彼女と初めて目があったのは、小雨のしとしとと降る静かな夜だったと記憶している。華やかで見せかけの幸福と充足で満ちた張りぼてのような絢爛さの中で、彼女はその大きな瞳で雑踏の中、確かに俺のことをしっかりと見据えていて、暫くは目を離さすことさえもためらわれるようだった。彼女は自分よりも歳の離れた男女に囲まれて、酷く楽しそうに笑っていたのがとても印象的だった。


▼▼▼



「驚いたな、こんなお嬢さんでも煙草を吸うのか?」

思わずそう問いかければ、目の前の女性は少しだけ驚いたようにこちらを見た。耳に飾られたイヤリングが揺れる。年は自分よりも年下と見えていたが、そうではないのかもしれない。彼女はしばらく俺をじっと見た後、肩をすくめて苦笑いを見せると、くわえていた葉巻にいよいよ火をつけた。とても高級そうな葉巻で、彼女のその小さな口には少々不釣り合いであった。そしてそのまま器用に煙草を味わうのかと思いきや、ものの数秒でげほげほと言い出したので、思わず駆け寄って彼女の背中をさすった。そうすれば彼女は手を上げて大丈夫だというとこちらを見て再び苦笑いを見せた。

「大丈夫か?」
「ええ、大丈夫です、ありがとう。でも、慣れないものをすることじゃありませんね。」
「なんだ、吸ったことないのか?」
「ええ。さっき子爵の奥さまから演奏のお礼に頂いたものだったんですが、喫煙者じゃないこと言えなくて。ためしに一本吸おうと思ったんですが、やっぱり駄目でした。」

そう言って彼女は笑うと、咥えていた葉巻を手に持った。幽かに彼女の口紅がついている。船の室内の明かりで辛うじて近場の状況は確認できたが、海の方は完全に暗黒が支配をしていた。パーティーホールのむせ返るような、人口密度の高さと様々な香水やたばこの放つ匂いに耐えかね、腹も十分パーティの御馳走で満たされたことだし甲板に出ようかと思案をしていた矢先、目の前の女性がホールを抜けていくのを視界の端に捕えた。聞こえは悪いが彼女の後をつけてきたのだ。もちろん気が付かれないように。案の定、彼女は俺の存在に気が付かず、甲板に着くなり傍のベンチに腰を下ろして、先ほどド派手な水色のアイシャドウをしたマダムに手渡された箱を開けると、中のそれを取り出して口にくわえ、今に至る。あたかも偶然を装って出てきたのだが、最初から一部始終を目撃していたのだった。ストーカーのようで申し訳ないとは思っているが、別にそのような変態行動をしてるわけではなかった。何となくだが彼女のその雰囲気が一番自分と馴染みやすいような気がしたのだ。初対面だというのに、まるで旧友に会うかのような不思議な感覚だった。きっと夜のこの豪華客船のどこか浮世離れした空気が、そう感じさせたのかもしれない。

「よかったらこれどうです?一本試しに。」
「じゃ、お言葉に甘えようかな。」

別段煙草を日頃吸う方ではなかったが、彼女の計らいに少なからず応えようと差し出された新しい葉巻を手に取ると、彼女が差し出したマッチで火をつける。普段煙草を吸わないが、この葉巻がどれほど高級なものかは、その風味でよく解った。吸いこめば煙草とはまた違って肺に押し寄せる香りに少し眩暈のような快感を覚える。しかしそれほど
どぎつくはない。女性が吸うのを考慮して幽かにバニラのような甘い香りで整えているのだろう。ふう、と煙を吐き出せば隣の女性は小さく笑った。

「美味しいですか?」
「うまいと、思う。あんまり俺も吸う方じゃねえから分からないが、吸いやすい。女性用か?」
「これを下さった奥様が仰るにはね。一番吸いやすいんですって、これ。」
「通りで。幽かにバニラのにおいがするんだ。」

黒い空に白い紫煙が螺旋を描いて消えていく。彼女は葉巻の箱をベンチの自分の座る横に置くと、その細く小さな手で箱を撫でた。素朴だがどことなく繊細な線で描かれた蔦や月桂樹の模様が施された木箱は彼女にあっている気がした。

「私、貴方を数日前に遠目に見た気がするんです。ほら、二日前のパーティーの夜に。」
「奇遇だな。俺も一瞬だけど君と目があった気がしたんだ。覚えててくれたのか?」
「ええ。お気を悪くしたらごめんなさい、あなたのその顔の傷が印象に残ってて…」
「気にしないでくれ。これは、男の勲章みたいなものだ。」
「素敵ですね。私もそんなセリフをいつか言ってみたいわ。軍人さんかしら?」
「まあ、そんなところだな。」
「やっぱりね、そうだと思った。」

彼女はそう言って横に座る俺を見上げて小さく笑った。彼女が笑う時に細められる目や、笑窪がとても親しみやすく、可愛らしいと思った。女性らしい大きな瞳は同僚のコアラと同じように思えたが、彼女のまつ毛はまるでキリンや象のように豊かで長かった。

