午後五時を過ぎても雨は降り止む様子はなかった。おばあさんが入れてくれた温かいお茶を飲みながら、バチバチと静かに燃え上がる暖炉の前で冷えた指先を温めた。おばあさんは自分も紅茶を飲みながら、老眼鏡をかけて椅子に座り、膝の上に老いた猫を乗せ、足元には黒のラブラドール犬がのんびりねそべっていた。おばあさんの特等席はいつも暖炉の前のロッキングチェアーで、夜になると夜な夜な編み物をしたりお裁縫をしたりするのだ。広く年季の入ったリビングはよく使いこまれて、よく手入れがなされていた。大きなソファの隣に座るサボさんはテーブルの前に出されたおばあさん特製のシフォンケーキを頬張りながら、棚の上に乗ったさまざまな人形たちやたくさんの写真を眺めていた。

「婆さん、本当の魔女みたいな部屋だな。人形だらけだ。」
「はっはっはっ、私の趣味なんだよ。」
「そういえば、おじいさんはお元気ですか?」
「ああ。今は息子と町に行ってるけえ。羊の毛を売りに行ったのさ。しっかしこんな雨だけえ、帰りは遅くなるだろうよォ。」

おばあさんはおじいさんと末っ子の三人暮らしで、以前も三人にはお会いしていた。その話を聞いていたサボさんはテーブルに置かれたくるみ割り人形に興味深げに触れながら、おばあさんに口を開いた。口の端にシフォンケーキのクリームをつけながら。

「そういやあここ牧場なんだよな。何が居るんだ?」
「何でもおるけえ。羊、牛、馬、鳥。もう少し先に住んでる息子夫婦はブドウ畑さやってる。だからここには腐るほど酒があるんだべ。なんなら、兄ちゃんものんでけ。」
「いいのか?」
「いいも何も、こんな雨だ帰れねえべ。飯食って止まってけろ。」
「確かに、そうだな…」

そう言ってサボさんは窓の外を眺めると、今度は私を見た。

「…どうする?俺はどっちでもいいぞ。」
「……どうしましょう。」

思わず首をひねる私を見て、サボさんもうーんと顎に手を当てて考えた後、思いついたようにおばあさんに話しかけた。

「なあ、婆さん、でんでん虫ねえか?」
「あるべ、あすこさ。」

そう言っておばあさんはよいしょと立ち上がった。作りかけの編み物を傍の手芸箱の上に置き、膝の猫はにゃあと一声鳴いて退き、犬は飼い主を見上げて耳を立てた。おばあさんはのんびり歩いてリビングを後にし、それから間もなく手にぐうぐう眠るでんでんむしを乗せて戻ってきた。サボさんは感謝を述べると、それをずいっと私に渡した。

「これで連絡するんだ。この分だとパーティーは間に合うだろうが、ミサには遅れるだろう?代役はいないのか?」
「ええ。もちろん代役の者はいます。…でも本当に今日はここでお世話になっていいのかしら?」

そう言っておばあさんを見たが、おばあさんは新しい紅茶を空になったサボさんのティーカップに注ぎながらニコニコ笑っていた。

「当たり前だべ、この間も泊まっていったろう」
「去年までは私見習いピアニストだったから、時間は有り余ってたので。」
「プロもたまには息抜きが必要だべ。」
「その通りだ。出港の日まで休むのはどうだ?でんでんむしあるしお互いなんかあれば電話とれるだろう?」

おばあさんに同調したのは隣にいるサボさんだった。サボさんはどうやらこの牧場が気になるらしく、滞在を希望しているらしい。確かにここは食べ物もおいしいし何しろワインは飲み放題だ。久しぶりに来たこともあり、私も出来れば少々晴れた頃合いを見計らって、久々にここをのんびり散策したいと思っていた。もし時間があればのことであったが。暫く唸っていたが、代役の女性の腕も素晴らしいものがあると分かっている。別段一日二日、演奏を変わってもらったところで問題はない。演奏の方は。

「…では、連絡してみます。少し席を外しますね。」
「ああ。」
「おばあさん、お借りします。」
「ああ、ごゆっくり。」

サボさんの手からでんでん虫を受け取ると、廊下のある方の扉へと歩いて行った。



▼▼▼




「…なあ、婆さん。」
「何だ。」
「りんごとは親しいのか?」
「まあなァ、そーんな会わんけど、ええ子だねえ。いつも来るわけじゃねえべが、手紙くれたりして結構まめな娘っこだべ。」

ゆらゆらと揺れる暖炉の日と同じく婆さんの乗っているロッキングチェアも揺れた。猫は婆さんの膝で泣く、今度は俺の膝でふてぶてしく眠り始めた。猫の瀬を撫でながら、視線を暖炉に向け口を開いた。

「りんごは本当にピアノがうまいんだな。俺は音楽に疎くてよく解らねえが、本当にすごいと思うよ。婆さんは音楽やるのか?」
「昔はな。これでもピアノの教師をしてたんだよ。」
「婆さんがか?」
「そうだべ。だからあの子が弾いてンのがすぐわかったべ、あすこにいったべ。」
「なるほどなあ。」

