進めば進むほど人も建物もまばらとなり、気が付けば随分遠くに来た気がする。前回も同じ時期に来たが、毎回来るたびに自然と感動が押し寄せてくるのでとても不思議だった。窓から見える景色はやがて古臭い石の壁や煉瓦の崩れた家や城が点在し、その周りはひたすら田園と果樹園が広がっていた。目の前に座る男性は窓の景色を見ながら、先ほど車内販売のおばちゃんから買ったプレッチェルを頬張っていた。彼は私にはキャンディーを奢ってくれた。子供の頃によく食べたキャンディーで静かに舌の上に転がしながらその甘酸っぱさに少しだけ懐かしさのあまり思わず目の奥が熱くなった。きっと窓の外の景色の美しさが私の感傷を強くさせたのだろう。彼はそんな私の心境を知ってか知らずか、目が合うとほっぺたを大きく膨らせたまま黙って笑った。




▼▼▼




「町とは偉く違う場所だな。いいところだ。」

うーん、と伸びをすると彼は私が案内するまでもなく小川に掛かる小さな橋を渡ってすたすたと目の前の屋敷へと赴いた。煉瓦の壁にはびっしりと蔦が這い、庭には古めかしい上半身裸の美女の銅像が水瓶から水を流していた。庭は手入れをしているの貸していないのかわからぬほどに草木で溢れていたが、きたないというよりもより周りの自然とそれはそれで調和が取れていた。玄関の階段の傍にある花壇にはラナンキュラスが植えられている。小川が傍にあるのでここはいつも幽かなせせらぎが聞こえるのだ。小鳥たちの声も耳に届くし、時折鹿が鳴く声も耳を澄ませれば聞こえた。傍には林があり、森も近いので野生の動物たちが現れるのも珍しくなかった。

「これ勝手に入っていいのか?」
「ええ。いつも解放されているんです。管理しているのは隣に住んでいらっしゃる老夫婦で、あとで帰るときにでも挨拶をしましょう。」

手に持っていた紙袋を彼に示してみせれば彼は頷いて中へ入って行った。紙袋の中には先ほど町を出るときに買った紅茶の缶が入っている。もう三度目の来訪で、管理人の老夫婦とは顔なじみであるので挨拶の品をあらかじめ買っておいたのだ。

「あとでワインも見に行こう。あの駅近くの城みたいなところだろ、売ってるのは?」
「ええ。この辺ではお城の地下でワインをつくっていたんですって。」
「地下か。悪人なんかを閉じこめるよりは随分な有効活用だ。」

広い玄関ホールを歩いて、リビングに入って行く。ここは一応文化財として認定されている場だが、いつ来ても自分以外の観光客はいないのだ。だからこそじっくり時間を過ごせるのだが。

「遺品は当時のままだそうです。」
「触っていいのか?」
「ロープが張ってある場所以外は大丈夫です。サボさん手袋していますし。」

そう言えば彼は傍に会った棚に並ぶ可愛らしい兎や鹿の置物をなでた。木彫りの隈や、複雑な伝統工芸品、ガラスの置物など多種多様な芸術品が置かれたリビングを一通り見て回る。キッチンは此処から見えるが関係者以外入れない。豪華なカーテンの張られたリビングの窓からは庭の様子がよく見えた。サボさんは座り心地の良さそうなソファに腰を掛けると、足を投げ出してぐてんと大胆に四肢を投げ出し、私と目が合うなりドヤ顔をしたので思わず笑った。

「似合いますよ、ここの趣味とサボさん。」
「高級感あふれてるだろう?」
「ええ、本当に。」

二階へと向かう途中、階段の壁に飾られた絵画の数々にサボさんは暫く視線を集中させていた。油絵が中心で、写実的な作品や印象派のような作品があったり、大きなものから小さなものまで所狭しと並んでいた。踊り場の一番中央にある絵画を指さして彼の名前を飛べば、サボさんはすんなりとこちらに来てくれた。

「これがその音楽家の自画像です。」
「へえ。随分小難しそうなおっさんだな。」
「ええ。確かにそうですね。何度も神経衰弱になったり病気がちだったりの人ですから。でも、病に負けず作品は書き続けた精神はとても屈強な人だと思います。」

私がそう言えば彼はそうか、と一言静かにそう言って暫くはその自画像とにらめっこをしていたが、「俺とはあまり気が合いそうなタイプじゃなさそうだ」と一言言うと笑って再び階段を上り始めた。階段を抜ければ寝室が二つに書斎、そしてバスルームや開け放たれた窓の向こうには広く大きなベランダが見えた。病弱であった音楽家は出来るだけ自身ににストレスを受けないようにとできるだけ自分の好きなものを集めた屋敷である。壁紙や階段の手すりに至るまで細やかな装飾が施されており、退屈なようで見ごたえのある屋敷なのだ。一通り眺めて彼は随分興味深げに見ていたが、ふと気が付いたように私に尋ねた。

