エースはみなしごだった。初めて私の隣の家に来たとき、彼の家族はおじいちゃんであるガープさんしかいなかった。一緒に住んでいたのは町の端で飲み屋さんを経営するダダンさん一家で、いつも賑やかで悪人面の人ばかりが良く出入りしていた。町内の人たちは怖がることもあったけれど、とりわけダダンさんと親しくしていた父親は別段気にしなかったし、母もエースのことを気に掛けていたようで怖がることは無かった。エースは最初私にとても冷たかった。と言うよりも、あまり興味がないように思えた。小さいころのエースはそれはそれは不良少年で(今もあまり変わらないように思えるが)、あっという間にこの町のガキ大将に君臨しだした。私立の小学校しかないこの町で彼は必然的にそこに通うようになり、その制服に身を包んではいたが、ほとんど学校に通うことなく、いつもその辺の森や近くの海、川、そしてこの庭で遊んでいた。いつも一人でいた彼は、そのうち、新しい友達が出来たと見えて、一層元気よく野原を駆けまわり始めた。同じ制服に身を包んだ私立校に通う同級生の男の子、それがサボだった。彼らは意気投合したようで、サボもまた、ほとんど学校に通わなかった。その頃の二人は、お互いに寂しさを埋めるようにいつも一緒に居たのが印象的だった。



▽▲




「さくら。」

名前を呼ばれてうっすら瞼を開く。こたつの温かさと彼の胸の温かさでうつらうつらしていた意識がゆっくりと浮上していった。テレビの音はもう聞こえない。電気は消してあったが、傍のランプシェイドの柔らかい光が幽かに部屋を照らしていた。エースは私を抱きかかえるようにしてこたつで静かに横になっていて、私は彼の成すがままに身を委ねていた。とてもあったかくて酷く眠いのだ。エースは静かにわたしのおでこに唇を寄せると、いつも豪気な彼にしては物珍しく静かに話を始めた。きっと夜の静寂が彼をそうさせたのだろう。表情を伺いたくても、視線の先には彼の首筋とぷっくりと突出したのど仏しか見えなかった。

「さくらはどこかに行きてえとかねえのか。」
「どうしたの、藪から棒に。」
「ガキの頃はよく話したじゃねえか。」
「エースはいつもアラビアンナイトみたいな話してたね。海全部制覇するとか言ってさ。」
「でも本当に実現しそうだぞ。」
「すごいじゃん。」
「まあな。」

息を吸い込めば彼のいいにおいがした。会うたびに成長する彼に思わず羨望の念さえ起る。世界を回っていろんなものを見る度に彼は大きくなっていく。反対に、私はこの狭い島国の中で社会を知るたびに肩身が狭くなっていく。何と言う皮肉だろう。

「仕事で手いっぱいでそんなこと考えもしなかった。」
「お前それでよく頭おかしくならねえよな。」
「可笑しくなりそうなのをなんとか踏ん張ってるの。誰かさんとは違って我慢できるタイプだからね。」
「嫌味な奴だな。」

そう言って彼はずるりと視線を此方に合わせると私の鼻をつまんだ。いひゃい、と言えば彼は満足そうにけたけた笑った。

「で、今後はどっか行くご予定はないのか?御嬢さんは。」
「ないかなー。」
「今の仕事ずっと続けるのかよ。」
「それも違うけど。いつかは転職しようと思ってるよ。事務職だからお休みは安定してるし、ほとんど家でないからお金は溜まる一方だし。」
「そう言えばお前、写真はどうなったんだ?写真好きだったろう。何度か雑誌に送って載ったり賞もらってたじゃねえか。」
「学生時代はね。…もちろんできれば仕事にしたいけど、そこまでの技術もないし。」
「そんなことねえだろう。お前の移す海や空や、庭の植物のの写真、俺すげえ気に入ってんだぞ。お前がくれた写真、今でも財布の中に入れてあるんだ、お守り代わりにな。」
「なんだ、あの写真、まだ持ってたの?」

