途切れなく続く伴奏はまるで絶え間なく降り続ける小雨が、だんだんと強く、そして時には大粒の雨が降る様であった。美しい旋律の中にそこはかとなく底流に流れる寂しさと、地面に落ちると同時に滲み消えていく雨の儚い様子が重なるようであった。途中の激しく肌を打つような雨音は悲壮感を感じさせるし、まるで子供の頃の憧憬を見ているような気がした。終末に差し掛かると、だんだんと小さく消えていき、明るい日差しが雲間から差し込んで天使のはしごを作る様な曲の終末に、気が付けば自然と瞼を閉じてそれらの想像をしていた。最後の美しい幕引きに救われたような、軽やかな心地がした。暫く黙ったまま瞼を閉じて余韻に浸りつつ、何をどう言葉にすればいいか分からぬまま、静かに呼吸を繰り返していた。ピアノの美しい音の珠がサロンに澱みなく反響し、まるで自分たち以外の世界は時間さえも止まってしまったかのようだった。不思議と先ほどから聞こえていた雨の音も、鳥たちの声も、小川のせせらぎも耳に届いてこなかった。ただこのピアノの音だけが、二人の世界で唯一無二の者として存在していた。目の前の彼女はふう、と小さく息を吐き、そして視線をゆっくりとあげて自分を見た。

「24の前奏曲、作品28、第15番、変二長調です。」
「…随分味気ない名前なんだな。」
「ふふ、通称は“雨だれ”です。」
「雨だれ」
「そうです。でもこれは作者本人が付けた名前ではありません。作者自身はマズルカとか、ワルツだとかいう一般名称しか基本的につけない人だったので。」
「いい曲だな。本当に雨を一粒一粒表現したみたいな曲だった。本当にいい曲だったよ。」

ありがとう、そう言って帽子を手に取り頭を下げれば彼女は起立して恭しく礼をした。超売れっ子のピアニストがするような得意げな表情を浮かべ、まるでコンサート会場でたくさんの観客に向けてするかのようなしぐさに思わずお互い笑ってしまった。

「実はこれ、私が一番好きな曲なんです。同じ音楽仲間は寂しい曲だって言いますけれど、確かに寂しいけれど、寂しいだけじゃない。優しい曲だし、中盤はすごく心細くなるけれどそこもドラマティックで素敵だし。最後は雨が晴れていくような感じがして、好きなんです。」
「俺もりんごのおかげでこの曲が好きになった。雨だれか…ぴったりな曲名だと思う。」

彼女は嬉しそうに良かった、と一言言うとにっこり笑って腕を伸ばした。そして首を上にして、あ、と一言漏らした。

「だんだん暗くなってきましたね…」
「雨だから余計な。まだ三時半過ぎたくらい何だがな。確かに随分この辺は暗いらしい。」

ガラス張りのサロンの向こう側に映る午後三時過ぎの世界は想像以上に暗くなっていた。雨は相変わらず小雨だが、分厚い灰色は一向になくなる様子は見せない。脱いだ帽子を被り直し、自分のコートを脱ぎ、足元に置いておいた荷物を手に取ると、ピアノを片付け始めていた彼女に声を掛けた。

「もうこの分だと止みそうにないが、そう強くない雨だ。駅まで急げば大丈夫だろう。」
「そうですね。駅前のお土産屋さんにワインとか売ってますし、お土産は心配いりませんよ。」

名残惜しいがサロンを後にし、玄関へと急ぐ。静かに降り続ける小雨が見える大きな窓の並んだ廊下を抜け、最初に見たエントランスが見えてきた。そうこうしているうちにごろごろと空がうなり始めたのが聞こえて、二人して顔を見合ってそれから自然と足早になった。

