びゅうびゅうと風が唸り声をあげて、二重窓ガラスを揺らす。先程から足元でボールを転がして遊んでいた変な髭を生やした白犬はすっかり私に慣れたらしく時折腹を出してくつろいでいた。生まれて初めて座ったロッキングチェアーをゆらゆら揺らしながら、まるでいつか見た洋画の中のワンシーンみたいだとくすりと笑って、テーブルの上に空いた袋のチョコレートがあって手に取った。キスチョコレートの包み紙を暖炉の中に投げ入れた。ぱちり、とはっきりと何かがはじけて消えていく音がした。暫くはテーブルの上のカメラをひとりでに触れたり、この部屋に飾られた数々の写真や新聞や雑誌のスクラップ、本棚の英字の本たちなどを触れたり見たりしていた。もうだいぶ日は立っているというのにこの辺りは白夜のようでうっすら遠くに太陽が見えた。とても不思議な感覚がする。先程エースが持ってきてくれたブランケットをひざにかけて、冷めてしまったココアのマグカップを手に取り口に付けた。時折南極の本当の静寂が個々を包み込んで一人ぼっちになってしまったような感覚がするたびに、足元で白い子犬がブランケットを揺らして現実へと連れ戻してくれた。手に取った一冊の本をペラペラめくると、無数の白黒の写真が載っている。真っ白な世界におとこの武骨な手で握られた石や、何か墜落したらしい地の後。それを指でなぞって、それから目を閉じて深呼吸をする。

「…………」

再び瞼を開けば、視界には自分の座るロッキングチェアの目の前のベッドに横たわり静かに呼吸を繰り返す大きな胸板を眺めて、それから今度はその胸板から延びる管を眺めた。彼はゆっくりと呼吸を繰り返して、それからゆっくりと瞼を開けた。スローモーションの世界に入ってしまったかのような感覚に陥る。バンダナをつけた頭を枕に預けて、首を動かすことなく私を見据えた。目が合って少しだけ目を見開けば目の前のそれは相対して目を細めた。まつ毛もその齢に似つかわしく銀色に輝いていて、そのくせその瞳は鷹のように鋭く美しいハシバミをのぞかせている。口角を上げて静かにふう、と息を吐くとそれは突然、ようやく口を開いた。

「…寒いのは平気か。」
「どちらかというと苦手です。」

私がそういうとふ、と笑って、それからしばらく再び黙った。私は彼が話すのを待っていた。閉ざされた扉の向こう側からは未だに人が入ってきそうな気配は感じられない。

「枝垂さくらと申します。」
「ああ。そうだろうな。」

目の前のご老体は(と言っても体はすこぶる丈夫そうで大きい)息を吸うとようやく上半身だけ起き上がり、そしてゆっくりとこちらに体を向けた。そして私を見据えると暫く黙った。まるでシロクマや大きなクジラを前にしてような感覚がして、視線を動かすことさえ躊躇われるようであった。暖炉の火の明かりが銀色の髪を照らす。じりじり日が焼ける音が部屋に響き、ご老体は私じっとみたまま静かに笑んでいた。

「馬鹿息子の恋人にしちゃァ上出来じゃねえか。」

グラララ、と満足そうに笑って、それから豪快にせき込んだので思わず駆け寄ろうとすればそれは彼の右手でさえぎられた。安心しろと言わんばかりに右手をひらひらさせて、其れから傍に置いてあった銀色の容器を取り出すとそれをごくごく喉を鳴らしながら飲み始めた。微かにアルコールの香りがあたりに漂う。思わず大丈夫ですかという風に視線で訴えれば、彼はにかりと白い歯を見せ、悪戯っぽく笑ったかと思えば傍にあったきれいなグラスに銀色の容器の中に納まっていた液体を注ぎ入れた。そしてそのグラスを私に差し出した。思わずおどろいたが、断る理由もないし(かといって飲む理由も今の状況じゃ見当たらないのだが)、おどおどとそれを両の手で受け取ると傍に寄った。

「飲めるか?」
「好きです。…でも、テキーラはあまり飲まないかな…」
「一口でも構わねえんだ、付き合ってくれねえか。」

そう言われてこくんとうなずいてぎこちなく笑えば、彼はその目を優しく細めてささやかな乾杯と言わんばかりに私の持つグラスに銀色の容器を軽くぶつけて再び口をつけた。私もグラスに口をつけてゆっくりとそれを飲み干した。じりじり熱いそれは口内を通り抜け、あっという間に喉を焼け付くように通り過ぎていった。胃に到達してキスチョコで占領されていたお腹を滑り込んでいく。

「火傷したみたい…」

ぼそりとつぶやいて、もう一度グラスに口をつけてひっくと肩を揺らす。それを見た目の前のおじさまは心底驚いたように目を見開いたが、あっという間に空になったグラスをみて再度驚いたような表情を見せた。

「…ごちそうさまでした。」
「無理しねえでもよかったんだ。平気か?」
「ええ…ええ、ちょっと、お水貰えれば大丈夫です。」

そう言ってもう一度座っていたロッキングチェアに腰を下ろして、ふう、としんこきゅうをした。足元では尻尾を振って舌を出す白い綿あめが転がっていて、思わずくすくす笑ってしまった。テーブルに広げられた白黒写真集の書籍を再度みて、白黒の表紙画面にはっきりと金色の字で書かれた英字が見て取れた。

『1969年、南極  Edward Newgate』




▼△





「……日本の南極探検隊が隕石の研究を南極で始めたのは1969年からだ。やまと山脈で見つけたのがはじまりだと、古参のおっさんに聞いたよい。」
「何で南極に隕石ばっか来るんだ?」
「俺は残念ながら学者じゃねえから詳しくは知らねえが、地球との磁場とか関係しているらしい。やまと山脈は日本の昭和基地の近くだ。俺たちの基地(ベース)もほど近い。後でさくらと見に行くといいよい。山脈の麓にいくらか見えるだろう。」
「はっきり残ってるもんなんだな。」
「そこが南極隕石の面白いところなんだとおっさんも言ってたよい。意外に小さいんだ。人間の拳位のはよく見るらしい。」

男性複数人の話し声が間遠に聞こえて、うっすらと意識が浮上する。ぱちぱちとささやかな暖炉の火の音と一緒にごうごう風が鳴る音が聞こえる。

「………」
「あ。起きたかい?お嬢ちゃん。」
「………フランスパン?」
「寝ぼけてんな、かわいいじゃねえか。なあ、エース。」

おかしなことに、私の視界には間違いなくフランスパンのような髪型をした男性が横たわっている
。いや、横たわっているというのはちょっと語弊があるだろうか。頭の下に感ずる暖かな熱にかすかに手を触れて、それから自分が今どのような状況にあるのかを考えることにつとめた。ゆっくりと起き上がると視界の横にあった男性はようやく正しい位置に視界に移った。そして横を向けば見慣れたそばかすの頬青年がもぐもぐと頬をハムスターのようにいっぱいにして何かを咀嚼しているのが見えた。起き上がる際に落ちてしまったブランケットを手に取りひざにかけた。どうやら私はエースの膝に寝かされていたらしい。

「水飲むか?ほら。」
「すみません…」

フランスパン基ラテン風のフレンドリーそうで女性の扱いにこなれた様な振る舞いをする目の前の男性はすかさず新しいグラスにミネラルウォーターを注ぎ入れると私に差し出してくれた。其れを一気に飲み干して一息つくと、自分は水を随分欲していたのだなと妙に感心して、なぜ急に意識がなくなり寝ていたのかを思い出そうと必死に考え始めた。と同時に目の前の男性はにこやかな手つきでもういちど私の手の中のグラスに水を注ぎ入れてくれた。

「テキーラコップ一杯一気飲みとは随分冒険家なんだな、お嬢ちゃん。」
「ああ、そういえば…私、」
「俺はサッチだ。こいつらと同じ、ここのクルーの一員でね。一応班長みたいなことと、料理も少しばかりしてる者だ。」
「私は枝垂さくらと申します。サッチさん、ありがとうございます。」

そう言って礼を述べれば彼は軽くウィンクをした。いい人そうでマルコさんとはまた違う雰囲気と魅力を備えた人物であるようだ。遠慮なく水をごくごく飲んでいれば、となりでいつの間にかぐうすかしていたエースが急に起き上り、それから私を見て呆れた顔で口を開いた。

