「にしても、お前ェもピアノの腕さ上達しただなあ。」

夕飯を終えて御皿洗いを手伝っていた際に、横で濡れた皿を布巾で拭いていたお婆さんが突然そう切り出した。思わず流し台で水を出そうとして押した手を止めてしまった。おばあさんは別段何を言うでもなくそれだけ言って普通に付近で皿を拭いて、それらを台に置くだけである。私もすぐに皿洗いに専念して、お婆さんの言葉に素直に感動していた。

「嬉しいです。ありがとうございます。」
「ん。あんた、この間の時よりいい顔しとるべ。」
「いい顔?」
「んだ。あの兄ちゃんが居る時に弾くといい音が出るだろ。」
「…確かに、そんな気はします。」

私が思わずぎこちなくそう言えば、それまで平静であったおばあさんが横で肩を揺らして笑ったのを感じて思わず隣のお婆さんを見てしまった。なんだか恥ずかしくて思わず俯いてしまえば、お婆さんは尚も可笑しいのか続けた。

「おらも爺さんに聞かせる時が一番楽しかったべ。爺さんは音楽は好きじゃが、曲名だのなんだのはてんで分からんかったがな。でも一生懸命聞いてくれるべ。そうすりゃあ俺も本気で弾くべ?」
「確かに、彼もすごく真剣に聞いてくれます。やっぱり、真剣に聞いてくれる人がいると気分よく弾けるものなんですね。」

そう言って今度はワイングラスを入念に水にさらしてスポンジで拭っていく。夕飯で頂いたワインは本当に香りが高くておいしかった。先ほどお爺さんと息子さんが持ってきてくれたワインの味を思い出しながら、ワイングラスに塵一つも残さぬ様に丁寧に洗って行った。流し台のすぐ目の前には窓があり、窓には宵の暗い木々の様子が見えた。台所の光に反射して、自分の顔とおばあさんの顔が並んでいるのが見える。窓には可愛らしいキッチンカーテンがかかっていて、これもおばあさんのお手製らしく、この間来た時とはまた別の柄であった。季節によって変えているのだろう。今回は白地に月桂樹が描かれた美しい模様であった。

「いんゃあそれだけじゃねえべ。そりゃァ聞いてくれねえよりかは聞いてくれた方が弾く方も張り切るが、それだけじゃねえ、目の前に気に入った男さ居れば、どんな女でも喜んで弾くべさ。」
「…お婆さん。」

私がそう言っておばあさんを見た時、お婆さんはもう笑ってはおらず、いつもの涼しい顔ですべての食器を拭き終えたらしく、代から降りると皿を持って棚の方へ行ってしまった。私は手を水でさらして洗いながらもそれ以上何も言い返せず、沈んだ顔で手元を見た。あまり手を冷やしてはならないとはたと気が付いてつけていたエプロンの中のハンカチで手を拭っていたその時、突然、コツコツという窓を鳴らすような音が聞こえて反射的に前を向いた。するとそこには窓に反射する自分の顔ではなく、見覚えのある男性の顔で思わず驚いて目を見開いた。

「噂をすれば影だね。」
「、サボさん。」

後ろでお婆さんの声がして余計に動揺していれば、そんな会話などつゆ知らず、窓の向こうの彼は私に指でこちらに来るよう指示した。私が首を傾げていれば、お婆さんがすぐさまこちらの勝手口から出れるよと口を開いたので、思わずえ、と返してしまった。

「でも、まだお仕事は、」
「もう一通り終わって、あとは私の裁縫だけだべ。心配せんでお行き。きっと何かあんだべ。」

お婆さんに許しを得ると、もう一度窓の向こうにいる彼に向き直り、小さく頷いて勝手口を刺した。そしてエプロンもつけたまま、慌てて台所の隅にあった勝手口から出て行った。すると勝手口まで回っていたサボさんの姿が見えた。彼は私が出てくると口角を上げた。夕食を終えておじいさんとブランデーと煙草を嗜んでいたのを見たのが最後であったが、まさか外に出ていたとは知らなかった。お婆さんの言うようにきっと何かがあったのだろう。

「どうしたんですか?」
「急に呼び出して悪い。実はあの母親が急に産気づいちまって。」
「えっ、あのお母さんが?」
「ああ。もう爺さんが先に厩にいる。息子が今ちょうど出ちまったから、俺が代わりにてつだうことになったんだ。」

