ゆっくりと摘まんで引けば、ぷつん、と小さな乾いた音を立てて可愛らしい赤い実は手の内に治まった。それを傍らにいる彼の持つバスケットの中に入れて、もう一度同じように実をもぐ。それを幾度となく繰り返せばすぐさまバスケットの底は赤い色で染まっていった。傍の金髪の彼も自分と同じように赤い実をもいで、時折くんくんとその甘酸っぱい香りを匂って目を閉じた。そして彼は思い切って自分の口の中に一粒放るとそのまま咀嚼した。辺りは静かで、時折鳥の羽音や鳴き声が聞こえた。この辺りは高台になっているのか、木々の隙間からは先ほど走ってきた高原の様子が見え、田畑や小さく民家がぽつぽつ見えた。私たちが泊まっているおばあさんの家はもう遥か遠くに見えた。

「甘酸っぱいな。あのばあちゃんの紅茶みたいだ。」
「お婆さんはよくラズベリーティーを作るそうですよ。体にいいみたいで。」
「へえ。」
「このあたりの人々はよく妊婦さんにラズベリーティを呑ませるそうです。あとは気持ちが昂ったり、緊張した時も。」

一通りラズベリーを取り終えると、この辺りを散策しようという彼の提案で少しだけこの辺りを散歩することになった。麓であるこの辺りには木いちごのみならずアケビや、ブルーベリーも良く取れるとおばあさんが言っていたが、彼女の言うとおり、至る所にアケビの実がぶら下がっていた。サボさんは手を伸ばしてそれを取ると、私に一つ分けてくれた。アケビの実を二人で食べながらゆっくりと歩いていれば、枝垂れた木々道の両脇に生える道を発見した。地面には車輪の後があるところを見ると、ここも良く人が通る場所なのだろう。枝垂れた木々がまるでトンネルのように道を囲っているのでそこをのんびりと通った。サボさんは私の先頭に立って時折私を気遣いながら地面を踏みしめた。

「………」

彼の背を追って暫く歩いていたが、突然サボさんが足を止めたかと思えば、後ろを振り返ってしいっと人差し指を口元に寄せて静かにするよう指示した。私は何事だろうと思ったが、小さく頷くと彼の指示に従った。彼はそのまま私の手を取ると、傍に合った大きめの岩の陰に隠れた。彼は私をそこで屈むように指示したのでそれにまた黙って従えば、彼もしゃがんだ私に覆うように岩に手をついた。今日は随分彼との距離が近いなと幽かに動揺したが、声を上げることは出来ずに静かに生唾を呑んだ。彼は後ろから私の耳に口元を寄せると幽かに右手で十数メートル先を指示した。

「あの右手に見える大木の横を見てみろ。」

小声でそう言われてその方向を目を凝らしてみる。すると、緑の中に幽かに茶色い影が見えたかと思えば、ひょっこりと顔を上げたものを視界にとらえた。

「(バンビ、)」

私が小さく歓喜して思わず小声でそう伝えて後ろを見れば、彼は小さく笑って頷いた。鹿の子はこちらに気が付いてはおらず、大木の傍で暫く戯れていた。よく見れば小鹿の傍には親のしかもいるようで、親の方は首を下にして草を食べるのに忙しそうだったが、その背中の愛らしい白い斑点は確認できた。鹿はこの辺りによく生息しているが、なかなか人間への警戒心が強いらしく、人間を見た途端に逃げてしまうのだ。なのでこのような距離で観察できるのはなかなか珍しい。特に子供を連れた鹿はなかなか見れないのだが、サボさんの目がよかったおかげで逃げられる前に見ることが出来た。もし先頭を歩くのが私だったならば、鹿に気が付く前に逃げられてしまっていただろう。

「かわいいですね、こんな近くで見れるだなんて。よく気が付きましたね。」
「割と目と耳は効く方なんだ。」
「流石、軍人さんですね。」

褒め言葉のつもりで言ったのだが、にっこり笑っていたサボさんはややきまり悪そうに苦笑いをすると肯定も否定もしないうちに黙ってしまった。何か変だということは何となく感じたが、次の瞬間にはもう視線を彼から前方の鹿に移した。鹿親子はやがてこちらに気が付くことなく暫くのんびりしていた。乗馬をしていた時にはユスティナのペースに合わせていたから気が付かなかったが、これだけ密着すれば流石に彼の温度をじっくりと感じることが出来たし、岩に置いた自分の手が彼の手と重なると幽かにびくりと肩が震えた。動揺を悟られないようにするので必死で、正直心臓に悪かった。しかし視界の先に見える鹿を純粋に観察することでどうにかあまり考えないようにやり過ごした。このような他愛無いことを、彼は何とも思っていないのかもしれないと思うと、自分が自意識過剰であるように思えて恥ずかしかった。やがて親がこちらにようやく気が付いたのか、ぱっと首を上げ、耳をそばだてると、そのままそそくさと奥の方へと言ってしまった。親が動きだすと、小鹿の方も可愛いしっぽを此方に見せたかと思えば、ぴょんと跳ねて行ってしまった。