「つうかいくら親父に勧められたからって、テキーラいっぱい飲み干すのはねえだろ。」
「そのくだりはもう終わったんだよエース君。何だよ、寝てる顔もかわいいが、起きてる顔も何万倍もかわいいじゃねえか。ぐうすか寝てるやべえ癖持ってるお前には随分もったいないな。」

サッチさんにそう言われてようやく思い起こしたが、私はつまり自分の寝顔を多数の人に見られてしまったということになる。そう意識した瞬間、なんだか気恥ずかしくて頬が熱くなったが、もとはと言えば私があんな強いお酒を慣れもしないのに一気に飲んで勝手に意識を失ったのが悪いのだ。よくよく考えれば、ここは南極であり、もし大事になれば救急車も来ない僻地なのだから、もう少し考えてあそこは飲むべきであったのだ。親父さんにもさぞご迷惑をかけたろうと今更顔が青くなり、思わずそわそわしておればエースが首をひねって私を見てきた。

「何だよ慌てて。」
「親父様にご迷惑かけちゃった、どうしよう…」
「迷惑っつうか驚いてたけど、お前がぐうすかでっけえ寝息立て始めたから安心したとさ。」
「……サイですか、」
「安心しろよ。お前がもしあん時急性なんちゃらになったとしても、優秀な医療チームがここにいんだ。でなけりゃ、あんな管巻いた72歳南極に住めねえよ。」
「あ、そか。」
「まあ、何もないに越したことがないけどな。元気そうで何よりだよい。親父に会ってちょっと緊張してたんだよな。ずっと死ぬほど寒い上に、くたくただったもんな。」
「すみません、マルコさん。」
「いや、俺は何もしてねえよ。けど念のためにあとで寝室に行く前にでも親父にその元気な顔見せてやってくれねえか?」
「わかりました。」

マルコさんの言うことにうなずいて、それから目の前に差し出された美味しそうなオニオンスープを遠慮なくスプーンですくった。暖炉のおかげか、ここは外の景色とは違って暖かである。

「ここじゃあ、肉はすげえ貴重なんだ。ちゃんと食って元気出せよ。」
「うん。ありがとう。」

エースに差し出された干し肉の見たことない料理を口に運び、パンをちぎる。オニオンスープに浸してお肉と食べたら最高に美味しかった。ほくほくのジャガイモとベーコンやブロッコリーの温野菜に独特のソースが掛かっているのも美味しい。よもや、犬肉が出てきたらどうしようかと怖かったが、どうやら少なくともここの料理長はそう犬肉は出しそうにないだろうと、セバスチャンと戯れるサッチさんを視界に写してそう思った。

「物資が豊なんですね。」
「俺たちは国営とは違って民間だしな。最近は国営でも潤沢に物資は今の時代提供してくれるだろうが…制限がある国もあるみたいでな。煙草や酒とかの嗜好品切らしてたまにくれって来るほかのベースの奴らも結構くるぜ。」
「ふふ、お隣さんがお砂糖を借りに来るみたいですね。」
「そんな感じだよ全く。お互い様だから基本的に分けてやるさ。あとは俺たちはクルーの数だけは多いから、頻繁に人間が行き来してて物資には困らねえんだ。だからこの辺の人間には一定の需要がある。リクエストがあれば日本酒も出せるぜ?」
「いいえ、暫くお酒は控えようかなと…」
「はは、懸命かも知れねえな。ここに慣れるまでは。」

空腹だったお腹を満たし、外に出てみたいとエースに申し出れば別にいいと許しが出たので一緒にそのあたりを散策することとなった。嵐、ブリザードになればすぐに帰らなければならないが、不思議なことにさっきまでびゅおびゅお言っていた風が今は和らいでいる。うっすら地平線が明るいのは白夜のせいだ。昼間のようで空と雪の城が溶け合う世界が美しい。今気が付いたが、このごおおおおという音は風ではないらしい。自分が持ってきたコートと基地の皆が貸してくれたコートと履物をしていざ外に出ると、やはり屋内と屋外ではまるで地獄と天国のような違いがあった。

「寒ィ」
「寒いっつうか、普通に痛い」

いそいそとエースの背中にくっつく。一歩、また一歩と進む。ぽつぽつ光が遠くに見えるのは、他国のベースなのだろう。煙が出ている。ごおおおお。耳の奥につんざくような白銀の大地が私に問いかけるようだ。

