「俺は、」

と、彼が何かを言いかけた直後、前方からけたたましい馬の鳴き声とともに激しい蹄を鳴らす音がして二人してそちらに視線を向ければ、視界には腰を下ろしてもだえる雌馬の様子が見えた。それを見たサボさんが慌てて立ち上がって、それから手袋をつけて駆け寄る。

「やべェ!もう足出てるじゃねえかって、おわッ!」

あんまり急いでいたせいか、彼は藁に滑って母馬のすぐ横で尻もちをついたが、母馬と目を合わせると、彼女を一撫でし、それから立ち上がっておじいさんの言った通りにお尻に回ると生まれてくる赤ちゃん馬の足をゆっくり慎重にひっぱった。慌てて転ばぬ様に私も駆け寄ると、柵を下にくぐり、それから母馬の腹をさすった。彼の言うとおり、間近で見れば赤ちゃん馬の薄い膜で覆われた足を確かめることが出来た。

「もう少し力めば出るんじゃねえか?」
「でもまだ前足が出てませんよ?」
「つうか本当にこれで引っ張っていいのか…?」

彼がそう言うのも無理はない。お互い馬のお産に立ち会うのがこれで初めてなのだ。お婆さんもお爺さんも大丈夫と言っていたが、これが普通なのか、異常なのか見極めができない。大の大人二人があたふたしている間にも母馬は唸りながらも着実に子供を生み出そうとしていて、幽かに赤ん坊の腹が見えてきたかと思えば次第に足が見え、それを見たサボさんは意を決したように母馬の呼吸を読み取って、母馬が息を吐いたと同時に一思いに仔馬を引っ張り出した。

「あっ」

思わず息を呑む暇もなく、目の前には薄い膜につつまれた赤ん坊の馬の姿が現れ、同時に母馬の尻からは血液と共に羊水が流れ出た。びしょ濡れであったが、分厚く敷いておいた干し草がクッションとなり、無事、子供は温かく柔らかな底に落ち着いたのであった。仔馬は微かに膜の中でうごめいていて、次第に穴をあけるとそのまま足を動かした。大仕事を終えたばかりの母馬はゆっくりと後ろを振り向くと、生まれ落ちたばかりの我が子を見て、鼻先を寄せ、早速膜を取る手伝いを始めた。仔馬がすぐに本能で立ち上がることは知っているが、まさかこれを目の当たりにするとは思いもよらなかった。ゆっくりとサボさんに視線を合わせれば、彼も驚いたように目を見開いていて、お互い何とも言い難い喜びと感動に浸っているのだということが分かった。

「…やりましたね。」
「ああ。にしても、こんなにあっさり生まれるとは思わなかった。」

彼の言うこともよく解った。流石に四匹目の出産ともなれば、我々よりもベテランの母馬である。恐れ入ると同時に思わず素直に尊敬のまなざしを向けた。サボさんはふう、と安堵のため息を吐くと、汚れてしまったゴム手袋を柵に預け、干し草のその場に腰を下ろした。私も同じく干し草のつまれた小さい山に腰を下ろすと、暫く仔馬の様子を観察した。赤ん坊馬はぶるぶる震えていたが、母馬が十分に体をなめとっていた。色はお姉さんになったユスティナと同様青色であったが、額には星型の白い斑が見えた。それがチャームポイントで、目は生まれたてて未だはっきりと見えないが恐らく母親に似て大きくまつ毛も、しっぽの毛も豊かであった。

「すごい、もう立ちますよ。」
「すげえ、大したもんだ。」

少しおぼつかず何度も転ぶさまを見ていて不憫で、手伝ってあげたい気持ちになるが、仔馬はそんなものは不要と言わんばかりに何度も何度も足を延ばして経とうとし、次第に足もがっちりと伸び、そうこうしているうちに母に凭れつつもついにはぶるぶる震えつつもぴしりと立ち上がった。それを見た瞬間、思わず二人して拍手をしてしまった。立ち上がった際に見えた盗み見て分かったが、どうやらこの子は男の子らしい。腕白そうで、立ち上がったかと思えばおぼつかないその足取りでもう干し草のをたどたどしく歩き回り、つい半刻前まで大人しく母親のお腹の中にいたとは思えぬほどの元気っぷりである。