「軍人さんみたいに誇りある人にお会いできて光栄だわ。私、かつて女将軍にあこがれたことがあるんです。女神のような女性が勇敢に戦って、そして愛する人を助けるために命を落として、お花になるお話。」
「聞いたことあるな、絵本かなんかで読んだ記憶がある。でも、君は今でも十分誇り高いじゃないか。」
「え?」
「君のピアノは素晴らしかった。すまない、音楽には疎くてな、曲名も分からなければ安直な感想しか出ないが、素直に聞き入ったよ。」
「聞いててくれたの?あんな人が多くてがやがやしてたのに。」
「ああ、聞いてたさ。同僚も素敵だって聞き惚れていた。」

にっこり笑ってそう言えば彼女は気恥ずかしそうに小さく笑って、それから少しだけ視線を下に向けた。じりじりと燃えていく葉巻の幽かな音と、ごおごお風を切る様にゆったりと進む船の音、パーティーの喧騒が間遠に聞こえた。

「誇り高いなんて、勿体無いわ。私は只のしがないピアニストですから。これぐらいしか生きる手立てがないだけなの。パンを作るのに長けていたらパン屋さんだったし、ひよこの鑑定に長けていたらひよこ鑑定士だったわ。」
「ピアニストで正解だったな。ところで、君はどこかの御令嬢ではなかったのか?」
「いいえ。私はイーストブルーの孤児院の出身なんです。」
「…すまない、不躾な質問だったな。」
「いいえ。別段気にしてません。それに、私はすごく運がいい方です。結局私は貴族の方に拾われて、今は好きなピアノの修行をさせてもらっているんですから。修行の一環でこの船の上で定期的にピアノ演奏をしているんです。ソロでやったり、時には仲間の音楽家たちと四重奏や三重奏で。本当に好きにやらせてもらっているんです。」
「そうだったのか。」

夜の風に揺れる前髪を掻き揚げて彼女は頷いた。あれだけのピアノの演者でありながら、随分小さく子供のような手をしているのだなとぼんやり思った。この手があの鍵盤に一度触れた瞬間、力強く生命力に満ちた、そしてどこか物悲しい曲を奏でるのだと思うと少し不思議に思った。それ以上に、随分生まれも育ちもよさそうな見てくれだというのに、孤児院出身と言う事実も少々現実味に欠けているように思われた。人は見かけによらぬものだなと思いながら、じりじりと小さくなる葉巻を唇から離し、それから息を吐いた。

「あなたはどうしてこの船に?」
「俺か?」
「ええ。また失礼なこと言っちゃうかもだけど、あの日見たパーティーに参加するあなたの様子が、あまり楽しそうに見えなかったから。」
「ああ、確かにあんまり好きじゃねえな。飯はうまいけど、なかなかあのごちゃごちゃした雰囲気が苦手なんだ。今回は仕事で仕方がなくって感じだな。色々あるんだ。」
「お付き合いとか?」
「ああ。そんなところだ。」
「軍人さんも大変なのね。」
「まあな。戦って帰って寝ればいいと言うわけでもないんだよ。一応俺は参謀だからな、やることが人よりも多くて困る。」
「参謀さんだったの。お若いのにすごいわ。」
「名ばかりで部下に色々まかせっきりのことが多いけどな。」

そう言って笑えば彼女もクスクス笑った。甲板には自分たちを含めて数えるほどしかおらず、皆酔いを醒ましたり煙草を吸ったり各々中央の華やかさと離れて落ち着いた自分だけの時間を過ごしていた。彼女は微かに後ろの柱にある木彫りの大きな時計を見ると、思い出したかのようにあ、と小さく声を上げた。時計はもうすぐで夜の十時を指そうとしている。

「ごめんなさい、そろそろ演奏の時間だわ。」
「すまなかった、君をとどめてしまって。間に合うか?」
「いいえ、気にしないで。どうせ調律は出来てあるし、後は私がピアノに向かうだけなの。」
「いつもこの時間だったけか?」
「基本は夜と、朝のミサの時間には教会のある二階でオルガンを弾きます。パーティーではお客様にリクエストがあればその都度弾くこともあります。あ、時間があったらぜひまた聞いてくださいね。リクエストもあなたとあなたのお連れ様なら喜んで受けますから。」
「ありがとう。連れにも伝えておくよ。きっと喜ぶ。今日は御馳走様。」

葉巻を手でつかんでそう言えば、そう言って恭しく礼をすると彼女は歩き出したので、思わず反射的に立ち上がった。

「俺はサボだ。」
「サボさん、素敵な夜をありがとう。私はりんごです。」

彼女は振り返ってそう言ってまたニコリと笑うと足早に去って行った。ベンチに一人残った自分は暫く彼女のその小さな背中を見送ったが、雑踏で見えなくなるのを確認するとすとん、とベンチに再び腰を下ろした。もう小さくなった葉巻を手でつかむと、ポーンと海に向かって投げた。小さくなった葉巻は音も立てずに闇の中に消えてしまった。ふと、彼女の消えた横を向けば、見慣れた木箱が置いてあったので、思わず手に取り、つけていた手袋を片方外して彼女のしたように、蔦の彫刻を指の腹で撫でた。次に彼女に会った時、何を話そうか、いつ会えるだろうか、と思案をしていたが、存外早く会えることになりそうだとおもうと、自然と口元が緩んだ。


2016.02.14.
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