七時を過ぎたこの辺りは本当に暗く、フクロウの声も寂しく響くような静寂がつつんでいたが、満月の光が木々の合間から差し込んでくるのが心細さを和らげさせるのだ。しかし今日は雨ですべてが黒く染まっていた。時折遠くから鹿の鳴き声や牛たちの吐息が幽かに聞こえ、風が窓を小さく揺らした。バスローブを脱いで手渡されたナイトドレスに身を包み、濡れた髪を下げたまま、寝室の壁に下げられたラベンダーのドライフラワーに鼻を寄せれば未だにその香りは衰えていなかった。半年前に来たときは出来た手だったそれも、日にあたって柔らかな茶色に変化していた。ドライフラワーのある壁には黒塗りの随分年季の入ったピアノが置いてあり、今は蓋は閉ざされたままであった。台の上には持ち主のお手製のぬいぐるみの熊や猫が置いてあり、埃をかぶっていないのを見るあたりきちんと定期的に掃除をし大事に扱っていることが分かる。その隣にある本棚も同じく埃一つなく、懐かしいテキストが大人しく並んでいた。濡れた髪をタオルで撫でつけながら、手作りだという鏡台に目を向ける。素朴で粗く塗られた塗料が味のある鏡台で、いつもこの兄弟に座るととても懐かしい気持ちがして心地が良くなるのだ。引き出しを開けて櫛を手に取ると、生乾きの髪をとかした。傍にあるランプがナイトドレスから出ている肌を照らし、目はいつも以上に黒味を帯びているように思えた。一通り乾かし終え、荷物を検めようとソファに置いてあった鞄に手を伸ばす。乾いた髪を結ぼうとして、髪留めを探すうちに、財布や手帳、ポーチや例の木箱や今日買ったお菓子やお土産がどんどん鏡台のテーブルに並べられた。鞄の一番奥に蝶と蔦の描かれた髪留めを発見し、それをつけていたその時、突然ドアをノックする乾いた音がし、反射的にどうぞ、と言う声を上げれば扉は遠慮がちに開いた。

「…今大丈夫か?」

テノールが響いたかと思えば、扉の隙間から見覚えのある瞳が見えてええ、と答えればその目は細められた。彼は了承を得るとゆっくりとした動作で部屋に入り、そしてブーツを鳴らしながらこちらに近づいてきた。彼は片手に盆を持ち、ソファの傍のサイドテーブルに盆を置くと自身はソファに腰を下ろした。

「婆さんが体を暖めてから寝ろだとさ。」
「すみません、わざわざ。」
「いやいいんだ。何なら俺が先に風呂に入って悪かったな。」
「いえ、いいんです。一番時間かかるの私ですから。寧ろ、お待たせしてしまってすみませんでした…。」
「いや、気にするな。」

ベッドの上の上着を手に取り羽織り、つけていたヒーターの温度を若干あげると、彼と向かい合わせの一人掛けの椅子に腰を下ろした。客用の寝室はこの家のこの部屋しかないのに、私の支度が終わるまで彼には下のリビングで待ってもらっていたのだ。ベッドは備え付けのダブルベッドが一つ、彼が座るソファが一つ。つまり、客である私たちが寝る場所はこの二つの選択肢しかなく、後はおじいさんとおばあさんの部屋、息子さんの部屋、物置と化した部屋が一つなので自動的に私たちは一緒の部屋に泊まることとなっていた。

「…なあ、本当に大丈夫か?」
「何がですか?」
「何がですかって……出会って間もない男と泊まるんだぞ?」
「ああ。私は平気ですが、もしサボさんが嫌でしたら、私今すぐにでも下のリビングのソファに…」
「嫌、無理だ。さっき見に行ったけどあのソファ、あの犬の夜のベッドらしくてな、いくらどかしても唸って怒るし、犬の癖に爪立てて離れようとしねえんだ。多分あれを退かすのは骨が折れる。」
「あはは、やっぱりそうですか。」

お婆さんの飼っている雄のラブラドールのフレディ(正式名称フレデリック)はいつもはおとなしくとても賢い温厚な犬なのだが、なにしろあのソファは彼の夜のベッドとして彼自身も大事にしており、私が初めて出会った当初からその様子は知っていた。とはいえ、このような事態では致し方がないだろう。骨が折れようとも、同じ部屋で男女を共にするよりかはマシである。

「…分かった、もういい。ベッドはりんごが使え。俺はこのソファで寝る。背丈ちょうどだし問題ねえよな?」
「先ほども申した通り、それは駄目です。」
「なんでだよ…。」
「だって、私はもうここに何度も来てますが、初めてのお客さんをソファで寝かすなんてダメですよ。私がソファで横になりますから、どうぞ、ベッドはサボさんが使ってください。」
「お前見かけによらず頑固だな。」

