夜想曲(nocturne)。確かにその名に相応しい曲であると心底思った。さみしいような、でもどこか蒼い月が優しく自分たちを照らすような曲である。その繊細な彼女の指が織り成すトリル(※)を耳にするたびに鼓膜と自分の胸の柔らかい部分が揺さぶられるようである。ピアノの音を耳にしながらかすかに自分の手のひらを見る。彼女は自分のように人を傷つける術を恐く持たないが、自分はこれだけの音を奏でる術を持たない。彼女は自分のように直接的な危険から人間を救済する術を知らないかもしれないが、自分は彼女のように演奏を以てして心を救済する術を知らない。人間というのはよくできたもので、自分には到底真似できない芸当を他人が持っていると、素直に感動することができるらしい。彼女の演奏はまるで彼女の髪飾りのように繊細であった。蝶が音もなく羽ばたいて飛んでいくように、彼女の指先は静かに途切れることなくその音の珠を紡いでいくのだ。まるで夢の中の出来事のようで、意識が半分、湖の上の小舟の中にあるようであった。彼女の弾くこの曲は聞いたことがあった。きっと有名な曲なんだろう。勝手な感想だが、りんごはあまり激しく明るい曲よりも、雨だれや、こういったどこか寂しいような、胸が詰まるような静かな曲が似合うと思った。これはきっと彼女のどこかにこういった寂しさの影を見出すことができるからであろうか、それとも彼女の持つ“隠し事”が放つ力のなせる業なのか。いずれにせよ、今の自分には確かめる術も資格もないのだった。自分はただ、客船で偶々出会った男で、彼女が自分にとって美しい魅力的な女性で、葉巻が上手く吸えなくて、ピアニストであること以外はほとんど知らないし、自分も彼女にとっては顔に傷を持った男で、得体の知れない軍人の参謀で、音楽の知識を全く持ち合わせていないナンセンスな男なのだろう。俺は本当の正体を彼女に知られていないし、彼女も自分の隠し事を俺に教えようとは思っていないのかもしれない。これから先も恐く、彼女に打ち明けることはないのだろう。そして、今回の任務が終わればもう彼女と接触する必用もなくなる。そう思うとなぜだか胸がちくりと柔らかく痛んだ。これは彼女に真実を告げずにそのまま彼女の目の前から去ろうとしている自分への呵責なのか、それとも別の理由の痛みなのか。今の自分には知る由もなかったし、正直知りえない方がいいようにさえ思った。もし知ってしまったら、恐く自分はそう遠くない彼女との別れを、平穏に迎えることができそうにないのではないかと、直感的にそう思った。

「…………」

彼女の曲を聞いているうちに、無性に懐かしさがこみ上げて来た。それはクライマックスにゆくにつれてそうであった。午後の演奏で聞いた時の感動とはまた別の感傷が、雨に濡れて布に滲んでいくようにじんわりと湧き上がるのを感じた。

「…サボさん?」
「ああ、すごくいい曲だな。」

自分でも何故ここまで胸が詰まるか知れないが、悟られるように欠伸混じりに目尻に滲んだそれを手で覆う。演奏は静かに幕を閉じ、静寂が再び訪れた。りんごは最初心配そうにこちらを見ていたが、俺があくびをするのを見ると安心したように小さく笑を見せた。

「こんな夜更けに聴いたら眠くなっちゃいますよね、こんな曲。」
「いや、そんなことない。昼間の雨だれも良かったけど、これもまたいい曲だな。今夜にぴったりの曲だった。ありがとう。」

そう言って手を差し出せば彼女も笑って手を重ねた。やはり予想通り冷たい手だったが、指先は今しがた動かしていたせいか仄かに暖かかった。そして彼女は照れくさそうに笑うとその手をパッと離し、それから素早くピアノを片し始めた。

「もうそろそろ休みましょうか?サボさんもお疲れでしょうし。私が連れ回しちゃったから…。」
「いや、そんなことない。そもそも忙しいところを無理言って俺が頼んだんだからな、気にするな。」

そう言って自分も椅子を鏡台の方に戻すと、ティーセットの乗った盆を持って部屋をあとにした。下に降りたとき、ちょうどそこに居合わせた(というよりも完全に盗み聞きされていたような雰囲気だ)婆さんと目が合い、ニンマリと笑われたのでなんだか気まずくて苦笑いをして、差し出された皺皺の手に黙ったまま盆を手渡した。




