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「よし、行くぞ!」
「はい。」

彼は私の返事を聞くと、つながれていたロープを外し、そしてそのままボートに移った。ボートが動き出すと同時に波紋が水面に広がって、少しずつ動き出す。エースさんはオールをうまく漕いで、手始めに湖の真ん中へと向かって行った。正直そこまで乗り気でなかった私であるが、久方ぶりの感覚にワクワクしていることに気がついた。
ボートから顔を乗り出し、水面を除けばやや空の青と山の紅葉が反射して美しい景色が見えた。もう少し目を凝らしてみておれば、湖に住んでいる魚の鱗が光に反射しているのも見えた。

「もうすっかり釣りをする人がいないから、湖にはたくさん魚がいると思います。」
「マジか。釣り道具持ってくりゃよかったな。」

がこんがこんと音を鳴らしながら、緩やかにボートは進んでいく。湖の中ほどまで来ると、エースさんは一旦止まってその景色を見渡した。ここからはいつも街から家間でをつなぐ銀杏並木や白樺林もよく見えるし、すぐそばの山々や森の様子が見渡せる。湖の真ん中では音も大変繊細に聞こえる。ぽちゃん、という魚がはねる音や、鳥の鳴き声、虫の羽音さえも鮮明に聞こえるのだ。

しばらく二人で黙ったまま双眼鏡を片手に観察に専念する。子供時代の、祖父との思い出が思い出されて、何だか嬉しい気持ちが湧いてきた。釣りに一通り飽きると、祖父はボートをこいで、山の合間に流れる川を散歩してくれた。革をわたり、気が向けばボートを降りて、山の中のきのこや、アケビをとって、おやつがわりに食べたりした。

「あそこの岩の向こうに、とても緩やかな流れの小さな川があるんです。祖父とよく探検していました。」
「そうなのか。」
「紅葉がもっと間近で見れると思います。時折、鹿やリスや、狐なんかも出てきますよ。」
「じゃあ行ってみるか!」

エースさんは早速ボートをこぐと、川へと向かった。川の様子は時折見に来ていたので相変わらずであるが、もうこの辺りの紅葉もピークを迎えたらしく、緩やかな流れの川に赤いもみじが落ちて、情緒のある風景を演出していた。まるで絨毯のようで美しい。

「綺麗だな。」
「はい。あ、翡翠です。」
「お。」

すぐ手を伸ばせば垂れた木の枝に手が触れられるほどである。案の定リスが時折枝を伝って川を渡ったりしていた。昼下がりの日差しが水面を照らす。何だか絵の中の世界みたいだ。顔には出ていないかもしれないが自分でも自分の目が輝いているのがわかる。

「写真機持ってくれば良かった…。」

手を休めてバスケットの中の水筒から紅茶を出して二人で飲みながら、紅葉を眺めた。おやつを出せばエースさんは食べたり見たり寝たりで本当に忙しそうだった。紅茶を飲みながら、思わず革に手を伸ばす。この川はこの山から流れ出てきたので綺麗なので、紅葉のない夏場は魚のせひれが克明に見えるほどの透明度である。

「(つめたい)」

想像以上に冷たかったが、何だか心地が良い気がした。川面に浮かんでいた赤いもみじを一枚手に取ると、ボートの淵に一枚置いてみた。日差しが柔らかくて、何だか眠ってしまいそうである。

「熊出そうだな。」
「熊は出ません。ここから三時間歩いた奥の山にはいます。ここは森が豊かだから熊はなかなか人里に来ないんだと、祖父は言っていました。」
こうめのじいさんはこの辺の生まれだったのか。」
「もともと漁師の家の次男坊で、好き勝手に生きてきたそうです。若い頃に会社を起こして成功を収めましたが、定年になったらあっさり畳んでここの土地と家を買って隠居したんです。」
「なかなかやり手のじいさんだな。」
「はい。面白かったです。若い頃は船乗りやったり酒に女にタバコにギャンブルにって、すごかったみたいですが、私の記憶の中では、いつも孫に優しい祖父でした。」