思わず今度は私が笑う番だった。彼にあげた写真はダダンさんの酒屋さんを背景に、私と父、エースと、ルフィとサボ、おじいちゃんのガープさんにダダンさんたちが映っている集合写真だ。エースがこの国から旅立つ前の話だ。私がお金を半年貯めて買った新品のニコンを三脚に付けて時間差で録ったものだった。あの日のことはよく覚えている。あの日は確かエースのお父さんの命日で、エースのお父さんとお母さんのお墓詣りに一緒に行った直後に撮った写真だったのだから。

「あの時はまだ皆一緒によく居たよね。楽しかった。」
「ガキだったからな。」
「気が付いたら三人ともいなくなっちゃうんだもの、寂しくて死んじゃいそうだった。」
「その割にはしっかり生きてるように見えるがな。」
「顔にはあまり出さないタイプなの。」

エースは大学を卒業してから、兼ねてから計画していた世界を回るという突拍子もない計画を本当に実行に移してしまったのだ。スポンサーはガープさんの知り合いを伝手として存外すんなりいったらしく、彼は瞬く間にこの町を後にしてしまった。義弟のルフィも今年大学卒業を迎えるが(そもそもこの兄弟が大学を卒業できたこと自体行幸であると考えるのは私だけだろうか。サボなら何となく分からなくもないが)、エースと同じ道をたどるつもりらしいことは前々から聞いていた。寮生活のルフィとはもう数年前から毎日会えなくなっていたが、それでも月に2,3度以上は一緒にご飯を食べるし、なんだかんだ楽しく過ごしていたので、ついに彼までもどこかに行ってしまうのだと思うと少しだけ胸が痛んだ。好きなことをするのだから、本当は喜んであげるべきなのは分かっているけれど。

「私も本当は皆みたいに好きなことして過ごしたいよ。私、正直言って写真諦めては無いの。今は趣味だけど。」
「やりゃあいいじゃねえか。俺が冒険するよりもお前が世界回って写真撮って本売る方がよほど世の中の為になると思うぞ。」
「そう簡単に行くかしら。」
「人生は何事も挑戦だろ?」

くいっと口角を上げてそう言うと、彼は私のおでこに自分のおでこをくっつけた。

「なあ、さくら」
「何?」
「まだ俺に惚れてるか。」
「はあ?何を、今更。」

思わず呆れて間の抜けた声を出せば、彼はだよな、と言った具合に苦笑いをしたが、すぐさまいつもの表情に戻って、それから私の頬に自分の手を添えた。ごつごつとして、ざらついたようなその手は、いろいろなものを触れてきたような神聖な掌のように思えた。私の知らない国の花や草木、水、動物や大地に触れてきた、大きくて暖かな手だった。

「じゃなかったら家に入れなかったわ。」
「ははは、そうだよな。」
「何?ようやく待たせるのが申し訳なくなったわけ?」
「まあ、そうだな。そんなところだ。」

彼のその返答に思わず面食らって目を丸くする。彼の瞳はいつもの挑発的な目ではなくて、とても真剣なまなざしだったものだから私は思わず口を噤んだ。この目は幾度となくみたことがあった。何かいいたいとき、悲しいことがあったり、私に好きだと言いはなったあの夜も同じくこの瞳をしていた。

「あの時、俺ァお前に“お前の人生の半分俺にくれ”って言ったよな。」
「そう言えばそんな横暴なこと言ってたわね。」
「失敬だな、これでも結構真剣に言ったんだぞ。」
「随分大雑把でエースらしいなって思ったわ。」
「悪かったな、大雑把で。」
「あら、褒め言葉だったのに。」

クスクス笑えば彼は不満そうにぐっと眉間に皺を寄せたが、すぐさま自分もふ、と小さく吹いた。

「でも私はその言葉のおかげで手紙も電話もロクになくても、仕方がないから待ってやるか、って思ったわ。」

私がそう言って笑えばエースは少し驚いたような顔をした後、一瞬嬉しそうな顔をして、それから真剣な顔に戻った。彼も随分幼いころに比べて表情が豊かになったものだと頭の端でなんとなく思った。彼は少しの沈黙ののち、私の頬に手を添えて語り始めた。

