
「うむ、社交会に出っ時に使うてくれ。」
「わあ、ありがとうございます…!」

思わず手に取ってはらりと広げてみれば、そこには美しい品のある雲母の散らされた白地に、桃色や桜色、藤色の色とりどりの花が描かれていた。端の部分に西洋のドレスのような刺繍が施されていて、まさに社交界に相応しい品と華やかさのある扇子であった。一目でどれほどいい品かが分かって、思わず目を丸くさせたまま開いた口がふさがらなかったが、お茶を啜って一息ついた音之進さんがふっと笑って口を開いた。

「気に入ったか?」
「はい…私には勿体ないくらい…。いいんですか?」
「当然だ。社交会には必要だろう。帰路の途中、たまたま外国の小物商人から声をかけられてな…。」
「買わされちゃったの…?」
「いや、自分で選んで買うたんじゃ。さくらにちょうどよかて思うてな。」

彼は嬉しそう口角を上げて湯飲みを手に取ると、ゆっくりお茶を飲み込んで、うまい、と静かに一言宣った。

「その件で鶴見中尉どんにさくらを推薦したのはおいだ。」
「えっ、そうなんですか!?」
「ああ。中尉殿はきっと気を遣って言わなかったかもしれんが…。」
「そうだったんですか…」

そう言ってぼんやりとまた扇子に視線を落とす。扇子からは異国の香のような匂いがして、不思議な心地がした。流石というべきか、彼の感性の良さには感嘆するばかりである。きっとこの分なら彼は予想通り毅然として社交の場に立っても恥ずかしいどころか、むしろ華やかさをより一層引き立たせるのであろう。だからこそ、私は横に居てもいいのか、足を引っ張りはしないか、余計に心配になった。急に胃が痛くなって思わずうう、と唸れば少し驚いたようにこちらを伺う音之進さんと眼があった。

「どうかしたのか?」
「い、いいえ…色々考えたら、だんだん胃が痛くなってきて…私、きちんと勤め上げられるかどうか…」
「心配いらん。おいだって緊張しちょっが、さくらがおっでむしろ安心なんじゃ。」
「音之進さん…優しい。」
「誰にでも優しかわけじゃなかがな。」

そう言って彼は耳を赤くさせると、膝の上にあった私の片方の手をするりと手に取ってぎゅう、と握って見せた。私もそれにこたえてぎゅうと手を握りかえす。私もきっと同じくらいには頬や耳が赤くなっているのだろう。じんわり熱く火照った感覚がする。そして、どちらともなく眼を合わせていれば、だんだんと彼の綺麗なお顔の距離がじりじりと近づいてきた。吐く息さえ聞こえてくるような距離まできて、でももちろん動くことも動こうとも思わなくて、いよいよ鼻先が当たるといったところで、執務室の壁掛けの時計が盛大に深夜の1時を知らせた音に、時計の音に負けぬくらいお互いの肩を盛大に震わせた後、バッとお互い顔を離してしまった。

「そ…そろそろお暇します。音之進さんも、体に障りますから、もう休まれてくださいね。」
「あ、ああ。わかった。」

ばくばく言う心臓を何とかいさめようとして心臓辺りを抑えてふと彼を見たが、予想以上に彼の方が顔を真っ赤にしてぜえぜえ言っていたので思わず笑ってしまった。本当にこの貴公子はどこまで私の心をつかむのかと笑ってしまって申し訳なく思ったが、それと同時にまたいつぞやのように悪戯心が湧いてしまって、握られたままの手を今一度ぎゅっと握ると、今度は私の方から体を乗り出した。そして勢いもそのままに無防備な彼の頬に唇をくっつけてみた。ちゅ、という軽い音を立てて、それから直ぐに唇を離し、そして乗り出した身を戻した。

「なっ……、」

何が起きたかわからず目を見開き私をじっと見つめる貴公子と眼があった。なんだか恥ずかしくて何も言わずにこほん、と咳ばらいを一つすると、何事もなかったかのようにそのまま立ち上がって帰ろうと扉を目指した。暫く呆けていた彼もそれを見るとはたと意識を取り戻し、見送ってくれるのか私の後に続いた。正直自分からした行動であったが、だんだんと恥ずかしくなってきて、湯飲みや盆を置いたまま早々に立ち去りたかった。扉の前まで来ると鍵を解除してドアノブを回そうと手を伸ばそうとした刹那、その手をわたしの背後に立っているであろう音之進さんに掴まれて、驚き反射的に振り返った。

「さくら、」
「は……んっ」

はい、と声を上げる前に振り返った刹那、掴まれた腕をグイッと引っ張られて自然と彼の方に重心が移動したかと思えば、唇にむちゅ、と温かい感触がして思わず目を見開いた。目のまえには嗅ぎなれたいい香りがめいいっぱい広がって、一瞬何が起こったのか考えるのもやっとだった。だが、すぐに背中に回された腕の暖かさや、彼のばくばく五月蠅い心音をじっくり感じるくらいには意識に余裕ができると、そのまま私も自分の腕を彼の首に回して、拙くも背伸びをしてみた。そうすれば、ふ、と彼がかすかに笑った気がした。とても上手とはとても言えないのかもしれないが、私の唇を求めて何度も角度を変えて優しく啄む彼の唇に私も一生懸命に応えれば、なお一層私の背中に回る腕の強さが増した。一体どれくらい経ったかわからないくらいの時間をこうしてお互いくっついていたが、息がだんだんつらくなってきてふ、と私が息を漏らした刹那、慌てて音之進さんが退いてくれた。

「…すまん、苦しかったか?」
「いいえ、全然、」

名残惜しそうに顔を離して、それから息を吐く。久々の大量の酸素に肺が喜んで膨らんで、そして息を吐く。彼の熱を帯びた眼がランプの光に照らされて思わずどきりと再び心臓が高鳴った気がした。彼もふう、と息を整えると、口角を上げて再び私をみた。それから私の肩に手を置いて額に口づけると、肩越しに腕を伸ばして鍵を静かに解除した。

「おやすみ。」
「おやすみなさい…」

ぱたんと扉がしまると、再び心臓がばくばくと音を挙げたので、自分の左胸を抑えながら、もう片方の手で未だ熱を帯びる唇を指の腹で撫でた。彼も同じような心境なのだろうかと、一人ぼんやり思いながら、少しだけ寂しいような切ないような、幸せな気持ちで廊下をとぼとぼ歩いた。いつも可愛い可愛いと思っていたが、いざという時に突然男らしいことをしてくる彼に、今後も私は振り回されるのだろうと思うと、嬉しいけれど、この心臓が持ってくれるのだろうかと、馬鹿馬鹿しい話だが本気で心配になった。



2018.05.27.

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