ワンホールもあったシフォンケーキは既に姿をけし、目の前には空の皿となみなみ注がれた紅茶がティーカップから湯気を出していた。素朴だがとても香りのいい紅茶の香りが部屋に満ちていた。窓を打つ雨の音と火の弾ける音が耳に響いた。ちらりともう一度婆さんを見れば先ほどと寸分たがわぬ様子で編み物をしていた。

「…なあ、婆さん。」
「何だ。」
「りんごは昔っからああいう風なのか?」
「何がだ?」
「昔から何か隠し事をするような娘なのか?」

俺がそう言えば婆さんは一瞬だけその忙しなく動かしていた骨と皮の手を止め、それから老眼鏡をずらして俺を見た。目が合うと婆さんは此方を見ながらにっこり笑って白い歯を見せた。あの音楽家の屋敷で初めて見た婆さんの笑顔と同じ笑顔だった。婆さんの犬は寝たまましっぽをぱたりと一階だけ上にあげてそれから下げた。婆さんはそれからまた視線を手の内にある編み物に集中させ、口を開いた。とてもゆっくりとした動作に見えた。

「りんごもいい年した娘っこだべ、秘密の一つや二つあって当たり前だろう。」
「…そう言うもんかァ?そんな呑気なもんに見えねえけどな。」
「呑気だろうがなかろうが、大なり小なりあるんだべ。だから本人に詮索何かすんでねえよ?本人が言いてえ時にだまーって聞いときゃあアンタ、嫌われることはねえんだがら。」
「そう言うものか。女も面倒なんだな。」
「んだ。分かったら、余計な真似すんなよ。りんごに好かれてえってんならな。」
「そりゃあ俺だってプライバシーは守りたいが、“仕事”に支障が出るなら立場上ほっとけは置けねえし…まあ、正直言えば個人的にも気になってるが」
「心配すんでねえよ。アンタに惚れてりゃあ嫌でも話すべ。女はそう言うもんだ。」
「………。」
「まあ惚れられてねえなら喋れねえかもだけどな。」
「ババァ…」

俺が恨めしそうに婆さんを睨めば肝心の婆さんは「ひ ひ ひ ひ ひ」という独特の日記笑いを見せた。「アンタに惚れてたら嫌でも話すべ。」という婆さんの言葉が嫌に心に残って頭から離れない。正直驚いたというか、がっかりしたような感情が自分の中で渦巻いていた。婆さんから見れば、男女二人、しかも自分のお気に入りだという場所に連れて来た男性を、傍から見れば恋人に見られても可笑しくないとは思うのだが、婆さんは俺たちが恋人でないことを最初から知っているような感じなのが実に気に入らないのである。かといって別段そう見られようと努めたわけでもないが、でも少しくらい勘違いしても可笑しくはないはずだ。それともそう勘づくほどに俺たちはよそよそしかったのだろうか。確かに出会って一日二日の男女でなのだ、不思議ではないだろう。でも、少しくらい恋人のように見えても…そこまで思案して思わずはっとした。これではまるで恋人と思われることを自分が望んでいるようではないか。そう思った途端、タイミング悪く今朝のコアラのやり取りを思い出して思わずため息を吐いてしまった。

「…疲れちゃいました?」
「あ、いや…そうだな。少し腹も膨れて眠くなったみたいだ。」

偶然横から澄んだ声がしたかと思えば、そこには婆さんとは違って若々しく美しい女性がでんでんむしを持ったまま、ソファに掛けるこちらを見下ろしていた。慌ててだらしなくソファの背もたれにもたれていた背を正し、隣に勧めれば彼女はありがとうございます、と一言言って腰を落とした。

「どうだった?」
「ええ。何とかなりそうです。たまには休みなさいと言われました。」
「ああ、俺もそうした方がいいと思う。俺があの船に乗る前からずっと弾いていたんだろう?」
「ええ。でも一月ぐらいですから。」
「一月じゃなかなかの長丁場だぞ。体を壊す前に少し休んだ方がいい。」
「そうですね…いいですか?」

そう言ってりんごが婆さんの方を見れば、婆さんはにっこり笑って頷いた。

「んだ。好きにここにいてけろ。」
「ありがとうございます。お世話になります。」
「兄ちゃんは少してつだってけろ。今は農場が繁忙期だべ。男手が足りないんよ。ここに居る間でいいから、父ちゃん達をてつだってけろ。今日は雨だが、明日明後日は晴れるべ。」
「俺は働かせるのかよ。しょうがねえなァ。ま、俺も男だ、婆さんに力仕事はさせられねえし、やろう。働かざる者食うべからずだ。」
「私もお手伝いします。」
「無理するな、せっかくの休みなんだから休んでろよ。」
「ううん、私好きなんです、馬の世話や牛のお世話するの。蜂蜜や山の実を取るのも得意だし…」
「そうか。じゃあ、一緒にやるか。」

そう言ってりんごに笑いかければりんごもこくんと頷いて笑った。よく解らないが、何か面白そうなことが始まるような予感がして、クリスマス前の子供のように何もないのに口角が上がって、不思議と胸が規則正しく滴る雨だれのように高鳴った。


2016.02.21.
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