雨四光

もう一度お湯を沸かしてお茶を入れる。鯉登さんたちは中尉に報告があるから小一時間は絶対戻ってこないだろう。おにぎりが冷めないように気をつけつつ、月島さんの分も作ってあげようとたくさん作っておく。月島さんと鯉登さんの分でお皿を分けて蠅帳をかぶせる。お茶も暖かいものを用意した。時計を見ればあっという間に一時間は過ぎていた。そろそろ彼らは恐らく報告を終えて、別室にいるだろうと踏んで、とぼとぼ向かって行く。やはり、扉の上のすりガラスの窓からは、わずかに室内の光が見えたので誰かいるようであった。扉を開けようと手を伸ばした刹那、ドアノブがまわったので慌てて後ろに退けば、扉が開いて目の前に見慣れた顔が現れた。

「ああ、さくらか。」
「月島軍曹。」

私が名前を呼べば、彼はやや疲れているような顔ではあったが口角を上げて私を見下ろした。

「今夜食をお持ちしたんですが…もう戻られますか?」
「ありがとう。いや、中尉に今から会うのだ。だが、その前にこれだけもらおうかな。」

せっかくだからと私の作った夜食の皿を一つ手に取るとちょうど小腹がすいたところだ、とにこりと笑った。

「お茶は大丈夫ですか?」
「ああ。鯉登少尉に入れて差し上げなさい。」

そう言って月島さんはあっという間に私が今来た廊下の方に消えてしまった。暫くの間呆けた様に扉の前で月島さんの背中を見ていたが、はっとして扉の内側に視線を写せば、こちらを見ている鯉登さんとばちりと目があった。彼は少し緊張した面持ちになったが、入ってくれ、と一言言って招き入れた。私も小さく返事をして入るとお盆をテーブルに載せた。彼は暫し筆を静かに走らせていたが、私が静かにお茶を入れ始めるのをちらちらと盗み見ているようで思わず口元を緩めずにはいられなかった。お茶はこの間彼のために買ってあげたものだ。

「どちらに置けばよろしいでしょうか?」
「今そっちに行く。」

そう言って慌てて鯉登さんが此方に来た。彼は長椅子に腰かけると私も座るように指示した。私も渋々といった感じで座り微妙な距離感を保つ。暫し沈黙があたりを包み込み、雨音が間遠に聞えてくる。ずず、とお茶を飲んで静かに私のこしらえた粗末なおにぎりを食らう好青年の頬はいくらか熱を帯びているように赤い。私もきっと同じ顔をしているのだと思う。頬が俄かに熱い。

「…あの、」
「な、なんだ、」
「………あの日から随分経ってしまったのに、お返事できなくてすみませんでした。」

私がそういえば彼はすこしだけ驚いたように目を丸くさせたが、すぐにいつもの真面目な貌に戻った。美しい彼の横顔を覗いて、それから膝の上にある両の手に力を籠める。

「今でも信じられません、本当に、まさかお見合い相手が、鯉登さんだったとは…」
「おいも同じだ。」
「ええ。でも、この数日間鯉登さんがいらっしゃらなかった間、自分なりに考えました。」

私がそういえば彼は此方を向いているようだった。ようだったというのは、私が実際に彼の方を見ていなかったためだ。今の私は言葉を選び発するだけで一苦労で、彼と顔を合わせることは本当至難の業で、視線を膝に向けたまま話をつづけた。

「正直、私面食らったと言いますか…怖気づいていたんだと思います。」
「怖気づく…?」
「はい…あなたのような人に、私は身分もそうですが、人間的にもあまりに不釣合いだと…」
「そんた前にもゆたがちご。」

私が卑下したことを言えば、彼はすかさず否定の言葉を紡いだので思わず笑ってしまう。彼の優しさが嬉しくて笑ったつもりが、何か勘違いしたらしい鯉登さんはがしっと私の肩をつかむと、やや無理やりだが私と視線を合わせるように顔を下に向けた。自動的に私は驚きつつも視線を上にあげて彼を至近距離で見上げる形となる。あの鯉に餌をあげたときと同じ。既視感だ。心臓がどっどっと早まるのを感じたが、そうなってしまえばまたあの時と同じく言いたいことも言えずに終わってしまうと自分を奮い立たせる。鯉登さんは優しいから、それから先は無理やり促さないけど、この数日間ずっと待っていたのだからきっと一思いに言ってほしいはずだ。

