17



「…えーす、さん。」

未だ整わぬ息のまま名前を呼べば。ああ、という静かな返事が少し間を置いて聞こえた。離してください、といつもの調子で言えればいいのに、なぜだか私はどうしてもそれを言えなくて、彼の腕を掴んだまま、微動だにしなかった。何れ位たったかわからないが、しばらくすると彼は私を離して、私を自分に向き直る様に肩を掴んだ。

「…………、」

そこで初めて彼と目を合わせる。実に三日ぶりの対面である。たかが三日されど三日で、お互い何を言わずとも、各々いろいろ考え悩んだような顔を浮かべていた。彼はいつぞやのように両の手で私の涙を拭うと、いつもよりやや力なく笑った。もしあったら何か言ってやろうぐらいに思っていたのに、彼の顔を見た瞬間から何も言えなくなってしまった。

「…お前なあ、戸締りしとけって言ったのによ。」
「え」
「玄関思いっきり鍵かけてなかったぞ。」
「…すみません。」
「挙げ句の果てに何でかわからねえけど暖炉の前で泣いてるし。」
「………。」
「これ以上泣くなよな。笑って欲しいのに。」
「それは、私だって笑いたいです、でも、エースさんが…」
「俺が、なんだ?」
「エースさんが……」

視線を下に向けて萎縮する私を見て彼は意地悪く喉を鳴らすと、よし、と立ち上がっていつぞや見たように瞬く間に炎を生み出して、暖炉に火をつけた。そして私を横抱きに抱き上げると、そのままソファへと下ろした。彼もそのまま座るかと思いきや、私の目の前でしゃがんで私を見上げる形となった。そして私両手を自身の両の手で握った。相変わらずとても暖かい。彼は私の冷えてかじかんだ手を温めるように優しく包んでさすった。そして慈しむような目で未だ潤む私の目を捉えた。

こうめ、俺はもう行かなきゃならねえ。」
「………。」
「明日の日の出前に、すぐに出航するんだ。」
「日の出前…」
「ああ。」

やはり、お別れに来たんだ、そう思ったらなぜだかまた目が潤んでくる。ダメだ、泣くな、と思っても流れ出そうになる。喉の奥が疼いて仕方がない。

「本当に長い間、この街の人間にも、こうめにも世話になった。本当に感謝してるんだ。」
「………」
「最初はお前があんまり笑わねえから、ちょっと笑わせてやりたいな、て思ったんだが、どうにも俺はこうめを泣かせてばかりで情けなかったな。」
「………本当に。」
「相変わらず容赦ねえな…まあいい。お前のそういうところも好きだ。」
「…………。」
「照れたな。」
「……………別に照れてません。(“も”って、“も”って何なの)」
「嫌に間が長かったぞ。」

それでまたエースさんくつくつ喉を鳴らしたので思わずむっとする。泣いてる顔でむっとするのも滑稽に写っただろう。

「前にも言ったが俺はこの街が好きだ。こうめに会えたしな。」
「…パン屋のお姉さんにも?」
「からかうなって。ヤキモチか。」
「……………。」
「……………。」
「…だったら、なんですか。…もし迷惑なら」
「お前なあ、そういう可愛いことはもっと前から言えよなあ…」

私の言葉を遮ってため息混じりにエースさんはそう言ったかと思えば、あああああ!と言いながそのそばかすのほっぺたをちょっと赤くしてうなり始めた。一体なんなんだ。思春期の男子かなんかだろうか。

「兎に角だ!」
「(おお)」
「俺は朝に出ちまう。そうすりゃもういつここに戻るかわからねえんだ。」
「……はい。」
「だからお前も連れてく。」
「……はい?」
「お前も一緒に来るんだよ、こうめ。」
「………」

私の耳がおかしくなってしまったんだろうか。暖炉で薪が燃えてパチパチいう繊細な音が聞こえるということはまだきちんと機能していると思うのだが。でも彼の目は寸分とも揺らがないから空耳ではないのだろう。この人は相変わらず自分勝手であったらしい。「…なんで、私が。だいたいあなたは海賊で。」
「そうだな」
「そうだな、じゃないですよ、何言ってるんですか。自覚してください。」
「そんなことは最初から理解してる上に、この三日間は嫌というほど考えた。」
「……で?」
「俺は今まで自分勝手に生きてきたんだ。だからこれからもそうして生きていくことに決めた。だからお前を連れてく。」
「……滅茶苦茶だ。」

私は本当に同じ人間と話しているのかさえ怪しくなってくる。彼の謎理論に巻き込まれるのはゴメンだ。でも、これで彼と二度と会えなくなるのはもっと嫌だと、心の奥で思ってしまったのだから始末が悪い。

こうめ、お前が好きなんだ。」
「………。」
「お前も俺のこと好きなんだろ。」
「…何を言って、」
「暖炉の前で俺を思い出してガキみたいに大泣きするくらいは好きなんだろ?」
「ちょ、変なこと言わないでください!」
「愛してるって俺が言ったら嘘っぽいかもしれねえし、似合わねえかもしれねえけど、本当にこんななりふり構わず非現実的なバカをするぐらいにはお前に惚れてるんだ。だから一緒に来い。」
「…………」
「犯罪者が何言ってるって思ってるだろう。その通りだ。でも知らねえよ、そんなもん。俺は世の中のルールなんてそもそも守る気なんてねえ。まあ守る気なんてあったら海賊やってねえし。」
「……エースさん、」
「ここはいいところだ。山も湖も海も、街も、崖も、人も、全部非の打ち所がねえよ。だが一つだけ気に入らねえ。」
「一つ」
「なんでお前はこの街に、この家に、思い出に縛られて、一人苦しんでるんだ。」
「…………。」
「もうお前自身も気づいてるだろう。思い出のこの場所が、お前を苦しめてるんだ。」
「…………。」
「なあ、好きって言えよ。そうすりゃあ俺はお前をここから連れ出せる。もうひとりになんてさせねえし、また泣かすかもしれねえけど、それ以上に笑わせてやるから。」

冗談じゃないことは、彼の目を見ればわかる。彼はそういう人間だ。非力な一般人とは違う。非常で無情な世界を生きてきた人だ。自分勝手に生きて、自分の確固たる信念を持って生きる人だ。私には到底真似できない。

「…少し、時間をください。」
「もう、時間ねえ。」
「分かってます。でもお願いです。ギリギリまで、待っていただけますか。」
「…わかった。外で待ってる。ボートのとこでな。」
「寒いから中で待ったらどうです?」
「気にすんな。仲間が迎えに来るから見てなきゃならねえんだ。」
「…もし、日の出前に出てこなかったら、」
「無理やり連れてく。」
「………拒否権はないんですね。」
「ねえな。」

そう笑ってエースさんは立ち上がる。口ではそう言っても多分、私が本気で嫌がったら彼は私の意思を尊重するだろう。彼はそういう人だ。本気で無理やり連れて行く気なら、私にそんな愚問を投げかけるなんてしないはずだ。だってもう彼も私も、わざわざ言葉にしなくたって答えはわかっているのだから。







小さい頃、なんで母親がいないのだと言って祖母を困らせたことを思い出した。それからその直後、父にも駄々をこねた。困った父は私をつれて家の裏にある山へと登った。美しい紅葉のシーズンで、そんなに大きくないけれど山頂からは街全体が見渡せた。マリア像を指差して、父は私に笑いかける。

この街は、この家は、私の全てだ。ふるさとだから。でもときにふるさとは人の道を煩わせる障害になるらしい。目に見えない繊細な糸が、私の、私たちの一歩を邪魔して、郷愁が決断を鈍らせる。ここには思い出がありすぎて、でも人はいつしかそれさえも犠牲にして前に進まねばならないらしい。


「きっと幸せになるよ。こうめは笑顔が似合う子なんだ。幸せな子なんだよ。」


幸せになるために。



サラサラと紙にペンを滑らせてもうどれくらい経ったろう。本当に困ったものだ、もう少し時間があればいいのだが。自分の部屋の窓から下を覗けばボートの中で横で薪を勝手に催している人影が見えて思わずため息が出た。一通り書き上げるともうすでに四時間は経っていて、出来るだけ簡潔に書いたつもりが一人につき、20枚以上の手紙となってしまった。

「(家と土地の紙はあそこか。印鑑はたしかこっち…)」

いろいろしているうちに気がつけばもう二時を回っている。まだ外はしらんでいく気配はないようで安心しつつ、リビングのテーブルに必要な書類と自筆の手紙をきちんと並べる。テーブルにあった冷め切った紅茶を一口飲んで、意識を覚醒させる。まだまだやることは多いのに時間がない。こう考えたらふつふつと怒りが湧いてきたが、今はそんな時間もない。一分一秒が惜しい。彼は外で風邪をひかないだろうか少しだけ気がかりだった。










「…………」

彼はゆっくり立ち上がると、もうすでに灰となってしまった薪の跡を足で踏んで残りの鎮火をした。後ろの屋敷を見れば、やけにひっそりしていた。まだ覚醒していないかのように静かで、凪のようだ。

「さて、」

男性はもうこんなに寒いというのに私があげたコートを小脇に抱えて、あの初めて会った時と同じように半裸ではないか。だというのになぜだか楽しそうに笑っている。寒すぎて頭がおかしくなっちゃったのかな、と一瞬ギョッとした。のんびりしたかもめの鳴き声が山のあいだで反響する。