▼▼▼




「…寒くないか。」
「ええ、大丈夫です。サボさんは?」
「俺はここ数年風邪なんかひかねえよ。」

そう言って後ろで肩を揺らすような笑みが聞こえた。

「………」
「………」
「…おやすみなさい」
「…ああ、おやすみ。」

それからお互いぎこちなく広いベッドだというのに端に寄る。ぎしりと軋む度、少しだけドキりと胸がはねた。結局、ダブルサイズのベッドがせっかくあるのだし、したの大きなソファはフレディに取られているし、ここのソファはのびのび寝れないしで、あれから小一時間も話し合った結果、端によって一緒に眠る、という妥協案が成立した。ほんの数時間前まではまさか異性と褥を共にするだなんて予想もつかなかったが、致し方があるまいとお互い自分で自分を納得させると、案外思っていたよりもスムーズに事は運んだ。お互い今日の冒険で疲れているせいもあるかもしれないが、今夜はベッドで寝ようが、のびのびと眠ることはできそうにない。ベッドに上がって用意された二枚のブランケットと羽布団、枕四つを分けて、横になる。彼はきをつかって私に布団を全部好きに使うように勧めたが、さすがにこの雨の降る夜は寒かろうと私が無理やり肩までかけてあげればおとなしくなった。そばのランプを消し、お互い別の方向を向いて背中合わせで横になる。

「………。」

まぶたを閉じてもなかなか寝付けず、先ほどのノクターンが頭の中をぐるぐる回っていた。男性と寝室を共にするのはやはり非常識であるが、この息が詰まるほど静かな闇の中で一人でいたならば気がくるっていたかもしれない。以前此処に来たときは別の音楽女学生とたびたび来ていたから感じることは無かったが、一人で眠っていたならば同だったろう。またあの胸が詰まる思いをするところであったかもしれない。しばらくすると、かすかに規則正しい寝息が聞こえてきて、ふと横を向けば、男性の背中が見えた。それを見た途端に思わず笑いがこみ上げてきて、思わず口元を抑えた。はだけたブランケットをかけなおし、彼の肩までかける。そして向きなおすと、自分もようやく眠気が襲ってきて、ゆっくりとまぶたを閉じた。意識が薄らいでいく中、微かに肩に柔らかなものが優しく掛けられた気がしたが、それが現実だったのか夢だったのか、自分でも定かではなかった。




▼▼▼





「……ん、」

瞼の裏の眩しさにゆっくりと意識が覚醒し、唸ってゆっくりと瞼を開ける。眩しさに目を細め、それから窓の外の景色をぼんやりと眺めていたが、やがて上体を起こした。すぐさま隣を向けば、そこには誰もおらず、思わず辺りを見回した。しかし、自分以外誰もおらず、酷くひっそりしている。その静寂を破ったのは、幽かに間遠に聞こえる雄鶏の声であった。それを聞いて、ようやくベッドから起き上がり、二重の窓を開け、木々の隙間から漏れ出る日差しを一身に受けた。夕べの雨の湿り気を帯びた心地のいい朝の風が部屋を包み込み、自分の前髪とカーテンをふわりと揺らした。すると今度は間遠に聞こえたその雄鶏のけたたましい声が、直接耳に届いた。ようやく覚醒した意識を持って部屋の奥に戻ると、クローゼットの中からかけてあった、この家の家主である婆さんから借りたワイシャツとスーツベスト、ズボン、自分のブーツを手に取り、ベッドに乱雑に放るとシャツに袖を通した。着替え終えてひょっこりと鏡台の方を向いて自分の顔を見れば、未だ眠そうな瞼を引きずっていたので思わず笑ってしまった。

「………。」

鏡台の上を見てみれば、彼女の持ち物が並べられていた。手鏡にポーチ、手帳に、飴玉に、見覚えのある木箱があった。木箱に触れて、その見事な蔦の彫刻を指先で触れる。まるでそれらの凹凸を展示のように入念に触って、つい三日前に味わったバニラの葉巻の味を思い出していた。昨夜の彼女の演奏を思い出して暫く黙った。鍵盤に触れるときの彼女のあの細く美しい指先が、今度は鍵盤ではなく自分の指に触れることを想像してみた。この木箱の彫よりも酷く繊細で、そして冷たいように思われた。ふと、ピアノの方を見れば、昨夜の楽譜が閉じられた蓋の上に乗っていて、風に揺られてひとりでにぺらぺらと捲れていた。新しいフェイスタオル手に取り、ようやく部屋を後にする。踊り場を抜け、下まで降りると朝食の準備をするいい香りが鼻を掠めた。そのまま外の井戸まで行こうとして玄関を通り過ぎようとした矢先、突然扉が開き、外から清閑な顔立ちをした青年と目があった。男は此方を見ると屈託のない笑顔をみせたので、こちらも口角を上げた。