「ああ、そうだ。風邪を引いたら困るだろう?これを羽織ってくれ。」

そう言って持っていたコートを晒されていた肩に掛けてやれば、りんごは驚いたように彼女の手に掛けた俺の手に触れた。

「いえ、大丈夫ですから。」
「気にするな。俺はひいても寝ればいい話だが、りんごは明日からまた朝夜でピアノを弾かなきゃだろう?」
「それはそうですが…。」
「だからいいんだよ。気にするな。」
「……すみません、きちんとお手入れしてお返しします。」

渋渋、と言ったような表情を浮かべてりんごは俺のコートを羽織るとそのまま共に玄関の大きな扉に手を掛けようとしたその刹那、がちゃりと扉が突然開いたかと思えば、同時に今日で一番の落雷が近くに落ちたらしく、激しい轟と共に開かれたドアの向こうの世界がピカリと光った。雷鳴に驚いてそばのりんごは小さく息を飲みそして後ずさりしたが、俺はそのまま外の様子を凝視する。すると、未だ轟く雷鳴を背景に黒ずくめの小さな生き物が自分たちの目の前に立ちはだかり、そのぎょろりとした視線を自分に向けていた。思わずぎょっとし、取り敢えず何者かと注視しつつさりげなくりんごを自分の背に隠しながらそれを見ていたが、その黒い塊に気がついたらしいりんごは今度はその物体に対するもっとはっきりとした悲鳴を上げた。

「ひいいっ!」
「な、なんだ…」

大の大人二人が狼狽える対象の黒い物体は、その白い歯をにっこりと見せて笑うと、その黒いベールをとると、その黒い物体はずいずいと室内に入ってきた。

「おっ…おばさん?」
「え、知ってるのか?」

思わずとなりを見てそういえば、りんごは先程とは打って変わって、目の前の小さな物体に思わずゆっくり近づいた。そして目の前の人物も目を細めて笑うと今度はくっきりと欠けた歯が分かるくらいの笑みを見せた。

「ピアノの音がしたっけな、もしかすたらと思って来てみたば、やっぱりあんたか。」
「はい、久しぶりに参りました。」
「いんやぁ、もう半年前かねえ、最後にあんたに会うたのは。」
「ええ。」

目の前の小さな婆さんは、先ほどとは打って変わって気さくな笑顔を向けて離すと、りんごの手を取って嬉しそうに口を開いた。そう、黒い小さな物体は謎の婆さんであった。婆さんと彼女は知り合いらしい。婆さんは黒いコートを脱ぐと、改めて俺に挨拶をし、深々と頭を下げたので、俺も被っていた帽子を脱いでそれに応じた。

「突然すみません、このおばあさんは先ほど話したこの屋敷の管理人さんなんです。」
「なるほど。でも、とんでもない登場だったな。」

おれがそう言って笑えば、婆さんは愉快そうにひきつったような笑いを見せた。

「何だい、魔女でも来たかと思ったかい?」
「はは、確かにそのなりじゃ魔女に間違われても仕方がないな。随分小ぶりな魔女だが。」
「御嬢さんのピアノが聞こえたからね、雨の中でも急いできたもんでな。もう帰るのけ?用事でもあるのけ?」
「ええ。でも用事はないわ。」
「ん、だったらこんな雨じゃけえ、私の家に来て紅茶でも飲んでいきな。笠がここにあるべ。」

そう言って婆さんは懐から折り畳み傘を出すと、そのまま再びフードをかぶってこちらの返事も訊かずにすたすた玄関を出てしまった。完全に婆さんのペースである。隣にたたずむりんごはあきれたような嬉しそうな笑い声を漏らすと、こちらを見て声を掛けた。

「せっかくですし、行きませんか?おばあさんのお家も素敵なんですよ。牧場をやっているので楽しいですし。」
「そうなのか。じゃあ、どうせ暇だしお言葉に甘えるか。」
「良かった。おばあさんが作る紅茶美味しいんです。きっと気に入りますよ。」

そう言って互いに頷くと、傘をさしてお互い肩を寄せ合いそれに入ると、もうずいぶん先に行ってしまった小さな黒い背中を追って雨の中を歩いて行った。


2016.02.20.
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