松に鶴

「社交場、ですか?」
「ああ。行ったことはあるかな?」
「ええ…一度だけ、なら…。」

私がそう言えば中尉はにっこりとほほ笑まれてうんうんとうなずいた。この北の大地に遅い春が訪れ、そして息をつく間もなく桜が散り始めたこの頃。恙なく仕事をこなす毎日にまた、突然水面に波紋が広がるように何かがまた始まった気がした。いつものように中尉の額宛ての処理を施し、飲み薬を飲むように勧めてお茶を運んでやった直後、話があると言われて今に至る。話を聴けば、今度街にできる社交の場を主に目的として造られた洋館の開館式典を行うらしい。その館は欧米の有名なデザイナーがデザインを起こし、日本で初めて実際に建築されたものだそうで、この北の大地では初めて建立された本格的な社交場とのことだ。避暑や長期休暇を利用してこの地に訪れた華族や財界人、はたまた外国人を招待し交流を深めることを目的として造られたそうだ。この地には確かにそれほど大規模で荘厳な社交場はそれまで聞いたことが無かったが、これより先の時代には色々必要になってくるのだろう。この資源の多く自然豊かなこの地はいずれきっとこの国にとってとても重要な要の土地となるだろうし、今以上に活発に貿易等を行うのだろうから、国賓を迎えるに恥ずかしくないほどの場所は必要だったのだろう。ましてやこの地は樺太、ロシア、中国にほど近い場所柄、これから色々物入りとなるはずだから。

「建立の式典―がてら軍部よりふさわしい人物を立てて挨拶をする様に通達があってね。式典には投資家や有名な財界人、財閥関係者も訪れる。」
「随分豪勢なんですね。」
「うん。何しろ道内初の大規模な社交場だからね。軍部的にはこれを機にこの地でも太いパイプを作っておきたいのだろう。社交場で一目置かれることは即ち、この先の政界や財界に少なからず影響を与えていけることになるからね。」

人差し指と親指でするりと自身の髭を撫ぜると、鶴見中尉は目を細めた。

「とはいえ、私はあまりあの場の雰囲気が苦手でね…第一、今の時期私がここを離れるわけにはいかんのだよ。とはいえ、本部からの通達だ。無下にもできんし、私もできれば資金調達のいい機会にしたいと思っている…。」
「はあ、」
「見栄っ張りな投資家がこぞってこの地での初めての社交界にと顔をそろえることは既に東京にいる部下より確かな情報として受けているんだ。…そこでだ。私の代わりに、鯉登少尉に行ってもらおうと思っているんだよ。」
「なるほど。彼ならきっと恥ずかしくないはずです。」
「見た目も貴公子で凛とした彼の事だ。きっとうまくやってくれるだろうと思ってね。ただ……、社交場には連れ添いの女性が一人いないと見てくれが良くない。軍隊であるがゆえに、男なら腐るほどいるが、逆に婦女子となると途端にだれが適役か考えるのが面倒でねえ…」
「つまり…、」
「ご察しの通り、ぜひともさくらにと思ってね。」

ズビシィ!と人差し指を私に指して鶴見中尉はそう宣うと片方の目を瞬いた。西洋で言う処のウィンクというヤツだろう。きっといつぞやの花見の時も鯉登さんはこうされて何も抗えなくなったんだろうなとぼんやり脳裡に過って、少しだけ意識が遠のきそうになった。が、何とか持ちこたえて姿勢を正すとどうしたものかと彼を見詰めた。

「それはあまりに大役というか…身に余るというか…」
「確かに、いきなりこのようなことを依頼してしまって申し訳ないと思っているよ…だが、だからと言って他の女性を用意するとなるとかなり時間がかかるんだよ。幸運なことに、さくらは八重野殿の御令嬢であったからこそ、社交場経験が一度でもある。だが、この地にいる御令嬢はそうはいかん。良家の娘でもこの地にいる女性の多くは社交場の礼儀作法や立ち居振る舞いもよく分からんだろうからな。」
「…確かに。でも、私も同じようなものですよ…?一度きりですし、父に連れられて社会勉強程度に…陸奥亮子夫人みたいになれって無茶言われまして。」
「はは、八重野殿らしいな。だが、それが今活かされようとしている。それに、他の鯉登少尉と他の御令嬢を合わせては君が嫌がると思ったのだよ。」
「ああ、なるほど…、すみません、御気を遣わせてしまって。」
「兎に角、今は君が頼りなのだ。鯉登少尉も社交界の経験は然程ないそうだが、彼ならうまくやるだろう。彼を支えてやってくれないか…?」