言われてすぐにあの馬の姿を思い出して、思わず開けたままの勝手口の扉からお婆さんを覗き込んだ。息子さんは夕食の直後に来たお客さんの相手で今は丁度不在である。隣の家のお婆さんの容体が悪いということを伝えに来た客で、代わりに馬車を出して隣町の医者を連れて行くことになったのだ。こういった田舎では別段珍しいことではないらしく、青年も慣れた様子で「言ってくる」、と言ってコートと帽子を被って客と共に玄関を出て行った姿を私も見送っている。おばあさんはサボさんの話をもう聞いていたらしく、そのまま奥の部屋に行ったかと思えばすぐ戻って布を持ってきて私に手渡した。

「予定より早いべな。まあ、なんとかなるべ。」
「何か手伝えることは?」
「いんや、もう何度も子供産んでる馬さ、まあ、何かあればその都度声かけるべ、とりあえず爺さんとこさ言っててつだってけろ。」
「分かりました。」

そう言ってそのままサボさんとともに厩へと向かうと、幽かにふんふんと息を鳴らす牝馬の息が聞こえた。厩ではおじいさんがお婆さんと同様に別段慌てる様子もなく、お母さん馬の新しい部屋を作ろうと柵を増やして隔離スペースを作っていた。指示通りまず布は駆けておくと、干し草を先ほどよりもよく敷き詰めて、ベッドのようにした。それからまた何かやることはあるのかと、産気づいた馬同様、右往左往していたが、何も言われないので可笑しいと思っておじいさんに尋ねれば、お爺さんは呑気にパイプを咥えながら椅子に座って口を開いた。

「なあに、あとは生まれるのを待つだけだべ。うまあく行けばわしらは何もせんでも母ちゃんが全部何とかするべ。何かあった時だけ子供さ温める布が必要だべな。」
「そういうものなんですか…」
「んだ。ま、気長に待つべ。わしゃあ明日早くから息子の作ったワインを納品せにゃあならんでな、その準備で忙しんで、後はお前たちさ見ててくれるか?心配せんでももう必要なもんは全部そろってるべ。」
「俺は別に構わねえが、大丈夫なのか?」
「何も心配いらねえべ。とりあえず子供の足さ出てきたら、その手袋つけて引っ張り出せ。そうすりゃああとは何もせんと大丈夫だ。なんか気になったらすぐにわしら呼べば大丈夫じゃ。…じゃ、頼んだべ。」

そういっておじいさんはよっこいしょ、とゆっくり立ち上がると、これまたゆっくりした足取りで厩から出てってしまった。取り残された私たちは顔を合わせると、とりあえず言われた通りお母さんの様子を見ようとして干し草のブロックがうずたかく積まれた隅に行き、それらを椅子にして座った。お母さんの横の柵にいる兄弟たちはお母さんの様子を見て少しだけ心配そうにしていたが、やがて何がこれから起きるか分かったのか、大人しくなった。厩の上の屋根を見れば窓の方から雲間から月が見えた。静かな夜である。壁にかかったランプの灯が厩の唯一の光源であった。サボさんは立ち上がって柵に掛けていた布を手に取ると、それを私の肩にかけた。

「多分使うことは無いだろうって言ってたし、なら、これはりんごが使うといい。」
「あなたは?」
「へーきだ、ありがとう。」

彼はそう言ってまた傍らに座って、黙ったまま母馬の方を向いた。彼も馬の出産に立ち会うのは初めてらしくとても真剣な顔つきでそれをじっと見ていた。

「まさかこんなことに立ち会えるなんて思っても見ませんでしたね。」
「ああ。じいさんの言うとおり、本当に大丈夫か分からねえけど。」
「無事に生まれればいいのだけど…」

それから半刻たったが、母馬は存外先ほどよりも幾らか落ち着いた様子で、先程の動揺などなかったかのように落ち着きを取り戻していた。しかし時折旋回のような動きをしたので、油断ならなかった。発汗や旋回は出産直前の動きだと聞いたことぐらいはある。夜も更けてきていよいよ生まれるかと思ったが、意外に時間がかかる様子であった。早まる気持ちを押さえて、こちらはひたすら祈って待つしかないのだ。人間の出産もこんな気持ちなのだろうかと、少しだけ顔の知れぬ肉親を思ったが、すぐに考えるのをやめた。