「すごく大きい船……想像以上です。」
「まあな。」

ゆっくりと歩み寄って彼の横に並ぶと、バスケットの中から水筒を出すし、いつぞやのように熱々の紅茶を差し出した。香りが毎回違うことを気づいてもらうことは、結局最後までなかった。微妙に味が違う、くらいの認識なんだと思う。これからも多分、当てられないだろう。

「なんだか、ふわふわしてます。夢の中みたい。」
「寝不足か?」
「そうかもしれませんね。最近誰かさんのせいで眠れぬ夜を過ごしました。」
「何か別の意味に聞こえる。いやらしいな。」
「……下ネタでは私は笑わせられませんよ。」
「知ってる。」

何だかお互いやけに落ち着き払っていることに驚く。数時間前は自分でもわらってしまうくらい死にそうな顔をしてあれだけ泣いていたとは思えぬ程だ。お互いが持つ水筒のコップから湯気が未だに立ち上っている。エースさんは紅茶をすすりながら、しばらく黙ってなにか思索にふけっていたようだだが、ちらりと目線を横にして私と目が合うとにっこり笑った。

「お前に言い忘れてたな。」
「なんですか。」
「俺、海賊王の息子なんだよ。」
「…………なんでそんな大事なこと、今言うんですか。」
「今なら言える気がしたんだよ。じゃねえとこんなこと言えねえよ。」
「…ずるいです、もう逃げられない時になって言うなんて。」
「悪ィ。あん時言おうと思って、でも…お前に嫌われると思ったんだ。」
「……まあ驚きはするしドン引きはしますけど、」
「するのかよ。」
「別に、嫌いにはなりません…」
「おう。」
「…好きだから、嫌いになれないですよ。嫌いになれたら、悩まなくても済んで、良かったかも、しれない。」
「…おう。」

私がきちんと言葉で意思を表明すれば、なぜか隣の男はくつくつ笑い始めた。面食らってしばらくエースさんの笑う様子を眺めていたけれどなんかムカムカしてきた。なんでいつもこの人だけ楽しそうなんだろう。エースさんは紅茶を飲み終わると早速私の持ってきた荷物に手をかけようとして、今度は彼が驚いたように声を上げた。

「この荷物全部持ってくのかよ…」
「これでも厳選したんですけど。」
「しょうがねえな。」

女性なんだし物入りなんだと伝えれば彼はへいへい、とやる気があるんだかないんだかわからない声を上げた。まあたしかにダンボール箱四つ分は多いか。でも致し方あるまい長い旅になるのだから。海なんて慣れないし。エースさんはボートに全て乗せ、それから私の手を取った。

多分いつもの調子に乗った戯れで私抱きしめたんだと思うのだけれど、いつもやられっぱなしでは面白みがないと思って、ボートの上で危ないとは分かっていても、思わずその背中に腕を回してしまった。

「…………。」

船の人たち見てたら恥ずかしいなあ、というのは抱きしめてから思った。まあ、たまには大胆になってもバチは当たるまい。ギュッと抱きつけば面白いほどに体が緊張したので思わず笑いそうになる。自分からやったくせに。本当に自分勝手な人だ。犯罪者で自分勝手で、バカで素直でかっこよくて、本当に泣けてくるぐらいだ。この人の前だと私は泣いてばかりだ。今日も、この間の紅葉狩りの時も、映画見た時もそう。笑うどころか主に泣いてるんだけど。そう思ったらなんだかとても滑稽に思えた。

「“事実は小説よりも奇なり”って、本当でしたね…。」

そう言って彼を見上げれば彼は少し驚いたようになって、それからなぜか彼も同じように泣きそうになったけど、すぐさまいつもの調子に戻った。

「泣くんだか笑うんだか、どっちかにしろよな。」
「…ごめんなさい。」
「いや、もういい。これ以上しゃべんな。これ以上可愛いこと喋られたら俺多分あいつらに沈むられる前に死ぬ。」
「?」

なんのことだかよくわからないが、取り敢えずボートは進んだ。

「エースさん。わがまま聞いてもらえますか。」
「体で払ってくれるなら。」
「…全然面白くないです。」
「すみませんでした。」
「あの、どうしてもあのマリア像のところを通ってもらえますか。」

私がそういえば、彼は少し真面目な顔をして頷いた。私はそれに頷くと、懐からでんでんむしを取り出した。長いことこの子を使ってなかったなあ(主に誰かさんが取り上げるものだから)、とぼんやり思った。








やがて空が徐々に明るくなってきた頃。かもめたちが飛び立って、朝の漁に出かける船が、今日は慌ただしく港に引き返していく。目の前をゆうゆうと泳ぐように進む一隻の大きな船によって行く手を遮られたからだ。



執筆 2015.12.20.

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