そう言って鶴見中尉はがしりと私の手を握ると、ニコニコしながら私を見詰めた。このニコニコした表情を見せるときの鶴見中尉を断る隙など絶対に無いことは、今までの経験上ようくわかっていることだった。私が乾いた笑みを見せて力なくうなずくのを見ると、彼は実に満足そうにうんうんと頷いて、それから再び口を開いた。

「よろしく頼むよ、さくら。」











「というわけでして…」
「…成る程。」

気の毒そうに眉を顰めて目の前の月島軍曹は相槌を打って下さった。昼休憩中にたまたま医務室に所用が会って訪れた月島さんに声を掛けられ(顔色が優れないぞと言われた)、今日の出来ごとの事のあらましを簡単に伝えれば彼は取りに来たにモルヒネの瓶を持ったまま、私の話を静かに聴いてくれた。少尉は今別の場所に任務にあたっているのでいらっしゃらないせいか暫くまた会っていないが、数日前に届いた手紙には実に元気そうな様子で嬉々として近況を報告してくれていた(それ以外の半分は鶴見中尉のことだったが)。

「社交会の式典の事は以前から聴いていたが、そうか…。」
「鯉登少尉はまだ存じていらっしゃるのか否かわからなくて…」
「…どうだろうな。社交場に行くよう指示は受けているだろうが、もしかするとさくらが同行することはわからないだろうな…(既視感…)」
「ですよね…(既視感…)」
「まあ、明日少尉は戻られる予定だ。恐らく明日、鶴見中尉から鯉登少尉にお話されるだろう。心配せずとも、少尉も場をわきまえる方だ。」
「はい、ありがとうございます…」

私がそう言えば彼は口角を上げた。まともな人が少ないこの師団の中で、月島軍曹は本当に最後の良心に違いなかった。私の心中を察して彼はねぎらいの言葉をかけると、そのまま病室を後にした。流石はあの鯉登少尉のお目付け役をされているだけはあるなと改めて感心すると、数日後に控えた社交会の準備についてぼんやり考え始めた。母には至急社交会用のドレスを送ってくれと頼み(前回一度だけ着たもの)、後は諸々社交場での心得を思いだすだけだった。一度きり、いつだったか、17歳の頃に父に連れられて東京の鹿鳴館に足を踏み入れたことがあった。陸奥亮子夫人のような女性になりなさいという父の教育方針もと、親戚の伝手を頼りに一度だけ。生まれて初めての雰囲気に圧倒されたのを覚えている。女性たちの美しい煌びやかな洋装と立ち居振る舞いに始終ドキドキしたし、私も東京生まれとは言え、きっと彼女たちから見れば田舎娘も同然だったことと思う。父が始終傍にいてくれたからよかったものの、お手水に行くのに離れる事さえ怖くてできなかった。それくらい緊張したし、怖くもあった。あの雰囲気にはきっと一生慣れないから、二度と行かないと思っていたが、まさか再び機会が巡って来るとは…と思わずため息を吐いた。おまけに今回は特命の任務となれば、お遊び半分では行けるわけがない。彼の一助とならなければならないし、今回くらいは我慢しなければならない。

「(…いいえ、今回だけではないわ。もしこのまま音之進さんと一生を共にするならば、こんなことくらい慣れておかないと…陸奥亮子女史にはなれなくとも、それに近いものくらいは……。)」

心の内でそう思って自分を奮い立たせると、よし、と一言気合を入れて勢いよく椅子から立ち上がった。音之進さんも明日には戻ってこられるし、明日少しでも2人きりで会える時間を確保せねばならないし、うだうだ悩んでいる暇はないと独り言ちて、午後の業務に向かおうと張り切って医務室を後にした。


2018.05.26.

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