「そういえば、ピアノはないのか?」
「もちろんありますよ。実はリビングとは真反対に温室のような場所があって、そこにあるんです。」
「一階か。」
「ええ。最後に取っておこうと思って。私が一番好きな部屋なので、最後に見てもらおうと思ったんです。」
「じゃあ行くか。」

彼に言われて足を動かした刹那、ごろごろ、という鈍い音が聞こえた気がして思わず二人して開け放たれた窓の外を見た。気が付けば木々の隙間から見える空は曇天で、今にも泣きだしそうである。そして、降るかもな、と思った瞬間、ぽつりぽつりと透明な水滴が静かに空から流れ始めた。思わず彼と視線を合わせる。

「どうしましょう…今なら走ればすぐ駅に付きますが……」
「いや、多分通り雨だろう。せっかくだ、もう少し見て回ろう。」
「いいんですか?」
「ああ。りんごが一番見せたかった場所が残ってるんだろう?」
「…ええ。」

サボさんは私を気遣うようにそう言って階段をゆっくり下って行った。私もとりあえずバルコニーの窓を閉めると、それに従い階段を下りていく。視界の端にはぽつぽつと窓に打ち付ける無色の無数の雫が見えた。まるでこの音楽家が手掛けた楽章のような世界と時の流れに少しだけ息を呑んだ。






「あれ、白いところと黒いところが反対じゃないか?これ。」

彼はそう言ってサロンの一番奥にあったグランドピアノに興味を示した。草木が植えてある温室は吹き抜けで、まるでガラスの箱の中に入ったかのような解放感がある。雨が空落ちて硝子を伝って滴る様子が幻想的であった。温かいがきちんと湿度と温度が考慮されている点を見ると、流石音楽家の屋敷であると言える。広いサロンには大小のピアノが三台置かれ、一番奥にある黒鍵と白鍵が逆転したピアノは一番大きく、展示用なのか周りには大きな壺や銅像が置かれていた。さっそく反応を示してくれたことに嬉しく思いながら、彼の傍によると指で指示しながら口を開いた。

「これは古い時代のピアノなんですよ。昔のピアノは黒白逆だったんです。」
「へーえ。」
「ピアノの原型が生まれる頃はシャープキーは黒、ナチュラルキーは白と、実は現代と変わらぬ配色だったんですが、それがいつの間にか黒白が逆転して、また時がたつにつれて原型と同じ形に戻ったんです。だから正確に言えば中期のピアノなんですが、今では当時のピアノは本当に珍しくて、だからこれは観賞用なんだと思います。」

ロープを揺らしてみせれば彼はなるほど、と頷いた。

「ピアノにもいろいろあるんだな。初めて見た。これは弾けないんだよな?」
「ええ。観賞用ですから。恐らく調律は今でもやっているでしょうが…」
「弾けるピアノはないのか?お、あそこのステージのピアノはどうだ?でけえし。」
「ああ、あれは流石に駄目ですね。一応本当に使用していた者ですから。…ですが、あの大きな白のグランドピアノの隣にある、あの小さなピアノでしたら大丈夫です。」
「あれか。」
「ええ。月に一度、こちらで音楽家たちが集まってコンサートを開くそうですが、その際に使われるピアノです。初めてこちらに来たときたまたまコンサートの日で、見れたんですよ。すごく楽しかった。」
「なあ、あれでいいから弾いてくれないか?」
「リクエストですね。」
「頼んでもいいか?」
「もちろん。あなた一人の為“だけに”に弾きましょう。」
「はは、贅沢だな。」

ステージの上のグランドピアノの周りには大型のハープが置かれ、その傍に小ぶりのピアノが置かれている。そこに赴いて椅子を引くと、調節をし、それから探る様に閉じられた鍵盤蓋を上げると、ビロードのカバーを取り外して上に置いた。指の運動を行い、調律がなされているかを念入りに確認し、確認をし終えるとゆっくりと彼を見た。ピアノに肘を置いてこちらを覗くように私を見下げてにっこり笑むと、暫く考えるように顎に手を添えた。

「…しまったな、リクエストをするのはいいが、曲が分からねえ。」
「もし思い浮かばないのでしたら、イメージでも結構ですよ。楽しくて激しい曲とか、静かで悲しい曲とか、朝焼けを感じさせる曲や、子供の頃の記憶を思い出すようななつかしい曲ですとか…」
「なるほど。そうだな…。」

彼はそう言ってゆっくりと私から視線を外すと、暫く静かに考え込んだ。音の消えたサロンは静寂がつつみ、自然と無数の小さな雨音が聞こえてくる。彼はゆっくりと上を向くと、露わになったガラスの天井を見た。灰色の空からは静かに雨が降りそいで私たちの頭上で音を奏でているようであった。彼と初めて目があった、あの華やかな夜の静かな小雨のようである。

「……小雨の曲とかはどうだ。静かに降って、花に滑っていく感じの。」
「私もそう言った曲がいいと思っていました。」

笑ってそう言えば彼は私を見据えて頷いた。直後、自然と手が動きだし、足はそのままペダルを踏み込んだ。そして息を吸い込むと同時に静かに瞼を閉じた。


2016.02.18.
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