「…ああ、いっちゃった。」

私がそう言えば、後ろの彼はすふっと笑って音も立てずに離れた。岩に巻き付いた蔦に触れていた自分の手を離し、彼に倣って立ち上がる。

「そろそろ戻ろう。」

彼がそう言えば私も静かにうなずいた。木々の隙間からこぼれる光の色は既に柔く橙色を帯びていて、森の奥がだんだんと暗くなっていることに気が付いた。今度は私を先頭に歩かせると、慌てることなく来た道を歩くように言った。枝垂れた木の小道は夕の光を差し込んでいて、郷愁を誘うようである。まるで門限までに帰ろうと家路を急ぐ子供の頃の心境が蘇って気が付けばサボさんが居るにもかかわらず鼻歌を歌う始末だった。

「なんだか童心に帰ったようです。」
「俺もこの林を歩いていると、不思議と懐かしい気がしてきた。あまり覚えていないんだが、餓鬼の頃に見た景色を見てるみたいだ。」
「私もです。施設のすぐ裏手に山があって、横そこで同じ施設のこと遊んでいました。五時までに帰らないと門が閉まって入れなくなるの。五時を過ぎると絶対に入れてもらえなかったわ。すごく厳しい施設だった。」
「どれくらいいたんだ。」
「八歳までです。友達は多かったけど、ご飯はそんなにおいしくないし、規則は厳しいし、先生は皆あまり優しくなかったわ。勉強がすごく厳しくて、できない子にはバケツ一杯の水を両手に持たされて立たされたり、耳を抓るの。私はよく抓られたわ。すごく痛かった。」
「…随分ひどいことするな。腹が立ってきた。」
「ええ。でも、反抗的なのは確かだから、仕方がなかったのよ。それに、売られてしまうよりはマシだって、みんな言ってたし、私もその通りだと思うわ。でも体をぶたれるよりももっと辛かったのは、寝る時だった。」
「寝るとき?」
「…うん。夜は決まった部屋で決まったベッドで寝るんです。ベッドには番号が振って会って、皆何も言わずにベッドに入ってそのまま動かなくなる姿が、まるで家畜みたいでした。真っ暗闇の中、布団にくるまって一人で瞼を閉じると、どうしても寂しくて仕方がなくなるの。何もないのに、涙が出るくらい悲しくてさみしくてどうしようもなくなるの。眠れなくて絵本を開くんだけど、どんなにおもしろくて楽しい本を読んでも夜になるとどうしても楽しい気分になれないのよ。だから今でも時折一人でベッドに入るとあの頃の記憶が蘇って悲しくなる時があるわ。」
「………」

彼は始終黙って話を聞いてくれた。何も言わないけれどとても親身になって聞いてくれているのが分かった。道が開けると、今度はゆっくりとサボさんが私に歩調を合わせて傍らを歩きだした。落ちいた手ごろの木の棒を手にすると、子供のようにそれを持って遊び半分に歩く。

「男の子はよく農業をする人にもらわれてったわ。力仕事をさせるのにちょうどいいんですって。女の子はある程度教養を身につけさせてメイドになるの。実際私よりも三歳年上のお姉さんが居て、その人は町の一番お金持ちの家にもらわれてったわ。優しくて従順だから、きっとかわいがってもらった筈よ。暫くは手紙も交換してたけど、今はもう、ほとんど音信不通。」
「りんごはいい人にもらわれたのか?」
「ええ。すごくいい人よ。貴族の老夫婦。私と目があった瞬間にこの子だって、思って下さったんですって。」
「へえ。何でだ?」
「亡くなった末娘にそっくりで、生き写しかと思ったそうよ。お母様は私を初めて見た瞬間駆け寄って抱きしめたわ。とても後悔なさったのでしょうね。見知らぬ子の私に対して何度も何度も謝ってその子の名前を呼んで泣きながら抱きしめたわ。その娘さん、10歳くらいの時に突然亡くなってしまったの。小さいころから体が弱かったってメイドのお姉さんに聞いたわ。とても心優しくて賢くて、素直で、まるで物語の御姫様みたいだったって皆言ってた。お母様はそんな自慢の娘が亡くなったショックがなかなか癒えなくて、娘の面影のある子を探しては孤児院をめぐる毎日だったそうです。」
「…それでようやく巡り合ったのがりんごだったんだな。」
「はい。確かに、私は見た目は亡くなったお嬢様に似てるかも知れないけど、中身は私と正反対だわ。」
「それは謙遜だ。君だって賢くて優しいだろう。」
「あいかわらず優しいのね。」