「おはよう、随分寝てしまったようだ。」
「ああ、おはよう。いや、まだ朝の五時だよ。ここの朝は早いんだ。」
「そうだったのか…。随分太陽がまぶしかったからもっと時間が経ってるもんだと思ったんだがな。」
「昨夜は雨だっからな。雨夜のあとの朝はこんな感じだ。空気がすっきりしている。」
「そうだな。顔を洗ってくる。」
「井戸は出てまっすぐ左の突き当りだ。楠木の傍にある。」
「ありがとう。」
「どういたしまして。…それにしても、その服、俺が着るよりも似合ってるな。」

そう言って青年は笑うと先に中に入ると断ってリビングへと向かって行った。自分よりも年下であろうが、その落ち着きようとがっちりした体つきは目を見張るものがある青年である。聞いた話ではあの青年は婆さんと爺さんの血のつながった息子ではなく、養子なのだという。通りであの呑気な婆さんとは違って随分凛々しく賢そうで、体格も自分と変わらずがっちりしているわけであると納得がいく。もしかしたらあの婆さんも、若いころはもっと凛々しかったのか知れないが。井戸の水を汲んで桶に水を淹れると、そのまま掌に水を掬って顔に付けた。冷たくて心地のいい感覚に、目がすっかり覚め、序でにそのまま口を漱ぐ。フェイスタオルで顔を拭いていれば、納屋から昨日見た猫がしっぽを立てながら上機嫌に何かを加えて出てきて、その後女性の焦った様な声と共に女性が後に続いて現れた。

「フランソワ、駄目よ、それは犬用のごはんなんだから。」
「りんご。」
「あ、サボさん。おはようございます。」

彼女は俺に気が付くとぱっと笑顔をみせた。慌てて自分の横を通ろうとした猫を抱き上げると、猫は俺の腕の中で大人しくなった。口に咥えていたのはジャーキーであった。彼女は俺に近づくと、猫の口からジャーキーを取り苦笑いをした。手にはバスケットを持っていて、中にはいくつかの卵と、ジャーキーの缶詰が入っていた。

「フレディの飯か?」
「いいえ。これは牧羊犬のワンちゃんのです。もう二匹いるんですよ。いつも納屋に居ますよ。」
「そうなのか。ここは随分動物が居るんだな。」
「ええ。いまちょうど卵を取った後にワンちゃん達に餌を上げてたんですが、いっつもこの子が横から勝手にくすねるので困ってたんです。」
「ははは、まさに泥棒猫だな。」

そう言って腕の中の猫を見れば、猫はにゃあん、と鳴いた。

「もう少しで朝ごはんですから、サボさんも中に戻って下さいね。」
「ああ。」

そう言って彼女は横を通り過ぎた。屋敷に向かう彼女の背中を見送りながら、夕べ奏でてくれた曲の一説が心の内に湧き起ってきて、耳の裏で再び演奏がこの場で起きているかのように聞こえてきた。上を見上げれば楠木の木々委の隙間から木漏れ日が落ちて、自分の額や頬を照らした。さわさわと風が通り過ぎ、あの静かで幻想的な夜がまるで嘘のように思えて、そう思った刹那、思わず自分でも無意識のうちに彼女の名を呼んでいた。

「りんご!」
「はい?」
「昨夜の曲の名前ってなんだったか、思い出せないんだ。」


突然の問いかけに彼女は振り向きざま、少々驚いた様子であったが、何が可笑しいのかすぐさまくすくす笑った後、優しい目をして答えた。

「ノクターン第2番、変ホ長調、作品9-2」
「…やっぱり味気ねえな。」

俺がそう言えば彼女は今度は肩を揺らして笑った。


2016.02.24.

※トリル(trill)
●トリルは、親音符と2度上の音の間を震えるように細かく行き来する装飾音のこと。
●トリルは「tr.」で示されるが、「tr」のあとに波線を付け加えていることがある。
Site:「楽典」、URL:http://楽典.com/gakuten/soshokuon.html,
検索日:2016.02.26.09:16

prev next

×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -