朝食を終えて爺さんの指示通り、牛のえさやりや乳搾り、午後は厩の掃除を手伝わされることとなり、それにりんごもついていくことになった。爺さんとその息子は羊の面倒や息子夫婦のブドウの収穫の手伝いに忙しいらしく、確かに婆さんの言うとおり収穫期のこの時期は忙しい様子であった。そこで、手が回らない部分を俺たちに少しでいいから手伝ってほしいとのことだった。とはいえ、一応この牧場には爺さんや息子以外にも雇いの従業員が数人いるので、困ることはなさそうであった。なので気ままに厩の掃除をしながら、疲れたらすぐに休憩も出来た。新しい干し草を敷き詰めて俺が悪戦苦闘する最中、傍らでりんごは馬のブラッシングに余念なく打ち込んでいた。心なしか、俺が触れるよりもりんごに触れられる方が馬たちも機嫌がいいように思えた。掃除中は邪魔なので、馬は外で木につながれていたが、足元に置かれた干し草を食んだり、のんびりしっぽを揺らしたりととても呑気であった。

「疲れました?」
「いや、これぐらい全然平気だ。だが、案外難しいもんだな、均一に敷き詰めるのも。初めてだから気に入ってくれるかどうか。」
「でもとても上手ですよ。この栗毛の子がもうすぐ赤ちゃんが生まれるそうで、だから干し草がとても大事なんですって。」
「こいつか。母親なんだな。通りで腹がでかいわけだ。」

鉄具を壁に立てかけて軍手を取り、彼女がブラッシングをしていた立派な栗毛の馬に触れる。馬は俺が触れた瞬間しっぽを揺らしたが、すぐさま瞼を閉じてのんびり転寝を始めた。栗毛の馬はお腹がぼてっとしていて、一目で妊娠しているのだということが分かった。馬は全部で五匹いるらしいが、今は息子夫婦の農場に二匹を貸しているらしく、三匹しかいない。栗毛の雌に、青色の雌、鹿毛色の雄である。聞けば青色の雌は最年少で今妊娠している雌馬の末っ子に当たり、鹿毛色の方は長男だという。

「じゃあ、もし今腹の中にいるのが出てきたら、」
「黒い子はお姉ちゃんになります。因みにこの子、この五匹の中で一番足が速いんですって。若いから少々やんちゃだけど、すごいスピードが出るって。」
「じゃじゃ馬ってわけか。」
「ユスティナって言うんです。鹿毛のお兄さんはニコラです。」
「ユスティナか。りんご、馬に乗ったことはあるか?」
「数えるほどしかありませんね。」
「施設一のじゃじゃ馬だったのにか?」
「あれはあくまで“たとえ”ですよ。そう言うサボさんは?」
「そんなに乗ったことはねえが…。」

そう言ってちらりと厩の入り口に掛けられた手綱を見、今度はりんごを見た。りんごの傍にある柵には今朝と同じバスケットがある。中には水筒類と午後のお茶の時間のおやつと、後でりんごが摘みに行くというキイチゴの為の箱が入っている。

「りんご、馬の乗り方は分かってるんだよな?」
「え?ええ。何度か乗りましたから。」
「なら大丈夫だ。」

俺が満足そうに言えば、彼女は青色の馬を撫でつけながら首を傾げた。



▼▼▼




「りんごっ、大丈夫か?」
「う、わ…っ。この子、噂通りすごく揺れますねっ…」
「本当だな!なかなかいうことを気かねえが、おっと、…だんだん慣れてきたな。」

そう言って後ろの彼は、綱をぎゅっと握って何とか噂に違わぬこの気性の荒いこの馬のコントロールに意識を集中させることに努めていた。一応何度か乗馬をしたことはあったので、揺すられても何とか坐骨の位置を保つことが出来たが、持っているバスケットが落ちないようにするのに苦労した。背中にはぴったりとサボさんの胸がつけられ、ユスティナが動くたびに背中がぐいぐい密着する。普段ならば恥ずかしい一幕であるが、今はとにかく落馬しないことが先決でそれを意識するどころではなかった。サボさんも私が落ちないように最善を尽くして足や手で支えてくれている。美しくエネルギーに満ち満ちた青馬はあっという間に私たちを乗せて、お婆さんの家の敷地を抜け、牧草地帯を走っていく。牧草地帯には放牧された羊たちが草をのんびり食んでいて、こちらの騒ぎなど知らん顔であった。二匹の番犬だけがこちらを見て愉快そうに舌を見せていた。

「ここをまっすぐいって丘を越えたあたりの、あの麓の方だったよな?」
「ええ。そうですっ…」

昼下がりの高原の空は真っ青で、雨上がり特有の透明感があった。綿菓子のような雲がのんびり動いている。馬はそんな高原を一目散にかけていく。それこそ風のように。まるで物語の一場面のように思えた。遠くに石造りの建物や、時折牛を連れた牧人たちが私たちを見て面白そうに笑った。このままキイチゴの取れる麓の方まで走ってくれるかと思いきや、気性は荒いがマイペースなこの愛らしい青馬は、ふんふん、と鼻を鳴らしたかと思えば方向を転換し、小川の方へと走ってしまった。

「あ、こら!そっちじゃねえって。」
「…喉か湧いたのかしら。」

サボさんが一生懸命手綱を引いたものの、結局私たちはユスティナに連れられて、小川の傍にまでやって来てしまった。ユスティナは見晴らしのいい高原の中でぽつぽつ木の生えた日陰のある場所であった。ユスティナは其処の小川に鼻先をつけると、そのままごくごくとお水を飲み始めた。その様子を見た私たちは顔をあわせるとお互い苦笑いをして、仕方が無く私たちも休憩をすることにした。サボさんは手を小川にさらした後、木の傍に合ったちょうどよい岩に腰を下ろした。そしてその隣にタオルを敷くと、私に其処を勧めた。