私がふっと笑えば傍らの彼は横目で私を見て柔らかく口角を上げた。夕日に照らされて油絵のように彼の体がぼんやりうす暗い林を背景に浮きあがって見えた。

「その娘さんもピアノが好きだったものだから、私にもお母様は私に好きにピアノを弾かせてくれるのよ。勉強もマナーも好きなだけ私に教えてくれたわ。ピアニストになりたいって言ったら快く許してくれたのよ。本当に、よくしてくれるの。いい人たちよ。」
「…いい人に見つけてもらってよかったな。」
「ええ、本当に。とてもラッキーだったわ。本当にやさしい人たちなの。私の恩人だもの………でも、」
「でも?」

そう言われてはたと足を止める。そして傍らの彼を見れば先ほどとは明らかに違う態度で、私を見下ろしていた。彼の目は真剣そのもので、私の言葉のその先を切望しているように見えた。思わず私の自分の言葉の先を勇気をもって紡ごうと思い息を吸った刹那、前方から突然、甲高い馬の鳴き声が響いているのが聞こえて、二人してぱっとそちらを向いた。視界の先には木につながれた青馬が動揺したように動いているのが見えた。どうやら気が付いたら自分たちは林の入り口まですでにたどり着いていたらしい。サボさんと目を合わせて急いで前方に駆け寄れば、そこには見慣れた荷台に若い青年と老人を乗せた馬車がユスティナの前に停車した。逆光で最初はよく見えなかったが、目が慣れるとすぐさま見慣れた顔であると分かり、二人で前へと進んだ。老人はにっこり笑うと私たちに向かって口を開いた。

「木いちごはたくさん取れたか?」
「ああ。当分は大丈夫だろう。」

そう言って傍らのサボさんは持っていた駕籠を見せると、にっこり笑った。お爺さんの乗る荷台には大きな樽が二つと、中には箱があり、それを支えるように青年が乗っていた。ユスティナは兄弟の再開に嬉しそうに互いに鼻を擦り合っている。青年は私たちを見るとにっこり笑った。

「こっちも大量だ。今夜はいい酒が飲めるぞ。」
「楽しみだな。」
「もうばあちゃんも夕飯の支度だろうから行こう。バスケットはこっちで預かる。…お姉さんはどうします?」
「えっ」

いきなり名指しで問われて思わず荷台の青年を見た。荷台に乗って安全にくか、それとも来た時と一緒でサボさんと二人乗りで行くか問われているのだということがワンテンポ遅れて分かって、思わず困ってしまった。サボさんを見れば、どっちでもいいぞ、と言うような目だったので、余計にこまって苦笑いを浮かべれば、今度はおじいさんがふふふ、と笑って私に声を掛けた。

「こっちは荷物が多いんで家までまだまだかかりそうじゃ。婆さんの夕飯の手伝いをするには遅いじゃろうから、その兄ちゃんに送ってもらって先に家さ帰ぇってくれるか?儂らはそのあとも羊たちを囲いに戻さにゃあならんでなあ。」
「分かりました。では、そうさせていただきます。」
「決まりだな。」

そう言ってサボさんは木に留めていたユスティナの綱を解くと、乗り込んだ。もうずいぶん日が沈んでい居て、随分向こうに見える丘に太陽が半分顔を隠している。草原が風に吹かれて波打っていた。もう皆帰宅の時間と見えて、ちらほらあぜ道を歩く人の姿も見えた。サボさんは私に先ほどのように片腕で抱き上げると、そのまま手綱を握った。私も彼も随分乗馬に慣れたと見えて、とてもスムーズになっていた。そんなサボさんの女性の慣れた扱いを見てか、荷台に乗っていた青年は煙草をかんだまま、冷やかすように可笑しそうに声を上げた。

「色男は女性の扱いも手慣れてるんだな。」
「お前ェも見習った方がいいべ。」

青年の言葉におじいさんも悪乗りをしたのかそういってほっほっと笑ったので、私はなんだか気恥ずかしくて苦笑いをしておいた。サボさんは別段気にしていないのか、それとも冗談であるときちんとわかっているのか、彼らと同じように笑っていた。

「行くぞ。」
「ええ。」

私が返事を返した直後、彼はそのまま手綱を叩き、青い馬はうねりを上げる高原へと走り出した。


2016.02.27.
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