「…サボさんは、お仕事楽しいですか?」
「ん?」

突然の私の問いかけに彼は久しく視線を私に向けると、言葉の意味を探る様に私をじっと見た。思わず視線を下げて、干し草の上にある自分の足元を見ながら言葉をつづけた。

「前にも言いましたけど、私、ピアノぐらいしかしてこなかっから、他の職業の方ってどんな気持ちでお仕事されてるのかなって思って。ごめんなさい、こんな時に。」
「いや。まだ暇だからな。静かな夜だし、色々考えるもんだ。俺も馬を見ながら別のことを考えてた。」

そういって歯を見せて笑う彼に安心すると私も口角を上げた。そして彼は私の質問に答えようとして暫し手を顎に載せてうーん、と唸りながら答えを考えた。

「そうだなー…楽しい?か?、うーん、まあ楽しくねえわけじゃねえが、遣り甲斐はあるし。でも楽しい事よりも、苦しいことの方が多いな、正直。」
「やっぱり過酷なのね…。」
「まあな。そうだな、たとえば…苦しい状況の国があって、そこには百人の人間が住んでいて、色んな理不尽や不幸に晒されて、百人全員が助けを求めている。俺たちがそこに行くとする。もちろん俺たちは目に見えるその百人全員を救ってやりてえんだが、結局本当に助けられるのは一人や二人なんだ。」
「…………。」
「うまくいくこともあればそうはいかないこともある。ある意味、博打だ。けど、奇跡を信じてる奴らには出来るだけ力を貸してやるべきだと思っているし、俺は救ってやれる人間でありてえって思う。俺が救われたように。」

思わず黙ったまま彼を見上げていれば、サボさんは少しだけはっとしたように目を見開いたが、次の瞬間にはやや気恥ずかしそうに頭を掻いた。

「…悪い、何を言ってるか全然解らないよな、こんな話。忘れてくれ。」

彼の言うとおり何の話なのかはてんで見当がつかなかったが、それでも彼がどれだけ私以上に凄まじいものと対峙しているかはその口調から察することは出来た。やはり思っていた通り、彼はとても優れた人間で、私の想像以上に物語の王子様であったのだ。私とは真逆の部類の人間であった。そう思ったら、彼が善人であることは誇りあることで喜ばしい事なのに自分が浅ましく思えてとても胸が苦しかった。何も言われていないのに攻め立てられているような心持がして、後ろめたくて、心が痛かった。

「やっぱりあなたはヒーローなのね。」
「はは、それどころか世間じゃ犯罪者だ。」
「えっ」
「ああ、いや…なんていうか、時には故意に人を傷つけることもある。褒められたもんではねえだろう。」
「でもそれは悪いことをする人に対する罰みたいなものでしょう?それ位は許されるはずだわ。あなたは人のためにしてるんでしょう。」
「一応俺はそのつもりなんだがなあ。でも、実際助けられた奴がどう思うかはそいつの自由だ。だけどいいんだ。一人でも自分のやっていることに賛同してくれる奴が居ればそれで十分なんだ。」
「あなたはやっぱり強い人ね。気分を悪くしたらごめんなさい。私、サボさんといるとすごく落ち着くのよ。ピアノを弾いてるときにもすごくそれは思うの。あなたは私の演奏を本当によく聞いてくれる人だから。」
「………。」
「あなたのことを知りたいと思うけれど、その反面、貴方のことを知れば知るほど胸が痛くなるのよ。あなたがどれほど素晴らしい人間かを知る度に自分がどれほど卑劣な人間なのかが知れてすごく苦しくなるの。全部自分のせいだってわかってるし、貴方のせいじゃないのに、どうにも苦しくてやりきれないの。」

息を詰まらせてようやっとそれを言えば、彼は膝に置いていた手を握ると私をじっと私の目を見た。予想以上に近づいた視線に思わず身を捩りそうになったが、その余地さえも許さぬ彼の無言の気迫に思わず目を見開いたまま微動だに出来なかった。ふわりと彼の香りが鼻孔を掠めて、肺を満たす。

「…俺は、りんごが言うような潔白な人間じゃねえよ。俺だって時には理由はあるにせよ、人を欺いて傷つけることが出来るんだ。…現に俺は、」

そう言って彼は私の手を握りながらも言葉を詰まらせた。そして黙ったまま視線を一瞬だけ下げて、酷く何かに苦しんでいるような表情で、一体何が彼をそこまで苦しめるのかその正体が分からずただ困惑するしかなかった。彼は再び視線を上げると、意を決したように私を再び見据えてそれから息を吸った。


2016.03.15.
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