五光

「鯉登さん、あそこのお茶屋さんに行きたいです。」
「………ああ」

名前を呼べば、何か言いたげにもじもじして此方をチラチラ見てくる少尉に思わず首をひねる。普段の彼らしからぬ行動にお腹でも痛いのかしらと邪推をし問いかければ全力で違うと否定された。あの一件からひと月、せっかく結婚を前提とした恋仲になったにもかかわらず、忙しすぎる鯉登少尉とはここ一か月ろくにお話が出来なかった。まるで時期を合わせるかのように彼は道内を行ったり来たりして合うこともできず、たまに朝方会えた時は礼の医務室の方で秘密の茶会などをしたりしたが、こうしてきちんと時間を作ってお会いするのはあの見合いの時以来本当に久々の事であった。

今日はなかなか会えなかった穴埋めだと言って、兵舎から大分離れた場所に逢引きがてら散歩に来たのだ。町中に植えられた桜はもう随分散ってしまい、緑が目立つようになっていたが、春から夏の気配を感じさせるような青々とした景色に清々しさを感じる。軍服とは違う洋装に身を包み歩く姿は銀座や浅草にいるようなモダンな青年に見えた。私も久々におろしたてのワンピースに身を包み(見合い成功の祝いに母が送ってきた)、カーディガンを羽織り、帽子をかぶる。日差しが思っていたより強かったのでちょうどよかった。

「今日はちょっと熱いくらいですね。」
「……ああ。」
「鯉登さんは何にされますか?私はこのわらび餅が食べたいです」
「……ああ。」
「(なんか、心ここに在らず、って感じね。)」

散策中に見つけたお茶屋さんで一休みしようと提案すれば鯉登さんはいつも通り私のわがままを快く聴いてくれて、店先の長椅子に腰かけるとすぐに注文をしてくれた。程なくして美味しそうなお抹茶とわらび餅がやってきたのでもぐもぐ食べる。鯉登さんはそれを見て先ほどのもじもじ、ぼうっとしていたのから、いくらか緊張が解けたようで、自分もわらび餅を食べ始めた。店先の娘さんも鯉登さんの凛々しい姿を見て頬を赤らめていたが、私もこんな人と肩を並べていることにちょっと気恥ずかしさを覚える。兵舎にいるときは全然気にも留めなかったが、一歩外に出るとさすがに視線を感じるので時折至って普通の私が一緒にいていいものかという感想が心のうちに首をもたげる。

「美味しいですね。」
「甘すぎんでうまいな。」
「はい。」

わらび餅を食べ終わって再び散策を開始する。人通りが多いわけではないが、男女二人が歩いていればちょっと眼を引くらしく、怖い顔をした紳士とすれ違うたびに思わず鯉登さんの影に隠れたが、その度に鯉登さんが負けないぐらいクワッとした顔で紳士を睨みつけては撃退するのであった。北海道に赴任して以来、この地の大自然には見慣れていると思っていたが、やはり本土とはまた一味違う自然の姿に未だに感動を覚えることも少なくない。ブーツのおかげでたくさん歩けるし、お散歩は久々なので嬉しい限りだし、外を回るのはお祭り以来なのであまり顔には出さないが心の内では随分はしゃいでしまっている。そんな私を鯉登さんも知ってか知らずか文句ひとつ言わずに一緒に歩いていくれている。だが、相変わらず何かあるのかもじもじしていた。お腹も満たされたし近くの公園に行くかと鯉登さんが仰ったのでそれに従う。道すがら見えた活動写真屋さんや鳥やさんが気になったりもしたが、この公園には大きな湖があるというので、入ってまた散策をする。お腹も満たされていたし確かにちょうどいいだろう。平日だからかひっそりしていたが、地面を均した運動場があるのできっと休日になるとそれなりの活気があるように見えた。

「鯉登さん、どうかなさったんですか?」
「……いや。そいより、こん湖にボートがあっらしい。乗ってみるか?」
「ええ。乗ってみたいです!でも、漕ぎ方が分からないのですが…」
「漕ぐたぁおいじゃっで心配すっな。行こう。」