「ここに座るといい。」
「でも、あなたのタオルが汚れてしまうわ。」
「大丈夫だ。…それにこのタオルは実を言うと俺のじゃなくて、婆さんから借りたやつなんだ。」

そう言って悪戯っぽく彼は笑ったので思わず私も笑ってしまった。彼の御好意の通りそこに腰を下ろすと、バスケットから水筒を取り出し、彼に差し出した。中には紅茶が入っている。彼はそれを素直に受け取るとユスティナと同じように喉が渇いていたのか一気に飲み干した。彼は一通りこの高原を眺めると、肺に溜まっていた息を吐き出した。その横顔はとても穏やかで、軍人とは思えぬほど安らかであった。先ほどまで横にいる彼と密着していたのだということを今更思い出して、静かに黙ったまま、視線をできるだけ彼に移さぬ様に小川の傍で草をはむユスティナに集中させた。本当に美しい馬だと思う。何もかもが物語の中の一場面のように美しかった。まるでこんな自分が御姫様で、金髪の彼が王子様のような感覚だ。こちら側からは彼のその横顔の傷がよく見えるので、昔見た絵本の中の、呪いをかけられて怪我を負わされた王子の話を思い起こさせるようだった。その物語の王子は正義感の強く、傷を負っているが見目麗しく、そして嘘や隠し事が大の大嫌いな王子様であった。意地悪な魔女に騙された正直者の貧しい村娘を助け、そしてその娘と最終的には結ばれる。サボさんは間違いなく心優しく怪我を負ったまさに物語の王子様だけど、私はどうだろうか。現実の私は間違いなく魔女だ。嘘をついて隠し事をし人をだましているのだから、ヒロインなんかではない。それが態と出なくても、きっとそうなのだ。

「ここはいいところだな。」
「…ええ。都心よりもここが好きです。のんびりしてて。」
「まるで物語の舞台みたいだな。」
「本当ですね。私もそう思っていました。昔話。正直者で正義感の強い王子様が、貧しい村娘と結ばれる話。」
「ああ、あの話か。俺も知ってるよ。たしかに、あの話の舞台は美しい草原は出てくるし、何しろあの王子様が乗っている馬が黒いんだよな。」
「そうです。白馬ではなくて王子様は敢えて黒い馬を選んで意地悪な兄には白い馬を譲るんですよね。自分も怪我を負っている身だし、見てくれなんかは関係ないって知っていて。」
「それで魔女だけじゃなく、国の善良な市民に圧政を強いる大臣や貴族たちを懲らしめるんだよな。今考えれば、子供に読ませるには過激と言うか、随分リベラルな話だよな。」
「サボさんに似てますよね。」
「え?」
「ほら、その物語の王子様も怪我を左の顔に負ってましたよね。それで優しくて、金髪で、気性の荒い青馬に乗るのも上手だわ。」
「随分俺を買い被るんだな。俺はもしかしたら王子どころか、嘘つきの魔法使いかもしれないぞ。」
「あはは、それはないですよ。……嘘つきの魔女は私だもの。」
「………」

そう言ってはっとして視線を横に向ければ、想像以上に驚いたように、そして少しだけ悲しそうな目で私を見る彼の顔が見えたので、慌てて続きを言った。

「私、意地悪なんですよ。嫉妬深いし、それでいて小心者で。ほら、ピアノのこととなると全然見境が付かなくなって、よく同じピアニスト仲間や先生に突っかかって“魔女”だなんて渾名までつけられたんですから。」
「それだけ熱心ってことだろう。いいことじゃないか。随分可愛らしい魔女もいたもんだな。」
「それが全然可愛くないの。嘘までついてたもの。」
「りんごがか?」
「ええ。できないのにこの曲弾けるって言って、後になってすごく苦労したわ。でもその焦ってできるようになるために猛練習したから、かえって上達が速くなりましたし。」

ふふ、と笑えば彼も笑ってくれたのでひとまず安心して胸を撫で下ろした。彼は石から立ち上がると、ようやく腕を捲ってユスティナの方に近づいた。ユスティナももう十分満足したのか、大人しく彼を待っていたように顔を上げた。

「さて。早いとこ木イチゴを摘んで婆さんのところに戻った方がいい。あんまり遅いとあの婆さん何言いだすか分かんねえしな。」

サボさんは心底嫌そうにそう言って私に苦笑いをした。よく解らないが、サボさんはおばあさんが苦手らしい。サボさんは鐙に足をかけてすっと器用に乗ると、私を見た。私も立ち上がって彼のタオルとバスケットを持つと、ユスティナの下へと近づいた。彼はまず荷物を預かると、手を差し出した。そして一気に腕一本だけの力で引き上げると、先ほどと同様前に私を乗せた。さっきよりも格段に安定しているのはユスティナが暴れないからだろう。私がそうぼんやり思った刹那、後ろからふ、と笑う声が聞こえた。

「ようやく俺たちを受け入れたみたいだな。」
「そのようですね。流石お姉さんになるだけあるわ。」

いい子ね、そういって頭を撫でれば彼女は小さく鼻を鳴らした。そして後ろの彼は手綱を引いた。それ、と言った合図とともに、美しい青馬は王子様と魔女を連れて、再び高原へと走り出でた。あの物語の美しい幸せな終焉とは全く別の終焉へと向かって行くようであった。


2016.
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