「親父が出来たって言ったよな。」
「ええ。いい人なんでしょう?」
「ああ。」

即答。にっこり笑って彼は言った。

「さくらに会わせたいんだ。」
「どこにいらっしゃるの?」
「この国には居ねえよ。」
「海外かー」
「そうなんだ、だからお前に相談しようと思ってな。」
「相談?」
「ああ。」

ふにふにと私のほっぺたを好き勝手に柔くつまんだりさらさら触れながらそう言うと彼はじっと私を見据える。私も右手を伸ばして彼の謎の傷跡が残る左頬に触れてみた。この傷はどうしたのかと問えば、彼は怪我した、とだけ言って目を泳がせたので少し気になったが、とりあえず今はあまり詮索しないことにした。久しぶりに会った時の彼は異国の不思議なにおいを放っていたが、今のエースは既に私と同じ洗剤の香りがする。

「親父は世界中を移動してるんだ。」
「へえ。冒険家さんかなんか?」
「まあな。さくらが聞いたことはあるか分からねえが、どの国でも有名らしい。世界二十か国以上で翻訳本出してるらしいからな、若いころからそうだ。」
「え、めっちゃすごい人じゃない。で、今どこにいるの?」
「南極。」
「え?」
「だから、南極。」

今度は私が驚く番だった。彼は別段気に留める様子はなく、むしろ何故かわからないが嬉しそうににかっと笑うと白い歯を見せた。そして戸惑う私を余所に、エースは続けた。

「俺はお前の人生の半分は貰うことはもうすでに確定してるだろ?」
「え?うん、でもそれは、」
「じゃあ、その半分ともう一年、俺にくれないか?」
「………それ本気?」
「俺がこんな冗談言うと思うか。」

言わないと思う、いや、でも南極って、と私が思わずドン引きしたように表情をひきつれば、エースは穏やかな顔で優しいまなざしで私を見た。

「まさか、これを言うためにわざわざ戻ってきたの…?」
「ああ。」

何の迷いもなくそう言って私を見つめる彼に思わずどきりとしてしまい、心臓が跳ねた気がした。これは突然の南極発言に吃驚したのか、彼のそのしぐさに対するときめきなのか、もはや自分でもよく解らなくなってきた。

「なあ、さくら。俺と行こうぜ、南極。」
「…でも、いきなり南極って。」
「写真撮ってくれよ、すげえいいところなんだ。お前の夢も叶うし親父にも会わせられるし、一石二鳥だろ?」
「そんな上手くいくかしら、私海外なんて、修学旅行のオーストラリア以外行ったことないのに。」
「心配すんなって、俺が付いてるだろうが。」
「何かよく解んないけど余計に心配。」
「なんでだよ………なァ、真剣なんだ。一緒に来てくれ、頼む。」

余りの真剣さに思わず簡単には口を開けぬような気迫さえ今のエースにはあった。日頃あれだけ適当でやりたい放題の彼が、このように真剣なのは本当に珍しいのである。彼はじっと私を見るものだから、私は視線をうっかり話すことも出来なくて、彼の夜の闇に似た真っ黒な瞳に吸い込まれそうになった。

「………ちゃんと旅費と、一年分のお給料出してくれるなら、」
「金かよ。ま、心配すんな、そこはちゃんと最初っから考えてる。一年分の給料は………後で親父に言う。」
「ええ?親父さんに頼むの?」

私が呆れてそう言えば彼は何がそんなにおかしいのかとても可笑しそうにけたけた笑った。にこにこする彼を尻目に、私は頭の中で会社になんて言えばいいのかなあ、などとまるで他人事のようにぼんやり思った。エースやエースの周辺にいる人々の突拍子もない言動には昔から付き合わされているし、これでもそれなりに耐性が付いていると自負していたが、まさかこの年にもなってまだまだ驚かされることがあるのだと、不思議と冷静に思う自分が居て、それに対して少なからず新鮮な驚きを感じていた。


2016.02.15.

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