「はー、良かった…。」
「一時はどうなるかと思ったが、ま、無事生まれたし、問題ねえな。」
「ええ。お母さんも元気そうですし。」

そうこう言っているうちに仔馬は気が付けば母馬の下に回り、早速お乳を飲んでいた。この分だと本当に問題なさそうである。隣の柵にいた家族たちも、安心したのかこちらの様子を伺いながらもうつらうつらしている様子であった。とりあえず草の上に放置された膜を早々と処理し(たまーに野犬や狼が来ることもあるというので念のため)、おばあちゃんにも一言生まれたことを報告すれば、ああ、そうかい、というさも当たり前の返事を頂戴したので、思わず隣にいた彼と目を合わせて小さく笑ってしまった。どうやら心配していたのは私たちだけだったらしい。

「…あの、」
「ん。どうした?」
「いえ、あの、先に上で休んでいてください。」
「?」
「私、もう少し赤ん坊と母馬の様子を見てから休みますので。」

今日一番の大仕事も終え、二階へあがろうとした彼の背中にそう言えば、彼は私を見て首を傾げた。大丈夫だとは分かっていても、一応出産に立ち会ったゆえに少々気になってしまって眠れそうにないのが本音であった。今は元気でももしかすると急にどちらかの具合が悪くなってしまっては大変なのではと不安になり、一人でも厩で番をするつもりであったのだ。もちろん彼は疲れているだろうから、彼を巻き込むつもりはない。寧ろ、一人でゆったりとベッドで休んでもらいたいと思っていたので、ある意味好都合であった。

「では、おやすみなさい。」
「あ、待った。」

挨拶をしてそのまま玄関から出ようとすれば、彼が急いで登っていた階段から降りてこちらに向かってきた。そして私の肩に手を置くと、にこりと笑って口を開いた。

「俺も行こう。」
「でも、お疲れでしょうし、今日は上で休んだ方が。どうせ厩の扉は締めますから、私一人でも平気ですし、御気になさらず、」
「いやいや、だとしても流石に女一人を外に置いては行けねえし、それに俺はどこでも休める性質だし、俺もあの親子が気になる。」
「でももし気を遣っているなら、」
「ないない。俺は自慢になんねえが基本的に他人に気を遣うことなんかマジでないんだよ。兎に角、おれも厩に戻る。今新しいブランケットとシーツ婆ちゃんにもらいに行くから、先に行ってくれ。な?」

そう言って彼はにこりと笑うと、玄関を開けて私を促した。思わずはあ、とその勢いに気おされてしまったが、本当に良かったのだろうかと、厩に向かう途中の道でぼんやり思った。

「…そう言えば、」

厩に着く途中、先ほどの騒ぎでつい頭の片隅に追いやられて忘れていたが、ふと、彼が先ほど何かいいかけていたことを思い出して、足を止めた。何やら真剣な顔をしていたから、冗談でもなさそうであったし、とそこで思考を思わず停止させる。それまでに言った自分の台詞までも思いだして、思わずこめかみを押さえた。何故あんなことを言ってしまったのだろうと自分を恥じた。あれでは自分の独りよがりな上に彼を混乱させてしまったに決まっている。おまけに察しのいい彼なら、私が何やら後ろめたいことを隠していると気が付いてしまった筈だ。しかし、彼は問いただしたりはしないだろう。それが余計にこたえるのだ。

「(彼の言おうとしたことは確かに気になるけれど、聞けばきっと私は彼に自分のことも話さなければならない…ならば、このまま忘れた風を装うしかない)」

あと少しでやってくるであろう彼に今の心境を悟られずにするにはどうやり過ごそうかと思い、思わず感動で満たされていた心が重くなった気がした。親切な彼に対する後ろめたさで、胸が苦しくて、思わず目の前にいた美しい青色の馬を柵越しに抱きしめた。雌の美しい馬は何を言うでもなく静かに鼻を鳴らすだけで、私の胸を甘んじて受けていた。母馬は立ったまましょぼしょぼとめをしょぼつかせ、先ほど走り回っていた生まれたての仔馬は子馬らしく体を大胆にも干し草の上に寝そべらせ、眠りについている様子であった。馬は基本的に立って眠るし睡眠も浅いが、子供のころはこのようにリラックスして足を延ばすこともあるそうだ。純粋無垢で穢れを知らない仔馬の純真さに思わず羨望する。自分も身も心も潔白で生きられたならどれほど生きる喜びに満ちていたろうか。

