私が彼を始めてみたのはもう十年以上も前のことだった。その日は雨がしとしとと降る雨の日で、お気に入りの桃色の靴が濡れてしまって、幼稚園の帰り道で酷くぐずっていたのを覚えている。家に帰ろうと母の手に引かれて家へと向かう帰り道で、彼と目があった。自分の家の隣、小さな空き地を挟んだすぐ隣の空家であったはずの家の前で、彼は前髪を濡らしたまま、家にはいることなくじっとしていた。その顔はとても怖くて、眉毛なんか吊り上っていたし、眉間にはしわを寄せていたし、私と同じくらいの歳だろうに酷く大人びていて、とても怒っているみたいだった。

 私はその家を幽霊屋敷と呼んでいた。近所の人も、野放しにされてボーボーに生えている空き地の草や、中央にある大きな古い大木、うす暗くツタが四方に絡みつくその大きな洋館を見てはそう呼ばずにはいられなかったのだろう。庭の中央に生えた大木は、ぐるぐると渦を巻いていて、まるで地下へと続く螺旋階段のようでとても奇妙で、夜、窓の向こう側に見えるこの木を見る度に私はなんだか心細くなって、木枯らしが枝を揺らす度に怖いような寂しいような気持ちになった。彼は蔦の絡まる黒門の前で静かにたたずんでいた。とても冷たい雨に濡れて。

母はそんな彼を見て気の毒そうに声を掛けたが、無視されて、でも居た堪れなくて私を先に家に入れて、それから彼に傘を差しだしていた。彼は案の定最後までむすっと黙ったままで傘を手にしようとはしなかった。そのうちにばちりとまた視線がぶつかる。目を細めて、私をまるで品定めするみたいな目だった。でも、その時の私は怖いという感情よりも、彼の愛らしいそばかすのほっぺたに雨が流れ落ちていくのを見て、その雫は実は彼の涙なんじゃないかと思えて、何だかとても悲しかったのだ。



▽▲




 歳の瀬だというのに午後三時が過ぎるまで何かをする気が起きずにベッドの上でごろごろしていたが、さすがに外の空気が吸いたくなって、簡単に化粧を済ませ、紺のダッフルコートを羽織り手編みのマフラーを巻いて外に出た。冬の午後四時を過ぎた世界はもうすでにダッフルコートの紺と同じくらい暗くてしんとした空をしていて、鼻孔を通る空気は痛いほど冷たかった。鞄の中には読みかけの文庫本とルーズリーフ、ペンケース、お財布にハンカチしか入っていなかった。

 とりあえず賑やかなところに行きたくて駅までの煉瓦道を歩く。途中で同じ年くらいのカップルや、子供を連れたお母さんとすれ違った。特に用事もなかったけれど、駅前の小さな喫茶店に入り体を温めようとダージリンを頼んでそれを呑んだ。窓際の席で静かに文庫本を読みながら、ふと、今日も父は朝方にに帰ってくるだろうから、別段早く家に帰る必要もないだろうと思った(もしかしたら今日は帰ってこない可能性もある)。父はどうせ商店街の行きつけの飲み屋さんで友達と酒屋のままとべろんべろんになっているだろうから。だから今日は大分帰りが遅くなっても平気だ。

 よく解らないけれど、今日は外に出た途端、すぐに帰ってはいけない気がしていた。所謂直観である。何かが私を待っているような気がした。こんな気持ちは本当に久々だった。それで私は夕食もこの喫茶店で済ませようと、店長おすすめのチキンの包み焼きパイを頼んだ。とてもおいしかったけれど、ボリュームがすごくて当分鶏肉はいいやと思えた。文庫本をすべて読み終えるまで喫茶店でゆっくり過ごしていたのだが、流石に八時を過ぎた時点でなんだかここで長居をするのも申し訳なくなって、いったん外に出た。