「お待たせしてすみませんでした…」
「いや、」
「貴方のことは、すごく、尊敬しています。男性として、人として…私にはないものをお持ちで、まっすぐで(たまに真っすぐすぎて怖いくらいだけど)。私には勿体ないくらい聡明で、将来有望で、才能と若さで溢れていらっしゃいます。でも、」
「……でも」
「やはり今の、未熟物の私には、あなたは眩しすぎるのです。」
「…………」

私がそういえば何かを察した彼はすこしだけ私の肩に添えた両の手の力を弱めた。私はそれに対して小さく笑んで、彼の右手をつかむと、今度は私の小さな両の手で包んだ。

「素直な気持ちを吐露させていただければ、今の私には正直、今のままの自分でいきなり結婚、というのは考えられません…」
「……そうか」
「でも、その、もし鯉登さんがよろしければ、結婚を前提にお付き合いをしてから、というので宜しければ、ぜひ、このお話お受けできればと思うのです。」
「さくら…」

私がそういえば、彼はぱああああと顔を明るくして、それから嬉しそうにがしりと私の手を握りしめた。握られた手が熱く、一思いに気持ちを吐露してしまえば心臓が痛いくらいに高鳴った。だが、それ以上の不思議な解放感が胸に押し寄せ、何故だか目頭が熱くなった。

「見ての通り、私、勉強はある程度できるかもしれませんが、お裁縫もお料理もまだまだですから…花嫁修業をある程度して、お仕事もきちんとできるようになってからでも構いませんか?」
「構わん、待っちょ。好っじゃ、さくら。」

そう言って感極まったのか鯉登さんは握った私の手をゆるりと引っ張って自分の方に抱き寄せると、それからぎゅうっと私の背中にぎこちなく手をまわした。驚いて肩を震わせて硬直していたが、私も雰囲気に流されて彼の広い背中に手を回せば、彼は嬉しそうにくすりと笑って私の肩に顎を預けた。ぎこちなく慣れないが、一生懸命気持ちを行動で示そうとする姿が凄く嬉しいし可愛らしいし、涙ぐましくさえ思う。

「すまん、緊張しちょってな。あと、少し疲れた。少しん間、こうしちょってもよかか。」
「恥ずかしいけど、いいですよ。もう、私と鯉登さんは一応、恋人同士、ですもの。」

小さく私がそういえば、彼は至極嬉しそうに静かに頷いたが、暫くして突然、ん、と言って視線を上げて私の耳にささやいた。

「扉、鍵を閉めたほうがよかよな…」
「……さっき入る時に締めておきました。他の人に色々聞かれたら、恥ずかしいなって、思って……」

私がそういえば鯉登さんは私に目を合わせたが、すぐにふ、と笑って、私を抱きしめる腕の力を強めた。今日はもう帰ってきたばかりで疲れてるのに、私のためにこんな遅くまで時間をくれたんだなあ、とか、今後も私のせいでお仕事に差し支えないようにしなきゃなあとか、色々考えては頭の中で消えていった。頭と胸が熱を帯びて浮かされているような、お酒を飲んでいないのに飲んでいるかのような、とてもふわふわした気持ちだ。

「………夢じゃないですよね。」
「夢じゃなか、現実や。」

今この瞬間が夢か現か、分からずぼんやり発した私の言葉に、しっかりとした声で鯉登さんは応えると、私を包み込む腕の力をもう少しだけ、強くした。しとしと聞こえてくる雨の音と時計の音にそろそろ夜の当直に行かねばとも頭の片隅で思っていたが、今はしばらくこうしていたいなあ、と思って静かに彼の背中に回した腕の力を強くして瞼を閉じて、暫くこの暖かさに身を任せていた。



2018.03.30.

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