「夜になったらなんだか冷えて来たな。」
「…ええ。」

干し草のいいにおいが漂う厩で幽かに馬たちの息遣いが聞こえる。端で座っていたわたしを見つけると、サボさんは入り口から此方に近づいてきた。手には真っ新な折りたたまれたシーツとパッチワークのブランケットがあり、彼はまず私にそれを手渡すと、ブロックの干し草を並べて大人が二人横になるのにちょうどよい手ごろな形に整えると、シーツをその上に敷いた。そして私にここに座るように指示すると、ブランケットを私に預けたまま、履いていたブーツを乱雑に脱いで自分はごろんと横になってしまった。掘立のベッドだが、干し草の柔らかさといいにおいがするし、まるで昔読んだ物語の女の子が寝ていたベッドにそっくりであった。

「サボさん、ブランケットは…」
「大丈夫だ、コートあるし。」
「でも…」

私が食い下がれば、彼は横になったまま手をひらひらさせてそれを拒否したので、先ほどと同様しぶしぶ自分肩に掛けて黙った。足元に置いたランプの灯がじりじり燃えている。時折遠くでフクロウや虫の静かな声が聞こえてきた。

「あー…、いいにおいだなー、これ。眠くなる…。」
「寝てください。私のそのうち休みますから。」

彼はそう言って寝返りを打つと、私の方に顔を向けた。瞼はすでに重たそうで、やはり今日は随分動いたから、余程疲れたのだろう。夜はまだこれから更けるのだから、先に寝るように言えば彼はうーんと子供のように唸った。それを見て思わず小さく笑うと、自分の足元に置かれた乱雑に置かれた彼のブーツを整えた。彼は暫く私と同様ぼんやりと子馬の可愛い寝顔を見ていたが、その間一言も話さなかった。でも不思議と嫌な心地はしなくて、お互いとても心地の良い夜の静かな時を過ごしている気がした。

「…明後日の朝か。」

少しかすれた低い声で彼が一言そういったので、思わず視線を横の彼に向ければ、彼はまだ前方に視線を送るだけだった。私が答えかねていれば、ふっ、と痴昨笑ってそれからまた口を開いた。

「明後日の7時に立つ汽車に乗れば船に間に合うよな?」
「ええ。間違いなく。それまでにお土産買わないとですね。」
「ああ。本当だな。」
「明日も朝が早いわ。」
「ああ、そろそろ寝るよ。りんごも早く寝てくれ、俺のことなんか構わず。なんなら、蹴っ飛ばしたって、おれのこと枕に慕ってお前なら怒らねえよ。」
「ご心配無用です。私はそこまで寝相悪くないですから。」
「はは、そうか。」
「ええ。」
「…………なあ、りんご。」
「はい?」
「……いや、」

彼は珍しくばつが悪そうに少しだけ視線を下げたが、すぐにまたもとの人の良さそうな瞳を下げて私を見た。

「…お休み。」
「おやすみなさい。」



▼▼▼




「もー、サボ君ったら全然出てくれないんだから!」
「悪ィって、色々ややこしい事情があるんだよ、俺にだって。」
「何がややこしい事情よ。女の子といちゃいちゃしてるだけじゃない!私に仕事押し付けて!挙句の果てには帰ってこないし!」