 お店を出る際に喫茶店の店主が、私に対してどこか愁いを帯びたようにニコリと笑ったので、私もなんだかよく解らずに反射的に笑顔を返してごちそうさま、と小さく答えた。きっとあの初老の店主は私が男性と待ち合わせていたがすっぽかされたように思ったのかもしれない。もちろん私は約束などしていないし、そもそも彼氏などはいない独り身の女なのだけれど、今の私は確かにまるで誰かの約束をすっぽかされたような、誰かに置いてけぼりにされてしまったような、とても寂しい気持ちがしていた。

「(やっぱり私の直感は駄目ね、)」

いいことがありそうな気がしたのに。そう思いながら、やることもないので本屋さんに寄ってから結局帰ろうと思って駅の地下を歩いた。地下の本屋さんは思っていたよりも人が多くて、少し安心した。でも不思議と今日は面白そうな本が見つからなくて、すぐに出て行ってしまった。もう喫茶店に行くのもおっくうで、結局私は地下街を歩きながらお店の中をくまなく、注意深く見ていった。そうやって二三時間は潰したのだろうか、だんだんと年の瀬で家路につく人、どこか初詣に出ていく人の波で駅はごった返してきたので、私はくしゃみを一つすると、心地の悪さから逃げようと踵を返して家路を歩き始めた。すれ違う人が皆同じ顔をしているように見えた。

 先ほど通った煉瓦道を通りながら、空を見上げれば冬の大三角形がくっきり見えた。空を見上げながら今更だけれど、手袋持ってくればよかった、とぼんやり思った。仲良く並んだ背丈の同じ古い街灯だけが私を温かく照らした。もうこの時間帯になるとこの辺は殆ど誰とも合わない。左手にはうっそうとした木々が生えていて、小さいころはとてもこの道が怖かった。幼稚園の帰り道、小学校で帰りが遅くなった暗闇の中でこの道を通るときは、私は必ず左手を見ないようにしていたし、必ず私は母と、そして彼の右側を歩いた。どうしても怖い時は、手をぎゅっとつないだ。今でも夜遅くにここを通るときは少し怖いけれど、もう私をかばってくれる人は居ないのだから、我慢するしかない。

 ぼーっとしながら煉瓦道をカツカツとブーツを鳴らしながら歩いていれば、カチカチという音と共に、一筋の光が足元写った。自転車だろうと反射的に右側に寄ったが、それは私を追い越すことは無く、寧ろ私の歩調に合わせたようにすぐ背後をついて回った。流石にぼうっとしていた私でも可笑しいな、と思ってすぐ左側に迫っていたそれに視線を寄越せば、視界いっぱいに眩しい自転車のライトが映った。直後、左側に暖かな人の気配を覚えて、驚いたようにそちらを向く。そこには鬱蒼とした林は見えず、代わりにくいっと口角を上げたとても柔らかに笑うそばかすの頬が視界に見えた。私がとても見たくて見たくて仕方がなかった顔だった。思わず足を止めれば、自転車も止まった。

 何も言えずにただただ口を幽かに開いたまま、目を大きくしていた。自転車を押していた彼は私に目を合わせるた。折り畳み式のスタイリッシュな自転車で、いつか私が欲しいなあ、と思っていた自転車とそっくりだった。彼は私が知っている記憶の中よりも幾分か背丈の大きくなっていて、肩もがっちりしているように見えた。一つだけ違和があるとすれば、その愛らしいそばかすの左頬には、何故だかわからぬが痛々しい傷跡が見えることだけだった。

「さくら。お前ェ全然変わらねえな。」

彼はそう言ってにかっと笑うと私の頭を撫でた。私は何かを言いたいはずなのに何も言い出せなくて、ただただ彼の手を受け入れたまま、静かに息をしていた。私たちが立ち止った先にある電燈が、私の呼吸に合わせてかちかちと静かに明滅して、間遠にゴーン、と鐘の音が聞こえた。目の前の彼の誕生の日が、こくこくと近づいていることを私に伝えた。


2016.01.27.

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