そう言って彼は久しく私の手を引いて歩き出した。彼の言う通り確かにしばらく歩いた先にボート置き場があって、その傍には小さな小屋があった。小屋にいたおじさんはうつらうつらしていたが、鯉登さんが話しかけると眠い目をこすって簡単に貸しボートの案内をした。貸料を支払って早速吊り橋を渡りボートへと移動する。ギシギシいう木の板の道を鯉登さんの手を頼り、ようやくボートへ乗り込むと、あれよあれよという間に慣れたように鯉登さんが漕ぎだして出発となった。

「わあ、上手ですね。ボート漕いだことあるんですか?」
「故郷で何度かな。あん辺りん桜はまだ咲いちょっごたる。行ってみよう。」
「はい!」

オールを彼が漕ぐたびに水面が揺れてぴちゃぴちゃと音が響く。向こう側では鴨や小さな水鳥たちが優雅に泳いでいて、水面は太陽にゆらゆら揺れて輝いている。湖は薄緑色と空の水色が混ざった色をしていて、昔東京で見た西洋の絵画を思い起こさせた。やがて、鯉登さんの言っていた通り、もうはらはらと散っていたが桜がまだ咲いている木々が視界に見えてくる。水面には桜の花びらが無数に散らばって絨毯のようだ。桜の雨の中に入りこむと、花びらは水面だけではなく、私たちの額や肩や、足元を濡らしていくように滑り落ちてきた。

「素敵!お祭りを思いだしました。」
「ああ。」

両の手をお皿のようにしていれば数枚の桜の花びらが入りこんできたので、それをさらにふうっと息を吹きかければ水面に滑り落ちた。公園は相変わらず静かで、遠くで鴨が魚をとっているのか時折ばしゃばしゃと水の音が聞こえた。鯉登さんもオールを止めて暫く景色を楽しんでいたがずいっと私と距離を縮めると腰かけた。彼のいい香りが鼻孔を掠めた。流石に恋仲になあったとはいえ、二人きりで距離を縮められると緊張する。彼もやや緊張しているのか暫く黙ったまま、向かい合うように座っていたが、こほんとせき込むと漸く口を開いた。

「前から言おうて思うちょったんだが……そん、」
「はい。」
「二人っきりん時は、おいん名前を呼んでほしか。」
「名前?…鯉登さん?」
「………下ん名前で呼んでほしか。」

思わぬ告白に少々拍子抜けしてしまった。思わずふっと笑ってしまいそうになったが、彼が伏し目がちに私をちらちらと頬を赤くして覗くものだから、口元を手で押さえてこらえた。

「音之進さん。」
「っ、」

いつもかっこいい彼は本当に時折可愛らしいことをするものなので、思わず悪戯心が芽生えてしまい、膝の上に綺麗に載っていた彼の手を取って真っすぐ目を見て彼の名を呼んでみた。すると、彼はびくりと肩を震わせて、それから、小さく「キエッ」と言ったかと思えば耳を赤くさせていた。ちょっと意地悪しすぎたかもと思いつつも、彼がかわいいことをするから仕方がない。恋仲になってから、いくらか気が大きくなっている気がする。

「さくら」
「はい?」
「好っじゃ、さくら。」
「わっ、音之進さんっ…!」

突然名前を呼ばれたかと思えば、鯉登さんはいつぞやのようにがしりと私の肩をつかむとぎゅっと抱きしめてきたので思わず声を上げてしまった。がたがたとボートが揺れていろんな意味でも怖かったが、何とか大丈夫そうでほっとすると、思わず胸をなでおろした。名前を呼ばれただけで顔を赤らめたというのに抱きしめることは容易なのだから一体硬派なのか軟派なのかわからないが(紳士的ではあるんだけれど)、そんなところが好きな私はすでにもう大分絆されているのだろう。

「音之進さん、私も音之進さんが好きです。」

そう言って手を彼の背中に回せば、音之進さんは腕の力をぎゅっと強めて嬉しそうにそのすっと伸びた鼻先で私の耳や首筋をなでた。

「夢じゃなかよな。」
「ふふ、ええ。現実ですよ。」

いつぞやの台詞が聞えてきて思わず2人してくすりと笑ってしまう。口を吸うのも、それ以上のこともきっと私たちでは普通の恋人たちよりもゆっくりゆっくりになるかもしれないが、それでいいと思う。いつかきっと迎える晴れの日まで、ゆっくりゆっくり彼を知っていきたいし、彼にも私を知ってほしい。


2018.05.16.


―第一章、完―

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