ボートを期しに寄せてロープを木に止めると、エースさんと散策をはじめた。彼はこういうのが好きらしく、私が案内せずともずんずか進んでいく。途中アケビやいちじくがあったので二人で食べた。甘くて美味しい、素朴な味がする。いちじくは二人して舌が真っ赤になった。丸太の上を歩いたり、岩の上を登ったり、時折転びそうになればエースさんが腕をとってくれた。なんだか二人共子供に戻ったようだった。歩くたびに小枝がパチパチいう音が無性に面白く感じた。

「ばあちゃんは優しかったのか。」
「ええ。とても素敵な人です。もともと首都に住んでいたお金持ちの箱入り娘で、とても温厚な方でした。頭のいい女性でした。私が本を好きなのは、祖母のおかげです。ピアノや料理、お裁縫も、全て祖母から習いました。今思えば、両親のいない私をかわいそうに思って、必死に育てたんだと思います。」
「…そうか。幸せだな、こうめは。」
「…はい。祖母はたったひとりの家族でしたから、お互い本当に頼りあって生きてきました。なので、今は、少しだけ、寂しいです。結局、誰も居なくなってしまった。」
「…………。」
「エースさんは?」
「ん、俺か。」
「はい。家族や、兄弟はいるの?」

私が問いかければ彼は木々の隙間からニッコリと笑って白い歯を見せた。

「いるぞ。今は親父んとこにいるから家族は多いなんてもんじゃねえな。」
「本当ですね。」
「兄弟は…もともと三人兄弟だ。血はつながってねえけどな。サボとルフィていうんだ。サボは俺と同じで兄貴みたいなもんで、ルフィは俺たちの弟だ。バカで泣き虫で殴ってばっかだったけど、なかなか可愛い奴だった。何だかんだで三人楽しくやってた。」
「へー。私は兄弟がいないから、そういうのにとても憧れます。」
「ははは、こうめが想像するもんとは全然違うぞ。俺たちすっげークソガキだったからな。おまけに山賊の親玉のダダンってやつに預けられてて、毎日食い逃げだのやってたし、街で気に入らねえ奴がいたらぶん殴ってたし、躾も教育も何もあったもんじゃなかった。手がつけられなかった。ダダンには迷惑かけたと思ってる。」
「…凄まじい幼少期ですね。」
「ああ。おまけに俺はあん時かなりひねくれてて、世の中の全てを恨んでたんだ。自分は生まれちゃいけねえ存在だと、自分でも半分そう、思ってたんだな。」
「……どうして?なぜそんなことを、」
「ん?…ああ。また後で話す。」
「…………。」
「悪いな、変な話しちまった。」
「いいえ、そんなことは、」
「ほら、手掴まれ。」

やや急な坂を登っている最中、差し出された腕に手を伸ばす。私の冷たい手に彼はためらいなど見せず握り返すと、そのままぐっと引っ張り上げた。本当に強い力だった。引っ張り上げられてよろめきそうになるも彼が背中を支えてくれた。

こうめ、見てみろよ!」

言われてハッとしつつ後ろを振り向けば、そこには湖の姿と、遥下に自分の家の姿が見えた。ここからは街の様子も、マリア像の崖も、全てが見えた。水平線に少しずつ近づいて来るのも見えた。

「すごい、」
「な!」

思わず感嘆の声をあげれば隣にいたエースさんが嬉しそうに答えた。その瞬間、かつての記憶が思い出される。そういえば、本当に昔、もう物心がつくかつかないかの位に、私はここに来たきがした。祖父とか。いや、違う。かすかな記憶が、脳裏によぎる。祖父と同じ、笑った時にできる笑窪、栗色の髪の毛。違うのはその香り、その声。

こうめ
「おとうさん」
「ほら、見てご覧。マリア様が見えるよ。」
「まりあさま?」
「街の皆が幸せになるように、笑っているんだよ。」
「まりあさま」
こうめも笑ってごらん」



「きっと幸せになるよ。こうめは笑顔が似合う子なんだ。幸せな子なんだよ。」


「…お父さん」

潮風と山の風が混じり合って濡れた頬を撫でて、夕日が水平線に沈んでいった。



執筆 2015.12.03.

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