ぽりぽりと頬を掻いてカップをソーサーに戻すと彼は参ったといった風に深くソファに腰を落とした。紅茶はほんのり甘酸っぱい味のするラズベリーティーだった。お婆さんのラズベリーティーは以前来た際も良く飲んだし、とてもお気に入りであった。サボさんは一息つくと何か思い立ったのかすっと立ち上がり、何かいいたそうにもごもごと呟くと、部屋を散策し始めた。この部屋は客用の宿泊部屋としては以上に広い。と言うのも、もともとここはおばあさんが若いころにはピアノのお稽古教室として使っていたのである。昔は二台もグランドピアノが置いてあって、連弾も出来たというから、広くて当然である。彼は鏡台やテーブル、壁に掛けられたラベンダーのドライフラワーを順番に見て回って、そして本棚にたどり着くとその中の一冊の本を手に取った。そしてぺらぺらと捲るうちに険しい表情を浮かべながら、ピアノの椅子に腰を掛けた。

「目が痛くなるな…。ピアノ弾ける奴はこれをいつも弾いてるんだろう。」
「ふふ、流石に毎日じゃありませんよ。見せてもらえますか?」

そう言って私が立ち上がり近づくと、彼はその楽譜を手渡した。背表紙を検めればそこには見慣れた文字の羅列が見えた。思わず彼と目を合わせて笑えば、彼は首を傾げてこちらを見た。

「サボさん何故この楽譜を選んだんですか?」
「ん?適当に取ったんだ。知ってるのか?」
「ええ。よーく、知ってますよ。そしてあなたも知ってるはずですよ。」
「俺も?」
「ええ。あのお屋敷の持ち主で、“雨だれ”の作者の楽譜ですから。」
「まじか。すっげえ無意識だった。そう言うのってマジであるんだな…」
「ふふ。でも別段不思議じゃないかも。ほら、本棚の上段をよく見てください。」

そう言って本棚の上段部分を指させば、彼は目を凝らしそれを見た。そしてそれを見るうちに何かに気が付いたように思わずあ、と声を漏らした。

「全部違う楽譜かと思ったら、作者が同じなのか。」
「お婆さんはあの屋敷の持ち主である音楽家の子孫なんです。だから、その音楽家のピカノの専門だったそうですよ。もちろん、他の作者のピアノも弾きますが。」
「通りでな、だからあの婆さんが管理してたのか…。」
「種明かしをするとそうなります。」

そう言えば彼は合点がいったように頷いて、それからまた私の手の内にあった楽譜を手に取り捲り始めた。ぼうっと灯るランプが彼の美しい金髪を照らし、うっすらと透かした。彼のがっちりとした肩や高い鼻の形がくっりとした影が影に映っている。窓の外では依然としてしとしとと雨が降っていて、窓の傍にある楠木の葉から始終滑り落ち、夜風が窓を揺らした。

「なあ、何か弾いてくれないか。こんなに静かな夜で少し参ってるんだ。」
「あら、意外と繊細なんですね。」
「意外とは心外だな。軍人と言ったって、俺はすごく繊細な参謀なんだ。」
「左様ですか。ああ、そういえば、サボさんも同僚の方にご連絡したんですか?今頃心配してるんじゃないかしら。」
「…ああ。心配するな。俺はあの後した。」

彼はそう言ってすぐさま椅子から立ち上がると今度は私を座らせ、そして慣れぬ手つきで目の前のピアノの蓋を開けると、楽譜を立て掛けた。そして掛けられていたカバーを取り外し、どうぞ、と言わんばかりに私を見て紳士的に手で鍵盤を指示した。

「…夜ですから。」
「ここは防音だと婆さんから聞いたんだ。」
「…左様ですか。」

彼の言うとおり、ここはもともと音楽教室であり、窓を開けない限り、音はもれないし、その肝心の窓も二重構造である。致し方がなく、とりあえず目の前の楽譜を手に取ると、ぺらぺらめくりだした。

「夜に合うような曲がいいな。」

捲っていくうちに突然耳元で低いテノールが聞こえて思わず心臓が跳ねたが、すぐさま自分の顔の横で彼もいっしょに楽譜を改めているのだということが横目で見て分かったのでできるだけ平静を保ってええ、そうですね、という適当な返事を返す。自分と同じ淡い香りがするのは、彼と同じ浴槽で入浴したからであろう。色々考えているうちに、そう言えば私は本当に彼とこれから一日ないし数日は過ごさねばならないんだということを今更ながら痛感して、彼の言うとおり、私の認識が少し甘かったのかもしれないということをぼんやり思って少しだけ心の内で反省した。

「…では、ノクターン(夜想曲)にしましょか。なかなかパーティーで引くような曲でもないんですが、こういう静かな夜にはすごく会う曲です。」
「いいな。弾いてくれ。」

彼はそういって笑うと、鏡台の椅子を引っ張ってきてそれに腰を下ろした。それを確認すると、あのサロンの時と同じく、指の運動からピアノの調律具合を確かめる。流石におばあさんのお手入れがなされているだけあって、何の不足もなく、あのサロンのピアノよりも年季が入っているうえ使い込まれているのに、不思議てこちらの方が弾き心地が段違いに良かった。譜面を合わせ、両の手先を触れるだけ鍵盤に置き、スリッパを履いた足をペダルに置く。息を吸い込んで吐き出して、それからいつものように指を鍵盤に沈めた。


2016.02.23.
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