「親父さんはどうしてここに来たがったのかしら。」
「用があったんだとさ。」
「何の用だったの?」
「さあな。前にも言ったかもしれねえけど、まだ達成できてねえからずっとここに居んだよ。」
「そっか、よくわからないけど、きっと難しい話なのね。」

首から下げたニコンを起動させる。奇跡的に通常通り作動する。パシパシという機械音がごおおおに溶け込む。エースはぼうっと地平線の向こう側を見詰めている。その横顔も盗み撮り、それから振り向いて私たちの基地を移す。まさに、絶海孤島の灯台のような暖かな光だ。暗闇の中一人ぼっちで彷徨った中でこの光を見た人は、どれほど救われた気持ちがするだろう。気が付けばエースは数十メートル先を歩いていたので、私もざくざくと慌てずゆっくり彼の背中を追った。椅子のような形をした氷に腰を掛けて、エースは自分の膝の上に座るよう指示したのでこくりとうなずいて言われるがまま腰を掛けた。先ほど私が首を預けていた固い膝だ。

「風の音がすごいのね。空気が綺麗だからかな?」
「親父は地球の声だとも言っていたな。」
「地球の声?」
「ああ。地球の音なんだと。」
「ふーん。パパやママにも聞かせたいな。」
「日本にいても聞こえるさ。だけど、余計な音や空気がきたねえから聞こえないんだとよ。ここは、数十万年前から、何にも変わっちゃいないんだとさ。」
「そっか。それにしても、黒いところがあるのね。」
「山脈だ。この辺には巨大な岩場がある。やまと山脈っていうらしいぜ。」

やまと山脈ときいて、どこかで聞いたことがあるなとしばらく考えていたが、そういえばうっすらと先程意識がぼんやりした時に聞いたのだと微かに思い出した。随分日本風な名前だなと思ったが、そういえばここは日本の基地に程近いのだと思い出して納得がすこしいった。分厚いコートから感じるエースの熱と腕の締め付けと、視界に移る世界に何だか涙が出そうになった。鼻を啜れば風邪ひいたかと頭上から小さく問いあけられたので、首を横に振った。

「親父に会った感想は?」
「なんか、意外にあっけなかったかも」
「何だそりゃ。」
「ここに来る数週間どんな人なんだろうってすごく緊張した。実際あっても緊張したけど、あった時、扉を開けて静かに部屋にはいった時、すやすや寝ている顔を見て、パパを思い出したの。」
「………」
「本棚のたくさんの写真を見ていたら、そんなに話さなくても親父さんがどんな人なのか、なんだか説明されるよりもよくわかった気がしたし、それと同時に、ようやく会えたのに何だかやっぱり遠い存在に思えたわ。」
「どういうことだ」
「エドワードニューゲートの作品は全て才能の結晶だった。私には、とてもじゃなけど到底勝てないしろものなんだと、まざまざとそして静かにそう問いかけてくるような本ばかりだった。」

静かにそう言ってカメラを手に取る。うっすら明るい地平線がゆらゆら揺れているのがレンズ越しにみえた。エースは何も言わ無かったけれど、肩を小刻みに揺らして、それから喉をくつくつならしているところを見るとどうやら笑っているようだった。

「なによ、人が絶望したところを見て面白い?」
「上出来じゃねえか。世界の果てで絶望できるなんて、そういるもんじゃねえぜ。」
「まあ、確かに。」
「それに、本当に絶望した奴はそんな口の利き方はしねえさ。お前自身も言うほど絶望なんかしてねえだろ。むしろ、うれしそうに見える。」
「そう?でも、そうだね。久々に感動した。月並みな言葉で本当に恐縮だけど、世界は広いんだって、ようやく実感したかも。」
「そりゃよかったな。」

そう言ってごしごしと帽子の上からガサツに撫でられたので手でさえぎろうとすればその手はがしりと掴まれた。そして何か考える隙も与えぬような速さと、そしてごく自然な成り行きのような手つきであごをひょいっと柔くつかまれた。絶対零度の世界にさらされて冷え切った唇に、仄かにあたたかさを感じると同時に、視界が薄明りから薄暗くなり、一瞬だけ、世界が音をなくしたような気がして瞼を閉じた。


2018.05.03.

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