もう!と言って呆れた女の声が聞こえて思わず苦笑してしまう。とはいえ、こちらも本当にいろいろな込み入った事情があるのだと弁解を一応したが、彼女はの見ての通り、女性と遊んでばかりいると決めつけるばかりであった(まあ確かに間違いではない)。しかしあんまりこうも責められるといい気分ではないし、そろそろ、「そんなにもうもう言っていると牛になるぞ」と思わず言いたくなったが、まだ命が惜しいのでぐっとこらえた。手に持っていた婆さんからもらったシーツとパッチワークのブランケットを抱えつつ、玄関そばの切株に腰を下ろして小でんでんむしに耳を傾けながらも誰も周囲に居ないことを確認しつつ会話を勧める。コアラをできるだけ怒らせない言い方を模索しながらも、あまり長引くと彼女が心配してこちらに来てしまう可能性もあるのだと注意をする。

「…なんつーか、兎に角こっちはこっちで重要な秘密を得られるか否かの瀬戸際なんだよ。」
「それって本当に任務に関係してるの?」
「あー…、まあ、関係なくはねえよ。うん。」
「本当なの?…まあいいや特にこっちも問題は今のところ起きてないし。」
「じゃあ、そんな怒らなくてもいいじゃねえか。怒ると血圧上がるぞ。」
「………」
「………すみませんでした。」
「…あ、そうだ。大事なこと忘れるところだったわ。」
「ん?」
「あのね、うちの隊の若い子が言ってたんだけど…」

電話口で少しだけコアラが言う言葉に耳を傾けながら、視線を厩に移す。どうやらまだ彼女は此方にくる気配はない。

「なんだ?問題でもあったのか?」
「ううん、こっちに落ち度は全然ない、その子が張ってた数人の中の貴族の中に、調べているうちに、ちょっと気になる話があったみたいで。」
「気になる話?」
「うん。私たち、今までドラッグと武器の密輸とかの捜査ばっかりしてたじゃない?なんでもその子が言うには、一部の貴族はどうやらそれだけじゃないみたいで。」
「またあいつら、何かやってたのか?」
「うん、そうみたいなの。まだ十分な証拠は掴んでないけれど、どうやら人身売買にも手を付けてるみたいで…」
「何だって?」
「しかも、子供だけ。何故かは、まだ分からない…。ただヒューマンショップに売り飛ばすのが目的なら、子供だけをさらうのはおかしいと思うのよ。きっと何か裏があるんじゃないかしら。まだ時間はあるし増員して徹底的に探らせているんだけど…」
「それを指揮している貴族は把握できてるんだよな。」
「ええ、勿論。関わっている貴族は全員特定できてるわ。でも、不思議なことにこの件に関しては今までほとんどノーマークだった著名人や貴族ばかりだったの。」
「ますます怪しいな。…で、それを指揮しているのはなんて奴なんだ。」
「ええ、たしか、青森家という貴族の男よ。随分温厚そうで見た目はそうは見えない。表向きは代々続く政治家の名家で、孤児院や学校、若い音楽家たちを支援して、よく寄付活動やボランティアもやってるみたい。老夫婦で全然そうは見えなかったんだけど、やっぱり人間見かけには寄らないみたいね。……サボ君?」
「…あ、ああ、聞いてる。」
「大丈夫?」
「そうだな、捜査は引き続き続けてくれ。随分裏がありそうだからな。俺が戻るまで頼む。戻ったら俺も手を貸すから。」
「ええ。もちろんよ。」
「ああ…悪ぃが、今日のところは後でかけなおしてもいいか?少し疲れてるみたいだ。」
「ええ?大丈夫なの?」

サボ君が?と随分失礼なことを電話口でのたまう彼女に思わず笑交じりのため息が出たが、心配するなと念を押せば、お休み、と言ってでんでんむしは切れた。

「……」

切れてからも暫くは動けず、掌に治まったちいさなそれを見つめたまま思わず息をするのも苦しくなった。今日のあの橙色に染まった木漏れ日の道の思い出が、走馬灯のように脳裏を掠めて、砂嵐が拭いたように彼女のあの優しい横顔が霞んでいくようであった。食べていないのに、木いちごの甘酸っぱい切なさが込み上げてくるようで喉が厚く苦しい。

「………青森、青森…………青森りんご」

ぼそぼそと呟いた声は微かに震えていて、底冷えするほど低い声であった。


2016.03.17.

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